羅生門のレビュー・感想・評価
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男は虚栄心から,女は狂気から嘘をつく.嘘をついているという自覚すら...
男は虚栄心から,女は狂気から嘘をつく.嘘をついているという自覚すらないのかもしれない.出来事に対して当事者として行為していることを,私たちはいつも客観的には語ることができないみたいだ.客観していた町人もまた,自分の行為についての認識が欠落していて,それを指摘されてうろたえる.それでもやはり,人を信じるという事をあきらめないという最後のシーンが印象的だった.自分にはやはり女性の狂気を描いている個所が特に気になって,盗賊の誘いを力強く拒絶した後に夫から拒絶される瞬間の女性の顔がとても印象的だった.自分の選択によって板挟みにあう女性と,そこからの感傷から狂気への変転.自分の引き出しの中に微妙に響きあうところがあって,それをもう少し掘り下げていきたいと思ったりもしたものだ
疑心暗鬼。人の心が信じられなくなりそうだ!
内容は、芥川龍之介の羅生門にインスピレーションされた時代背景の人間ドラマ。やっぱ一番印象に残ったのは、冒頭の『わかんねぇ』だろうなぁ。人間関係のドラマを真実と事実の違いを見せつけられる人間の弱さを凄いカメラアングルで捉えた素晴らしい作品。世界の黒澤明と言われるだけの事あります。そして最後には雨上がりと僅かな救いが心象風景として間接的に表現され90分という事もあり非常に楽しめた。
何度も観たい
と思うような映画ではないが、事あるごとに観てしまうような映画
原作に再び立ち返ろうとする気持ちを持たせてくれた時点で題材を
それに定め制作した監督の勝ちであり成功だと思うが、それが黒澤明
であるということは、後からで十分な知識であろう。
まず初めに映画タイトルありで制作陣、キャストで映画を選ぶ時代は
終わりだ。と思えた作品でもある。
そういう点ではさすが黒澤◎と本作感想は締めくくりたい。
一つの事件を複数の視点から映像化するコロンブスの卵的手法
1 ヒューマニズムへの疑念
1)冒頭と末尾のシーンと内容の齟齬
本作は初めに旅法師と薪売りが互いに「わからない」「信じられない」と人間性への疑念を口にし、最後に薪売りが捨子を養うと言い出す点に救いを見出すという、いかにもヒューマニズムを打ち出した構成になっている。その後の黒澤映画にそのような作品が多いから、これもそうなのかと思いきや、見ていると全く違う作品だということがわかる。
作品内容は、ある強盗殺人事件の当事者3人がその事件の経過をそれぞれ証言するのだが、驚くべきことにその内容が3人ともまったく異なる。これはどうしたことだ、というもので、いわば人間性に対する疑念を呈するものなのである。
2)同一事件に対する3人3様の証言と真実
①強盗は侍の女房をレイプした後、女を自分のものにしたくなり、自分が侍と正々堂々と戦い、相手を圧倒した挙句、殺害したと見栄を張る。
②侍の女房は、強盗の去ったあと侍を助け出すが、強盗にレイプされた自分を彼が軽蔑の目つきで見下したことから、動揺のあまり彼を殺してしまった。弱い女の心のせいで、その後自分も何度も死のうとしたが死ねなかったと、弱さを装う。
③巫女の口を借りて現れた侍は、女房が強盗に自分を殺すよう依頼したこと、しかしそれに呆れた強盗は2人を置き去りにして立ち去り、女房も去ったことを語った後、侍は絶望のあまり自殺した=殺されたのではなく自ら世を捨てたというプライドを見せる。
ところが、事件のすべてを目撃していた薪売りによれば、レイプ後、強盗に自分と一緒になるよう頼まれた女房は、侍と戦って勝てば頼みを聞くと返事をする。
強盗は勇んで侍の縄を切るが、解放された侍は他の男に抱かれた女などのために戦う意志などない。それを知った強盗も女への熱が冷めてしまう。
