「誰も描かなかった反転された青春の光と影」リリイ・シュシュのすべて 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
誰も描かなかった反転された青春の光と影
中高生の時期は坩堝の様に、学校的現実の中にいやおうなしに味噌もクソも一緒に放り込まれ、人間関係の炎で炙られる。それがある者には天国で、ある者には地獄となる。
そのような青春期の日々を、我々は普通に体験してきている。例えば私の高校時代は、クラスを支配する少数の暴力グループによる精神的被虐の色に染められており、集中的にイジメの対象となった生徒は夥しい骨折を負った後、学年末を待たずに退学し、イジメたグループも退学させられていった。授業中に性的虐待を受けていた生徒さえいる。
青春期にとって世界はあまりに美しく見える。それだけに、学校的現実の秩序にひれ伏し、イジメにより理想など蹴散らされ、自分を何ひとつ信じられぬ無価値な人間と思い込まざるを得ないのは過酷というしかない。美しい世界と自分は無縁であり、そこに自分の居場所は用意されていない。幼年期の終わりと同時に人生に絶望していく子どもたちが、現実に多数存在するのを我々は知っている。
こうした現実を「青春」という甘いフィクションにくるみあげるのが、従来の映画や小説のお定まりのルールで、そこにはリアルなど欠片も描かれていなかったといってよい。
本作は、「青春そのものが地獄だ」という中高生の日常の一面を初めて映像化した、画期的な「青春映画」だと思う。
本作の主人公の少年は、手ひどいイジメグループの末端の被害者でありながら、同時に同級生の少女の売春やレイプの手引きを行う加害者であり、もはやあらゆる理想に手の届かないクズの日常を過ごしている。
現実に居場所がない彼は仮想空間に逃避し、リリイ・シュシュの楽曲やネットによる書き込みを通じた自己解放で、かろうじて「エーテル」を獲得することだけに救済を見出している。「エーテル」とは生きる理由である。したがってそれを失うことは、生きる理由を失うのに等しい。
ところが恐るべきことに、同じ「エーテル」を共有していたはずの仮想空間の友人が、実は現実空間のイジメグループのボスであることが判明してしまう。もはや彼は仮想空間からも追い立てられざるを得ない。生きる空間を確保するため、最後に彼は決死の覚悟で自分の生の障害を除去する賭けに出る…。
これは何という、反転された青春映画だろう。しかし、明らかなリアルがここに存在する。それが観客を怒らせ、目を背けさせるのだ。
光と陰影のコントラストを多用した映像と、「印象主義的」と評されたドビュッシーの煌めくようなピアノ曲が、これら青春の光と影を強調している。
この作品を何度も見るのは気が重い。でも、あの美しいシーンたちにもう一度出遭いたいと、また見てしまうだろう。