「女性の二面性の怖さと、愛に目覚めた女性の強さ」レベッカ(1940) Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
女性の二面性の怖さと、愛に目覚めた女性の強さ
ヒッチコック監督がハリウッドに引き抜かれて最初に発表し、アカデミー賞の作品賞と撮影賞の2冠に輝いた記念碑的作品。個人的鑑賞経歴は、12歳で淀川長治さんの日曜洋画劇場で初めて観て、16歳の高校2年の時に月曜ロードショーで再見しています。テレビで観た映画の感想を記録し始めたのが、この高校2年生からでした。その年のテレビ鑑賞の洋画108作品から選んだ年間ベストテンでは第9位に挙げていて、とても好感を抱いたことは記憶しています。しかしそのレビューを読み返してみると、抽象的な印象しか書いていない全くの駄文でした。如何に文章能力が無かったかを自覚すると同時に、どう感じたかの雰囲気だけで終わっています。屋敷のマンダレー、主人公貴族のマキシムの言葉の響きに魅了されて、幻想的なシーンの神秘的ムードと家政婦ダンヴァース夫人の異様な怖さ、そしてラストの邸宅が炎に包まれて焼き崩れるクライマックスの迫力に感動したと残しています。
50年隔てて見直した第一の感想は、これはヒッチコック監督のサスペンス映画と言うより、原作者ダフニ・デュ・モーリエが創作したストーリーの面白さが作品の魅力の凡そを占めているという事でした。タイトルの既にこの世に存在しないレベッカが家柄の良さと知性を備えた誰もが認める美貌の女性だったと言え、その姿は具体的には解りません。彼女の専属家政婦として一緒に城のような大邸宅に来たダンヴァース夫人が崇拝するほどに、完璧な貴婦人として君臨してたことだけが、もう一人の主人公の“私”を気後れさせます。上流階級のヴァン・ホッパー夫人の付き人の仕事から、大資産家のイギリス貴族に嫁いだシンデレラガールの幸福感は新婚旅行まででした。前半の見所は、この“私”が慣れない貴族的な優雅で贅沢な生活に引け目を感じながらダンヴァース夫人の無言の威圧に耐えかねる姿を執拗に描いているところです。邸宅内で迷子になるのを始め、ヒッチコック監督の演出もこの点を強調していました。その一つの例が、マキシムと一緒に新婚旅行の8ミリを観るシーンです。この幸せが永遠に続くといい、と言う台詞でフィルムが切れる演出がいい。スクリーンの光の反射を浴びる顔を捉えて、結婚生活に不安を感じる夫婦の会話がなされます。光の点滅と、暗い室内の僅かな光源で見える二人の顔のモノクロ映像の効果的な照明と撮影。レベッカを不幸に事故で亡くしたマキシムも、失った悲しみから立ち上がれないようで、新妻の不安を取り除くこともできない。
ところがマンダレー邸の近くで難破船が座礁してヨットが見つかってから一気に展開するレベッカの死の原因が分かる結末は、前半に抱いたレベッカの正体を覆し暴くが如く衝撃的、且つ犯罪事件を見逃してハッピーエンディングの予想困難なものでした。これはデュ・モーリエの見事な話術とトリックも使った種明かしの面白さです。人間誰しも少なからず表の顔と裏の顔をもつことで、公私のバランスを保ち社会の一員として生きれるものですが、それを冒頭のヴァン・ホッパー夫人で描いている巧さ。“私”を下僕のように扱う彼女は、マキシムの前では礼儀を弁えた夫人としてマナー通りに振る舞います。裏の顔は支配下に置いた人間にしか見せない。これは上流階級の人間に多いとする作者の皮肉も感じます。レベッカがそのホッパー夫人どころではない、放蕩のための偽装結婚の末愛人を作り夫マキシムを蔑ろにしていた悪女だった。離婚を避けたかったマキシムはレベッカの支配下に甘んじていたことになります。ここで漸く、“私”が愛するマキシムの為に奮い立ち、彼に常に寄り添い、女性として強くなるところがこのヒロインとしての役割でした。母性本能含め愛情の深さからくる女性の本当の強さ、それはどんな男性にとっても魅力的です。
一年前に海から上がった死体がレベッカでなく身元不明の女性であったことと、装飾品とヨットから遺体がレベッカであり、船の内部から穴があけられた痕跡で自殺なのか他殺なのかのクライマックスは、映画としては説明的でした。その前のマキシムが“私”にレベッカの最後の状況を告白するシーンと併せ、ヒッチコック監督の特別な演出は見られません。ベイカー医師が当時を思い出し、偽名を使ったレベッカの本当の病気が分かる驚きだけです。ここで創作の面白さが加わるのは、裏切りの妊娠をしたレベッカに侮辱されたマキシムの犯行だろうと脅迫するジャックの存在です。この男が“私”を見つけ窓の外から声を掛けるシーン。ダンヴァース夫人から紹介を受けて、そのまま跨いで室内に入るところに、このジャックという男の本性が垣間見れます。一応礼儀を弁えている素振りはしても、お互いに好きな男女の関係ならばいざ知らず、初対面の女性に振る舞う紳士としては無礼でしょう。
主人公を演じたジョーン・フォンテインは、この時23歳の若さ溢れるも美少女と大人の中間のまだ洗練されていない女優での出演。原作とヒッチコック監督要望のキャスティグではなく、製作者セルズニックが選んだ人選のようです。“私"としては美しすぎますが、常におどおどして怯える仕草を好演しています。マキシムの名優ローレンス・オリビエはイギリス貴族のような風格があり、前半の精神不安定な演技も見事。深読みすれば、不倫相手の子供を妊娠したとレベッカに言われ、怒りのあまりに彼女を殴ったのが原因で亡くなっていたかも知れない。事故か事件なのかのこの曖昧さも、オリビエの演技とヒッチコック監督の演出だから成立しています。また警察管区長のジュリアン大佐が終始マキシムに肩入れしているように感じられて、当時の上流階級に忖度する慣習が警察にあったのではないかと思えてしまいます。ダンヴァース夫人のジュディス・アンダーソンは、50年前に観た時に大変恐ろしく感じたものでしたが、今回はそれほどでもなく、ヒッチコック監督の演出の巧さもあると思いました。長い人生経験で少しは怖い女性の免疫ができたからでしょうか。それでも経歴を見ると舞台でマクベス夫人を演じたとあり、納得の女優さんです。嫌われ役ジャックのジョージ・サンダースも巧い。「イブの総て」の時ほどの演技ではないですが、礼儀知らずの嫌らしさが適度に出ていました。他脇役も全て手堅く、ジュリアン大佐のC・オーブリー・スミスは「哀愁」でもいい演技を見せています。ベイカー医師のレオ・G・キャロルは、「白い恐怖」「北北西に進路を取れ」などでお馴染みのヒッチコック作品常連の役者さん。「サンセット大通り」「陽のあたる場所」「昼下がりの情事」のフランツ・ワックスマンの音楽、サイレント時代から活躍する「群衆」「白い恐怖」のジョージ・バーンズの撮影も素晴らしい。プロローグの焼け落ちたマンダレーに近ずく幻想シーンのゴシック的な映像美は、マンダレー邸の室内シーンでも美しく見事で、セット美術も含めて、この映画の大きな魅力になっています。原作の雰囲気が丁寧に贅沢に再現されたハリウッド映画の良さがあります。またヒッチコック監督にしては、その得意のサスペンス演出が弱いとも言えますが、初めてハリウッドで制作しアメリカで認められた良作であることに異論はないと思います。