それを見た女房は、男2人のだらしなさをあげつらい、さっさと戦うようけしかけるのである。女にプライドを傷つけられた2人は、それまでの証言とは正反対のへっぴり腰で切り合い、最後には事故のようにして強盗が勝つ。女は逃げるが、もはや強盗には追いかける気力さえない。
3)人間のエゴとヒューマニズムの怪しさ
強盗は剛腕自慢、女房は弱さを隠れ蓑にした責任逃れ、貴族は世を捨てる意志によって、それぞれ自分の真実を隠蔽する。すなわち強盗は女房に土下座して自分のものになってくれと頼んだ情けなさを、女房は男2人を戦うよう仕向けた罪深さを、貴族は凌辱された女房から逆に蔑まれた挙句、殺された無残さを隠すということだ。
古来から訴訟があるところ、嘘があったわけで、そんなウソを前提に社会は運営されてきた。そこから見れば、日本に流布されているヒューマニズム、人間の善意と真実を信じよという時代思潮にはかなり怪しいものがある。
冒頭と末尾の薪売りと旅法師のことさら感、ちぐはぐ感をたどると、黒澤が本作に込めたテーマがこのようなヒューマニズムへの疑念だったのではないかと思わざるを得ないのである。
2 映像技法とドラマ性について
1のテーマはさておき、「映画技法の百貨店」と評された黒澤の手腕はここでもいかんなく発揮され、森の中の木洩れ日に浮かび上がる京マチ子の美しさ、太陽に直接向けられたカメラの描く逆光の眩しさ、証言の際の勇ましい戦いぶりと最後のへっぴり腰の戦いの対照、それらが美しい白黒画像を通して伝わってくる。
また、ドラマ性という面では、玉ねぎを剝いても剥いても次の皮が現れ、最後の最後にどんでん返しで落とすという、凝った仕掛けが施されている。
1に挙げたテーマはもはや陳腐化してしまったが、こうした映像技法やドラマの面では、現在でも鑑賞に堪えると思う。
(補足)
その後、芥川龍之介の『藪の中』を確認したが、原作にあるのは上記2)の①~③まで。薪売りの証言は映画オリジナルで、原作①~③をごっちゃにしたうえで、3人3様それぞれの醜悪さ、みっともなさを描くことに力点が置かれている。
原作を読む限りでは、あまりに3人の話が食い違うので、事実の捉え方の相対性というには無理がある。むしろ、「起こりえた3つの筋書き」を提示することが作者の狙いだったというのが素直な見方だろう。
ところが映画は、無理やり人間のエゴによる事実の捻じ曲げという話にしてしまったから、小生もそれに即して解釈してみたが、やはり強引な感は否めない。その意味では、作品の完成度には疑問符がつかざるを得ない。
ただ、一つの事件を複数の視点から映像化するという手法は、黒澤のコロンブスの卵的な独創性として今後も残り続けるのではないか。
ギラギラ&ダラダラ
タイトルは知ってるけど、見る機会がなかった名作。世界のクロサワじゃ。
デジタルリマスターなので、画像は良くなっているんだろうけど、音声は時々聞こえづらい。雨の中の羅生門が特に。でもまあ、少し気になる程度かな。一番印象に残ったのは、汗。ものすごいダラダラじゃないの。よほど暑かったんだねぇ。
三船敏郎が若い。野性味がプンプン。真砂はけっこう多襄丸がタイプだったんじゃないの? それか、どこか安穏とした暮らしに収まらない、破滅願望の女。そういう女と気付きながら、黙っていた夫。この夫婦には、すでに隙間風が吹いていたのかも。そして、どちらもプライドが高い。
今見るとそれほど新鮮に感じないが、クロサワチルドレンがたくさんもどきを作って、それを見ていたから、そう思うわけか。今この時代に見るのは、いわば遺跡の発掘作業のようなものかも。
そういえば、ほぼ同じ内容で、天海祐希、豊川悦司、金城武で映画になってたと思う。天海祐希が脱いだ、というプレミア付き。金城武は好きなんだけど、今何してるのかな。すてきなおじさまになってそう。
NHKのデジタルリマスター版の放送にて。
日本知性の宝庫
