レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会うのレビュー・感想・評価
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さらにエッジの効いた間のとり方、静寂の使い方。
○作品全体
やっていることは1作目とほぼ同じでロードムービーっぽいけれど、間の取り方や静寂の時間の長さが全く異なる。バンドメンバーは多くいるのに無言の時間が長く、シュールさが更に加速しているように感じた。
1作目はレニングラード・カウボーイズたちのキャラクターに終始引っ張られていたけれど、作品にとって唯一の狂言回しであるウラジミールがモーゼになって帰ってくる(?)という謎なキャラ付けと、故郷への手土産に自由の女神の鼻をもぎ取る、という謎行動によって、彼らの行きつくところは一体どこなのかという部分が本作のポイントになっていたような気がする。
ウラジミールにやたらとビビり続けたり、反抗しつつすぐに屈してしまう行動原理がまったく謎なんだけれど、静かにパンや水を分け合って食べている姿を見ていると、なんとなく応援したくなってくるのが面白い。シンプルに故郷に帰って宴に興じる、というラストは、面白みはないけれど温かみがあった。
ただ、演奏シーンが1作目よりかっこよくなかったのが残念。
独特な間を楽しめるかどうかが、レニングラード・カウボーイズたちにハマれるかどうかカギになりそうな、ある意味エッジの効いた続編だった。
〇カメラワークとか
・凝ってるカメラワークというわけではないけど、大所帯のカウボーイズたちをカメラに収めるのに努力しているなあと思うカットが多い。ヘタしたらバラエティー番組のひな壇っぽくなっちゃいそうだけど、きちんと並んで座っている一方でやっていることはバラバラで、そういうところで飽きない画面作りにしていたような気がする。
〇その他
・本作では「カチューシャ」を演奏していた。またしても『ガールズアンドパンツァー』臭を感じる選曲。
・アコーディオンの人は今回もキャラが立っていた。
タイトルなし(ネタバレ)
旧約聖書やキリスト教の新約聖書のパロディのような映画だね。例えば、ウラジミールがバンドのメンバーに食をあたえず、演奏させて、もうけは全部自分の懐にいるるところ。それは、(エジプトの人は)監督(ウラジミール(Matti Pellonpää) )を置き、バンドメンバー(イスラエルの民)を苦しめている。他にも、シベリアの地にモーゼ、ウラジミールは戻ってこない(エジプトを逃れカナンの地に帰るが、モーゼはでカナンの地に戻ってこなかった。)皆が、バスで国境越えをしているが、モーゼ、ウラジミールは空のボトルを税関に提出している。バンドは家に戻り、生まれたばかりの子牛にプレゼント(馬小屋でキリストが生まれた時、東方の三博士がイエスを礼拝しに来る)。家族は帰還を祝って盛大なパーティーをする。(放蕩息子の帰還を祝って、祝賀会をする)などなどと、風刺風に描いている。
River of Babylon も詩篇の137からの詩
ドイツの ライプツィヒ でモーゼ、ウラジミールはバンドメンバーと聖書と共産党宣言の文章を交換する。ここのところが理解不足であった。共産党宣言と聖書の比較の意味が何をもたらすか?よくわからなかったけど、監督は両方ともに好感を持っているように感じなかった。
『救うのはキ●ストだ。モ●ゼは商売をする。』
アメリカはソドムとゴモラの地なんだね。
やっぱり、NATO軍出てきましたね。
プロレタリア独裁の訓示とユダヤ教(キリスト教)の比較がありましたが、共感できますね。
『must』って言われてもなった試しがない。
ライプチッヒで突然『バビロンの河』が登場した時には鳥肌が立ちました。
やっぱり、中央ヨーロッパから東のスラブも含んだヨーロッパって大乗キリスト教(個人造語)で『信じればみんな救われる。』それで、西ヨーロッパって『ユー・レイズ・ミー・アップ』で、『磨けば自分はスキルアップする。』つまり、小乗キリスト教(個人造語)なんですよね。
さて、この人達の音楽随分とエキセントリックなモダンなロックに見えるかもしれませんが、決してドリ●ターズ(日本国)やクレ●ジ●キャッツのマネではありません。これは少数民族のロマの音楽なのです。構成員の数や楽器の種類から分かります。
チャイコフスキー交響曲第6番『悲愴』で締めくくる。
そして、ベラルーシかウクライナの地でアメリカの元CIAが『いとしのクレメンタイン』を歌って終わる。走る穀倉地帯から見て、ロシアではなく、ウクライナの黒土穀倉地帯。
追記
もみの木(?)にガソリン(?)かけて燃やすシーンはひょっとして、タルコフスキーへのオマージュ?鳥肌が立つ。
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