羅生門のレビュー・感想・評価
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証言のエクスタシー
藪の中ではない‼️羅生門だ‼️
この作品によって "世界のクロサワ" が誕生‼️という事は世界映画史上において最重要作品だということです‼️原作は芥川龍之介の「籔の中」で、「羅生門」からは舞台となる羅生門という建物だけが使われています‼️すさまじい豪雨の中に立つ羅生門の見事な造形はいちど見たら忘れられない‼️素晴らしい美術ですね‼️登場人物たち全ての証言が食い違う中、真実をめぐる人間の業、欲望、虚栄心とその先にある人間の善意(志村喬さん)といったテーマ‼️そして躍動感あふれる映像‼️特に森の中を縦横無尽に動き回るカメラワークは、まるで木漏れ日に色がついてるみたいで、さすがは宮川一夫‼️そして我らが三船さんを始めとする出演者‼️野生児そのままの三船さんや森雅之さんの気品ある侍ぶりも素晴らしいのですが、高貴な若妻からエゴと欲むき出しの毒婦へと変貌する京マチ子さんが特に凄すぎ‼️そして、第4の証言者の木こりを創出してよりドラマティックな物語を創り出した黒澤監督と橋本忍さんによる完璧な脚本‼️しかしこの作品の一番見事な点はそのタイトルネーミング‼️物語はそのほとんどが「籔の中」なのに、タイトルは「羅生門」‼️やっぱり、外国の方にも発声しやすいのは「ラショーモン」‼️その時その時の決断というかセンスですよね、やっぱり歴史に残るのは‼️
虚偽・真実と天候との相関性
ネタバレ
土砂降りの中雨宿りのため半壊の「羅生門」に飛び込んできた通りすがり、その通りすがりにある事件のあらましを語り聞かせることになる貧しい木こり。
その事件の関与者はことごとく言い分が食い違い、いずれももっともらしく聞こえてくるので何が真相か全く判別がつかない。(うち一人は霊媒が語っているし・・・)
羅生門では話を聞いている通りすがりが火を起こすほど気温低下。
そして最後に貧しい木こりが目撃したことを話すが、それすら真実と言い難い怪しさが否めない。通りすがりは木こりをなじり雨の中門を飛び出していく。しかし、ひょんなことから門に捨てられた赤子を木こりが引き取ることを決意した後雨が上がり、太陽が差し込む。
これくらい分かりやすい相応描写もないであろう。
「木こりも赤子を後に売るか、奴隷として終生こき使うかなどの不純な動機で引き取った可能性がある」という考え方ももちろんできるが、上の天気との相関性を顧みるならその説は取りにくいというのが個人的考え。黒澤監督的にはどうだったかもはや知りようがないが
2003--
全て、藪の中…
真相は「藪の中」
1950年。黒澤明監督作品。
ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した。
またアカデミー賞名誉賞(現在の外国語映画賞)も受賞。
原作は芥川龍之介の「羅生門」と「藪の中」をミックスして橋本忍と
黒澤明が共同で脚色した。
朽ち果てた羅生門の縁側か庭先で三人の男たちが、目撃した焚き木売り
(志村喬)の話を聞く形で進む。
映画のストーリーは「藪の中」で、「羅生門」はそれこそ軒先と門構えと
題名(これが素晴らしいのだが・・)を借りただけである。
「藪の中」と言う言葉は現代でも、真相が知れないことを指す言葉として使われている。
事件は焚き木売りが入った「山」で起こった。
武士が白馬に妻を乗せて旅をしている。
通りかかった盗賊・多襄丸(三船敏朗)は武士の妻・真砂の美しい指先と市編笠
から一瞬覗いた真砂の美しさに息を呑む。
欲情した多襄丸は真砂を手籠にしてしまう。
真砂の怒りは手籠を見ていて、真砂に軽蔑の眼差しを向ける夫(,森雅之)に向けられる。
真砂は多襄丸をけしかけ夫と決闘をして勝った方の妻になる・・・
そう言うのだった。
ここからは多襄丸、真砂、目撃者・焚き木売りの三者の意見がバラバラで食い違うのだ。
誰が武士を殺したか?