この作品のすばらしさは既に様々な指摘や研究がなされている。それ以上に、この原作が芥川龍之介と言う天才がおり、その彼が目を付けた今昔物語集と言う世界に類するもののない物語コンテンツの宝庫を歴史的に抱えて来た日本なればこその子の映画ではないだろうか。他の方が指摘している本来黒澤が主演に原節子を切望したことや雨に墨汁を入れたり、日光を初めてフイルムに取り入れたり・・もう撮影記録一つとっても宝庫の極み。今昔物語集は手塚の「どろろ」と言う裏の最高傑作も生みだしている事をここで付け加えておく必要がある。もちろん多くの研究が指摘している通り「どろろ」は室町時代の百鬼夜行絵巻がその原点である。しかしその背景には平家物語や御伽草子がありそのルーツは今昔物語集へと辿ることはできる。日本に眠る多くのコンテンツの宝物殿はこれからも数多くの傑作を生みだし続けるであろう。シン・エヴァンゲリオンと言う物語のように。
羅生門効果という心理学用語のネタ元の映画
羅生門効果(Rashomon effect)。事実は一つのはずなのに「こうだった」という認識が三者三様であることに気がついた心理学者(確か家族療法家だったと思う)が、その現象に対して、この映画をヒントにして名付けた心理学用語。
皆”嘘”を言っているのではない。
そこで起こったこと、すべてを言語化するわけではない。何を取り上げて何を割愛するか、その取捨選択だけでも、三者三様の物語ができる。
加えて、内的真実(自分にとっての真実)としてそう思い込む。過去の出来事がこうであったから今経験しているのも「こうであるに違いない」と思い込むこと、認知の問題、自己防衛、情緒の問題、コミットメントの度合い…様々な要素からその人にとっての真実(内的真実)ができあがる。それは、時を経るに従ったり、いろいろな経験を積み重ねたり、見識を広げたり、心を豊かにし深めたり、自分と直面する勇気を持ったりすることで変化していく可能性を持つもので、だからこそ、心理療法ができるのだけれど。お互いの観方・そう見た背景を分かち合うことで「ああ、そうだったのか」その方の世界観が変わっていく可能性をも秘めたものであり、お互いの世界観に橋を渡せる可能性をも秘めたものである。
映画のレビューを拝読していても、同じ映画を観ているはずなのに、そこに何を感じ、好き嫌いはともかく、とらえ方にも様々なヴァリエーションがあって…。摩訶不思議。
ある男の死に至るまでの夫々の言動。
多襄丸は繰り返し言う。「どうせ死罪になるんだ。今更嘘を言って言い逃れしても仕方がない。本当のことを言いましょう」でもね、君の話や被害者の話を聞いている者からするとね、やっぱり自尊心を守りたい為の”嘘”に聞こえる。殺された夫にしても、残された妻にしても、一部始終見ていた杣売りにしてもそれは同じ。皆自尊心は守りたいよね。そうであったと自分に信じ込ませなきゃやっていけないよね。虎は死して皮を残すが、人は死して名を遺す。西洋なら、墓碑にどう書かれるかが大事ということか。
そんな人間の浅はかさ、おかしさ、恐ろしさが映像として描き出された映画です。
なんて書くと、重苦しいだけになってしまうけど。他のレビュアーの方も書かれていますが、カメラワークの美しさ、登場人物の人間臭さ。躍動感。同じ人物を四通りに演じ分ける三船氏、京さん、森氏の演技、それを器として支える志村氏、千秋氏、上田氏の演技に息を飲みます。本間さんの依りましのインパクト、雛人形の仕丁(五段目)さながらの加東氏も華を添えてくださいます。
「男は黙ってサッポロビール」等重厚なイメージの強かった三船氏のはっちゃけぶり(@_@;) 字で書くとどうしようもない盗賊の役柄なんだけど、三船氏が演じるとものすごくキュート(*^。^*) それでいてあの迫力。命そのものがぶつかってくるような荒々しさ!(^^)! 野性味!(^^)! ビックリしました。かっこういい立ち回りから、腰が引けたどうしようないビビりの切り合いまで、縦横無尽に演じきる凄さ(*^。^*)
ライオン・黒ヒョウ等がイメージなのだとか。体に油を塗って、野性味を演出したとか。疾走感を出すためのカメラの工夫とか、様々な工夫と、その演出にこたえる三船氏の演技!!!
