「「物語」としての純度の高さに感動する」Love Letter あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
「物語」としての純度の高さに感動する
何度もリバイバル上映されてきた作品であるが何故このタイミングでと考えてしまう。
もちろん封切りから30年の節目であり主演女優が亡くなったばかりということはあるが、フジテレビジョンの危機的状況の中で、TVコマーシャルをバンバン打っての再登場は、いかにもといった感じはする。常に他人のため、会社のために利用されてきた主演女優の短い人生を思うと亡くなってもなお、との感慨を抱かざるを得ない。
さて作品。一人二役が物語のベースになっている。普通、一人二役だと2人が出会ってしまったり、すれ違ったりするところがクライマックスシーンになることが多いが、この作品では小樽でのそのシーンは中盤に置かれている。
クライマックスに向かう後半部分は、博子からみた樹(M)への思いと、樹(F)からみた樹(M)の思い出が交互に現れ物語は進む。「思い」と「思い出」とわざわざ書いたとおり、この二筋のエピソード群は非対称である。博子のエピソードには樹(M)の実像は全く登場しない。片や、樹(F)のエピソードは中学校時代の樹(M)の記憶のシーンだけで構成される。
実は、博子は樹(F)が中学校時代、美少女であったことを卒業アルバムで見てしまっている。そして自分に似た彼女が樹(M)の初恋の相手ではないか、自分は彼女の代役ではないかという疑念を持っている。だから二人の藤井樹がとのような関係だったのかを事細かく知りたい。(おそらくは本人もあまり意識はしていないが)一方、樹(F)がまず思い出すのは同姓同名で迷惑を受けたこと、男の子らしく徹頭徹尾、無愛想な彼の姿だけである。
ところが、博子に請われて手紙を書くにつれ記憶が掘り起こされてくる。そして、映画のクライマックスの一つである貸出カードの裏に藤井(M)が描いた絵が発見されて届けられるシーンに行き着く。(本自体、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」であるところが印象的)
タイトルの「Love letter」は直接的には、最初に博子から樹に書いた「お元気ですか」の手紙を意味しているが、樹(M)が樹(F)の姿を描いたこのカードもラブレターであると思う。非対称のエピソードはここで見事に交差している。
長々と書いてしまったが、要するにこの作品の脚本は恐ろしいほどに技巧的である。ただ完成した映画作品が作り物の印象を全く受けないのは、もちろん手紙の交換というゆったりした設定であること、そして抑制的な演出のおかげであると思う。そして、出演者たちが脚本の意味合いや演出プランをよく理解し全力を尽くして表現を行ったからだろう。引き出されたのは人が人を想うときの精神的な純度の高さであり、それが純度の高い美しい物語に紡がれて今も我々の心に迫るのである。