真砂の心に霊媒師が宿り、夫・‥金沢の弁明まで聞くことが出来る。
この映画は海外で高く評価されて、アラン・レネー監督の「去年マリエンバードで」
にも影響を与えたとのことです。
それにしても、多襄丸の三船敏朗の活気と狂言回しの役割。
真砂の京マチ子の妖艶さと映画の役への意気込み。
志村喬の最後にはヒューマニズムを感じさせる役割。
黒澤明監督作品らしいダイナミズムに溢れた作品でした。
過去鑑賞
流れる音楽はボレロをリスペクトしている。
男は虚栄心から,女は狂気から嘘をつく.嘘をついているという自覚すら...
男は虚栄心から,女は狂気から嘘をつく.嘘をついているという自覚すらないのかもしれない.出来事に対して当事者として行為していることを,私たちはいつも客観的には語ることができないみたいだ.客観していた町人もまた,自分の行為についての認識が欠落していて,それを指摘されてうろたえる.それでもやはり,人を信じるという事をあきらめないという最後のシーンが印象的だった.自分にはやはり女性の狂気を描いている個所が特に気になって,盗賊の誘いを力強く拒絶した後に夫から拒絶される瞬間の女性の顔がとても印象的だった.自分の選択によって板挟みにあう女性と,そこからの感傷から狂気への変転.自分の引き出しの中に微妙に響きあうところがあって,それをもう少し掘り下げていきたいと思ったりもしたものだ
疑心暗鬼。人の心が信じられなくなりそうだ!
何度も観たい
一つの事件を複数の視点から映像化するコロンブスの卵的手法
芥川の『藪の中』は、強盗と侍、その女房3者が、強盗・レ〇プ・殺人事件の原因、経緯、結果について、それぞれの見栄から違ったエピソードを語るというもの。
<同一事件に対する3人3様の証言と真実>
①強盗は侍の女房をレイプした後、女を自分のものにしたくなり、自分が侍と正々堂々と戦い、相手を圧倒した挙句、殺害したと見栄を張る。
②侍の女房は、強盗の去ったあと侍を助け出すが、強盗にレイプされた自分を彼が軽蔑の目つきで見下したことから、動揺のあまり彼を殺してしまった。弱い女の心のせいで、その後自分も何度も死のうとしたが死ねなかったと、弱さを装う。
③巫女の口を借りて現れた侍は、女房が強盗に自分を殺すよう依頼したこと、しかしそれに呆れた強盗は2人を置き去りにして立ち去り、女房も去ったことを語った後、侍は絶望のあまり自殺した=殺されたのではなく自ら世を捨てたというプライドを見せる。
事実の受け止め方は観察者によって異なるものだが、人間のエゴは平気でウソをつくという真実を浮き彫りにするのがテーマといえる。
映画作品は、それを薪売りの証言で観客にも分かりやすく確認できるようにするとともに、3人3様それぞれの醜悪さ、みっともなさを描くことに力点が置かれている。同時に、証言の舞台を『羅生門』のオドロオドロしいものにした。
黒澤の意図を想像するに、作品の狙いはたった一つ。「一つの事件を複数の視点から映像化する」という、過去になかったコロンブスの卵的映画手法を作り上げることである。そして、以後、『羅生門』的手法の映画が多数つくられたのを見れば、この手法がいかに斬新で衝撃的だったかがわかるだろう。
人間は信じられないなどという話は映画においては付け足しに過ぎない。古来訴訟があるところ、ウソがあるのは常識だからであるw
(補足) 本作のテーマが<世界は真実など存在しない不条理なもの>だという見方について
何を真実とするかは、一つの約束事である。
現実の訴訟では物証、人証等の証拠によって証明されれば真実性を認めるというルールがある。通常の映画では、「映像があるから」とか「証言があるから」という理由から真実性を認めるという約束事に支配されている。