京さんは、お淑やかな雛人形、清純そのものといった佇まいから、男を手玉に取る妖艶な美女まで。しかも、その両極端を演じきるだけではなく、男に抱かれた後に捨てられるのではと予感させられて茫然とする表情とか、本当に多彩、様々な心情を細やかに見せてくださいます。
この二人に対して森氏は”静”の役回り。縛られている場面もあるし、性格的にも冷静な武士という役回りだったから、あまり動き回っての派手な演技はありませんが、四者の証言によって浮き彫りにされる微妙な性格の違いを魅せてくださいます。しかも、そんな”静”の武士が、死してなお語るその思いの激しさ。
この三人の拮抗した演技力のぶつかり合いが絶妙です。
暑さが起こした事件?暑さが見せた幻影?
多襄丸が真砂を見初めるシーンのすがすがしさ。一幅の絵画のよう。
そんな絵にも心を奪われる。
加えて、羅生門場面での志村氏、千秋氏、上田氏の演技も素晴らしい。出番が少なくて動きも少ないのにインパクト大。
森の場面でも、羅生門の場面でも、三人の立ち位置の変化が、面白い。それをみるだけでもワクワクする。
四者の証言を聞いて混乱した気持ちが、羅生門での会話に(内的言語で)参加することによって少しずつ、それなりに心の中に落とし込んでいけるかと思うと混乱させられ、ラビランスの迷宮のようにさ迷い始め、つい柄にもなく哲学的なことを考え始めてしまいます。
この三人の会話がなかったら、盗賊・殺された夫・残された妻の物語を見せられて放り出された気分のまま収まりがつかずに終わったのだろうなと、この部分を持ってきた監督に座布団1枚の気分です。
ラスト。完全に監督オリジナルの展開。でも、ある行為から、財政的にある程度余裕ができたからの行為でもあるよな、なんて、ちょっと意地悪な見方もしたりして…。
それでも、根っからの悪人なんていないのだろうとも思わせてくれる。
旅法師たちの話の間降り続いていた集中豪雨も上がっての幕。
人間を考えると言う点でも、カメラワークや演技を堪能するという点でも、何度も見返してしまいます。それだけの価値のある映画です。
文句なし!
今でこそ“羅生門スタイル”として映画の一スタイルになっているが、この当時はかなり実験的な内容も盛り込んだ黒澤明の出世作。最初は橋本忍が3日で書きあげたという「藪の中」だけであったが、短いということで黒澤明の協力により「羅生門」をくっつけたという。
多襄丸(三船)が下手人であることは間違いなく、貴族の妻(京マチ子)が彼に手ごめにされたことも間違いない。人間のエゴと嘘。人間には嘘で固めたほうが楽になるという言葉どおり、殺すことや不貞が本人によって都合のいいように思いこむ。まともな人間なんていない・・・人間不信になってしまう荒んだ世の中はいつの時代にも通ずることかもしれない。
多襄丸の証言:男の目の前で妻を手ごめ。後に決闘で男を殺した。
妻の証言:短刀で夫を殺した。
本人の証言:いつの間にか短刀が刺さっていた。
杣売の証言:あくまでも短刀ではなかった。
それに加えて、「殺してくれ」と言ったかどうか、妻の不貞にどう対処したものか・・・などと、各自の尊厳を保つような嘘で固められるのだ。最後には杣売も短刀を盗んだことが暴かれてしまい、坊主までが人間不信に陥りそうになるというラストシークエンス。しかし、最後には温かいエピソードとなるところで極上の作品に仕上がっているのでしょう。
脚本もさることながら、宮川一夫の撮影技術が凄い。タブーとされる太陽を木漏れ日として直接撮った初めての映画らしいし、雨に墨汁を混ぜた重々しい映像や風そのものを感じさせる葉の影など、細かなこだわりが凄い。
音楽ではボレロ風の曲が使われていたけど、羅生門スタイルの映画『閉ざされた森』なんてのはモロにボレロだったなぁ・・・やっぱりオマージュだったのか。今の感覚で点をつけたら4点なんだろうけど、スタイルを確立させた功績を称え5点。
今見ても全く色褪せない
旅法師と柚売りが通りすがりの下人に語り始める――盗賊が森で女を犯し、その夫を殺した。しかし語られる各々の証言は異なっている、というストーリー。
