「画の迫力にのめりこむ。…けれど、脚本にキレがない。」乱 とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
画の迫力にのめりこむ。…けれど、脚本にキレがない。
『マクベス』の翻案として、未だに追従を許さない『蜘蛛巣城』。
それに比べると、『乱』では台詞回しが『リア王』そのままでこなれていない。
シェイクスピアは、掛詞や逆説的な台詞を駆使し、当時の世相・哲学を圧倒的な会話の量で畳み込む。だから、一見、『乱』も哲学的なことを言っているようだけれど…。
それでも、画の迫力はすごい。
『アラビアのロレンス(アカバへの奇襲)』を彷彿とさせる、騎馬隊の躍動感。
アカバへの奇襲でも、ラクダから落ちた人が踏みつぶされないかと演者も鑑賞者である私もハラハラしたが、
この映画でも、落馬した人の中に、馬に踏みつぶされる、蹴られる等で大怪我した人がいないのかと言う映像が目白押し。演じられたのは、スタントマンか、大部屋俳優か、エキストラか。よく引き受けたな。
城炎上。その中で演じられる仲代さん。
『魔界転生』のクライマックスも迫力だが、この映画では飛んでくる火矢。『蜘蛛巣城』でも、演じる三船さんめがけて、本当に矢を放ったと聞くが、今度は火矢。なんたる役者の豪胆さ。仲代さんは、三船さんみたいに、怒りに任せて散弾銃を持って監督を襲撃したりしなかったんだろうか?
城炎上。台詞なし。音楽だけが流れる7分間。滅びへのレクイエム。演技だけで魅せてくれる。仲代さんの無念さ・狂気。
一発の銃声から、その映像で繰り広げられる音の乱射。わずなかな台詞。合戦のすさまじさ。
そのような、迫力ある画の反面、森の緑を背景にした、各兵士の色の美しさ。
大殿・太郎・次郎・三郎、綾部・藤巻…。その兵。眼福。
色とりどりの花が咲き乱れる長閑で天国のような風景に、狂った大殿とその傍らから離れない道化師。妙味。
かたや、一面の鼠色と白い岩。荒涼としつつも地熱を帯びた舞台。
地獄か、そこで会うのは仏か死神か。
とにかく、画に惹きつけられ、魅入ってしまう。
けれど、脚本にキレがない。
『マクベス』の肝要なエッセンスを残して、後は、能の様式美をふんだんに取り入れて、日本の物語に昇華させた『蜘蛛巣城』に比べ、『乱』は『リア王』の台本をそのまま訳したか?と思ってしまう部分が散見される。
その一つ・狂阿彌。
シェイクスピアに生きたエリザベス1世を始めとするヨーロッパの王家・貴族に使えていた宮廷道化師。シェイクスピアの劇によく登場する、役や物語の裏設定や本音を語って見せて、劇に重層的な広がりを見せる役目。深刻な劇のコメディーリリーフであり、バカげた展開の中で、正気を語る役。舞台で繰り広げられる主筋を、外から見ている観客の心の声ーにこちゃん動画のコメントのようなーそんな台詞を投げ込む役。
ピーターさんは善戦。さすが上方舞の名取。若き野村氏の所作に比べるとふらついてはいるが、それでも狂言的な所作も魅入ってしまう。
けれど、日本人に宮廷道化師はなじむのか?台詞があまりにもシェイクスピア的で、『リア王』の台本と比べたくなる。舞台なら、時に観客の方を向いて、主筋と観客をつなぐ役目もするし、緊迫した場面でのちょっとした息抜きにもなるが、この映画では、大殿のお世話係として、物語にどっぷりつかってしまうから、本当の意味での、道化師の役目となっていない。
そして、白けたのが、ラストシーンでの台詞。
今回の上映についていた講師の話では、監督は「天の視点」を描きたかったと聞く。だからか、宗教的な”神”の代弁とでもいうべき台詞がそのまま何のひねりもなく語られる。
エリザベス1世の頃はプロテスタント系と聞くがベースはキリスト教。唯一神を信奉し、神がすべての運命を決定する世界。ソドムとゴモラを消滅させた神。ノアの箱舟のエピソードの紙。『乱』ではその神を仏教に変えているが、そもそもの宗教の存在意義が違う。そこを精査せず、そのままスライドさせているだけ。台詞も練ることなく、ここもあまりにシェイクスピア的な言い回しなので、『リア王』の台本と比べたくなる。
能の世界観も中途半端。監修はつけているが。
『蜘蛛巣城』における鷲津の妻・妖婆に匹敵するのは、楓の方。原田さん善戦しているが、山田さんが能面のような表情ですり足でスーッと動く、浪速さんの存在感に対して、原田さんは生々しくて動きが派手。その分、駆け引きの裏に人間らしい恨みが見え隠れして怨念が漂ってくるが、鷲津の妻や妖婆のような不気味さが無くなる。わざと演出を変えたのだろうか。
そうすると、能の世界観はどこに?大殿の所作と、鶴丸の所作だけ?演者ではなく、もっと大きな舞台装置や兵たちのフォーメーション?
それでも、大殿と楓の方、狂阿彌、藤巻、鉄はまだその人格・生き様がその人らしかった。
他はどんな人物なのかぼんやり。
太郎が楓の方の尻に敷かれている様、次郎の背伸びは見て取れるが、それ以外に人物像が全く見えない。物語のカギを握る人々だけに、物語に面白みが欠ける。三郎に至っては、藤巻が三郎のどこにほれ込んだのか理解不能なくらいに人物像が見えない。大殿に恐れずに反論するところ?大殿に直射日光が当たらないように木陰を作ってあげるところ?それだけで、追放された三郎を娘婿として迎え入れるのか?
そして最大の残念さは中盤のクライマックス後がやたらに長い。予告を見た時点では、これがクライマックスかと思ってしまった。
川を渡っていく兵たちの躍動感、兵のフォーメーション、城が焼け落ちる様と画的には見どころがあるが、物語に緊迫感がない。
武将や楓の方の謀議が長い。『蜘蛛巣城』で三木暗殺を幽霊姿で表現した圧縮した演出と演技に比べるともたつく。物語に勢いが無くなる。
この映画の大殿は監督がご自身を投影されたものという話も読んだ。だから、大殿が地獄を彷徨っているような描写が必要に続くのか。こちらが本当に描きたかったところなのだろうか。
『蜘蛛巣城』では、マクベス夫人の狂気を、たったワンシーンで表現した。山田さんの演技が光る。
対して、『乱』でだって、大殿の狂気を、楓の方の無念と恨みを、ワンシーンで表現しきるだけの技量をもった方が演じているのにと、もったいなく思う。
つい、『蜘蛛巣城』のように、シェイクスピアのエッセンスを咀嚼して昇華した映画を期待してしまい、この映画への満足度が低くなる。
(講演会付き上映会にて鑑賞)