白黒映画だが役者の力強さを感じ、ストーリーも人間的に普遍のテーマを扱っているだけに今見て古臭さを感じさせない。「人間は見栄のために自分にさえも嘘をつく」というエゴを描きつつ、最後は希望を感じさせる点がいい。
むしろ白黒だとすべての場面に味を感じて風情を勝手に感じてしまう。
ただ、仕方ないことではあるが何を言ってるか聞き取れない場面がよくある。特に武士の台詞は加工されていて日本語字幕は必須。
最後の証言が真相だとは思えない
だって自分は事件を知らないと当時の法廷で証言してるんだからね。大嘘つきなのは自分で堂々と述べている。結局真実は「藪の中」。
結構面白く見れたのは、やはり映画の作りが上手いからだと思う。カメラワークなんかは第三の男を思わせるようなところがある。単純な内容だが想像力を掻き立てられるところがある。みんながみんな自分を美化しているところが面白い。
映画史上最高の泥仕合
羅生門の下で雨宿りをしている男が語る、ある殺人事件の話。美人の女を目撃し一目惚れした盗人がその女の旦那を殺害して逮捕されたが、盗人・女・旦那3人とも主張することが全く違うミステリー(?)。
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真実とは何か?そもそも真実なんてあるのか?がテーマの作品(『ゆれる』とか『三度目の殺人』とか)って現代の邦画で割とレベルが高いジャンルだと思ってるけど、その邦画の大元を見たという感じがした。
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男は自分のプライドを保つために嘘をつき、女は自分の純潔清純さを保つために嘘をつく。盗人が語る回想では、映画的に音楽もついててかっこよく見せた2人の男の対決が描かれるけど、目撃者の男が語る1番真実らしい回想では2人の対決は音楽もなく男ふたりがヘロヘロになって戦う泥沼さ。
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人間離れして強靭そうな盗人もひとたび死を目の前にすると怯えて必死になる。歴史上に起きてきた全ての戦いって映画みたいにかっこいいものじゃなくて、こういう感じだったんだろうな。
【”羅生門に棲む鬼は人間の恐ろしさを見て逃げ出した・・”エロティック&バイオレンス&人間の悪性、善性を全て盛り込んだ傑作。】
ー 京マチ子演じる、野武士(世界の三船敏郎)に手籠めにされた武家の妻真砂のファム・ファタールの姿に、戦慄した作品。ー
◆感想
・内容は、これだけの名作であるので、人口に膾炙している前提で割愛
・野武士(三船敏郎)に手籠めにされた京マチ子演じる、金沢真砂の自らを助けられなかった、武士の夫金沢武弘に対する掌返しの姿が、凄まじい。
涙を流しながらも、夫を見捨て、野武士に”一緒に連れて行ってくれ”と、懇願する姿。
野武士が、躊躇う程の真砂の姿を、人間の悪性と観るか、本性と観るかはどうかは、観る側次第である。
◆真砂役を、原節子自身が演じる事を熱望し、黒沢明監督も望んでいた事は、多くの人が知る事である。
ー石井妙子著作の「原節子の真実」を一読されたい。ー
だが、映画製作会社の思惑により、それは叶う事はなかった。原節子の清楚なイメージに合わなかったからである。
それ故に、今作の京マチ子の演技は、鬼気迫るモノである。
三船敏郎も、森雅之も、飲み込んでしまっている。
<近代邦画が世界に対し、
”大和撫子は、このように激しい感情を持っていたのか、正に京マチ子演じる金沢真砂は自覚無き、恐ろしきファム・ファタールではないか。”
と世界を震撼させた一作。
今作以降、黒沢明と、小津安二郎は全く違う世界観も持った作品を世に出していく。
全てを知る、志村喬演じる羅生門の下で雨宿りする男が、盲目の僧(千秋実)から幼子を引き取る姿に、人間の善性を凝縮させており、今作の幅、奥深さを醸し出している作品でもある。>
時間配分が
カメラワークはさすが黒澤監督。さながら見本市。
ストーリーはなかなかぶっ飛んでますね。
好きです。(そうとしか言いようが。)
しかし一つ一つのシーンの時間配分が…。
無音映画を意識したそうなんですが、短い作品なのに、早く終わってほしくなってました。
寝取り寝取られからの…
女の豹変ぶりが凄い。寝取った男、寝取られた夫、その妻。同じ出来事なんだが三者三様、己のエゴから言うことが違う。また、それを目撃した者も結局は嘘をついており、事実と違うことを語ってしまう。人間は自分が可愛いがために嘘をついてしまうことを表現してるのだろうが、今この現代において、人間は変わっていないとも感じるが、どこか当然の気もしてしまい、それだけ当たり前に感じてしまう自分が、残念。
人の闇の部分・疑心暗鬼を描く作品
黒澤明監督の名前は映画好きでなくても大抵の人は知っていますし、この「羅生門」は彼の作品の中でも特に「名作」と名高い作品ですので以前から知っていました。しかし鑑賞するのは今回が初めてです。小説の「羅生門」は学生時代の国語の教科書に載っていたので知っていますが、「藪の中」は未読のため、内容に関する前知識はほとんどない状態での鑑賞です。
結論。面白い!!!!
70年前の映画とは思えないほどに面白い!!!もちろん映像の古さはありますが、内容に関しては全く古いと感じさせないような、現代人にも通じるようなテーマを含んだ作品でした。映像の見せ方や構成も見事です。
・・・・・・・
急な雨に打たれ、雨宿りのために羅生門の下にたどり着いた下人。そこには先客の旅法師と杣売りが雨宿りしていた。「わからねえ、さっぱりわからねえ」としきりに呟く杣売りに下人は「何がわからねえんだ」と質問する。そして杣売りから、とある殺人事件についての話を聞かされる。それは、事件関係者の証言が全員食い違っている奇妙な事件の話であった。
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杣売りは死体の第一発見者、旅法師は生前の被害者を最後に見た人物として検非違使(現代でいうところの裁判所)に呼ばれ、関係者全員の証言を聞いたのだが、全員の証言が大きく食い違っており、何が真実なのか分からない。そして最後にとある人物の証言を聞くことで、事件の真相が明らかになるという構成になっています。武士や下人が登場するので時代劇のような作品を想像していましたが全くそんなことはなく、内容は非常に上質なミステリ映画でした。
とある一つの殺人事件に関して、その事件の関係者が事件の概要を説明する。
関係者の証言を聞いていくうちに想像していた事件の概要が180°変わってしまう「白ゆき姫殺人事件」とか、調べれば調べるほど事件の真相に近づいているように思うけど全然そんなことなかった「サーチ」という映画ありましたけど、なんとなくその手の映画に近い気がしました。いや、ちょっと違うかな。とにかく、現代の映画にも通ずる全く古臭さを感じさせない表現を用いた、素晴らしい作品です。
黒澤監督の名を世界に知らしめた作品としてあまりに有名であり、海外にもファンが多い(らしい)この「羅生門」ですが、時代を超えて楽しまれる作品だと実感させられました。めちゃくちゃ面白いです。
公開された時代も良かったのかもしれませんね。1950年といえば、第二次大戦の傷もまだ癒えていないころでしょう。その時代背景と映画内の荒廃した都の情景が絶妙にマッチしていただろうと、容易に推測できます。
検非違使から見たようなカメラアングルで各証言者の語る姿を見せられるのは、「観客のあなたが事件の真相を導くんだ」と言われているような演出です。本当に良かった。
また、「人は信用できない」「疑心暗鬼」を描くようにストーリーが進みますが、最後に「人間も捨てたもんじゃない」という一筋の希望を残して映画が終了するのも非常に良かったですね。
古い映画だからという偏見を持たず、多くの人に鑑賞してほしい素晴らしい映画でした。
オススメです!!
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