ところが『羅生門』の場合、証言も映像も真実性には繋がらないという前提に立っているため、通常の映画ルールでは真実性を決定できないのである。
この場合、見る側が映画の構造や論理、監督の意図から、真実性のルールを見つけるしかない。
小生は原作小説という手がかりを基に、映画はそれをわかりやすく映像化したものという構造だと理解する。とすると「エゴはウソをつく」が小説のテーマであること、反対に「エゴのない人間の証言はウソがない」という真実性のルールが導かれる。
薪売り=原作では木樵りは、実は原作でもウソをついていることが示唆されている。つまり、彼は死んだ侍の下にあった証拠品は役人が回収したモノだけであると証言しているが、ラストで侍の霊は、意識がもうろうとした頃に何者かが忍び寄って、胸に刺さった小刀を抜き取っていったと証言しているではないか。抜き取ったのは第一発見者の木樵りだろうから、彼も自分に都合の悪いこの部分ではウソをついているらしい。
また、映画でも、ラスト近くで下人から「短刀を盗んだのはお前だ」と見透かされた薪売りの俯くシーンがあり、彼がウソをついていることがわかる。
とはいえ殺人と手籠めのシーンに関しては彼はウソをつく理由がない。だから、彼の証言が真実なのだと小生は理解する。
逆に薪売りの証言も信じられないとすると、本作には何一つ真実がない、ということになる。世界は何が真実かわからない不透明で不安で不条理なものである、と。この場合、作品内の論理として、ラストの薪売りが赤ん坊を養うことでその不条理性が償われるかという疑問の湧くところだ。
また黒澤監督がそんな不条理性を描いた映画を撮るか、という疑問もあり、こうした解釈は採れない。
ところが、「人間のエゴはウソをつくというのが人間の真理だ」というテーマだと理解すると、ラストは「人間はウソをつくが、真実の愛情もある存在だ」との救いになる。このほうが映画がすんなり理解できる。したがって小生は、こちらの解釈を採る。
ギラギラ&ダラダラ
タイトルは知ってるけど、見る機会がなかった名作。世界のクロサワじゃ。
デジタルリマスターなので、画像は良くなっているんだろうけど、音声は時々聞こえづらい。雨の中の羅生門が特に。でもまあ、少し気になる程度かな。一番印象に残ったのは、汗。ものすごいダラダラじゃないの。よほど暑かったんだねぇ。
三船敏郎が若い。野性味がプンプン。真砂はけっこう多襄丸がタイプだったんじゃないの? それか、どこか安穏とした暮らしに収まらない、破滅願望の女。そういう女と気付きながら、黙っていた夫。この夫婦には、すでに隙間風が吹いていたのかも。そして、どちらもプライドが高い。
今見るとそれほど新鮮に感じないが、クロサワチルドレンがたくさんもどきを作って、それを見ていたから、そう思うわけか。今この時代に見るのは、いわば遺跡の発掘作業のようなものかも。
そういえば、ほぼ同じ内容で、天海祐希、豊川悦司、金城武で映画になってたと思う。天海祐希が脱いだ、というプレミア付き。金城武は好きなんだけど、今何してるのかな。すてきなおじさまになってそう。
NHKのデジタルリマスター版の放送にて。
日本知性の宝庫
この作品のすばらしさは既に様々な指摘や研究がなされている。それ以上に、この原作が芥川龍之介と言う天才がおり、その彼が目を付けた今昔物語集と言う世界に類するもののない物語コンテンツの宝庫を歴史的に抱えて来た日本なればこその子の映画ではないだろうか。他の方が指摘している本来黒澤が主演に原節子を切望したことや雨に墨汁を入れたり、日光を初めてフイルムに取り入れたり・・もう撮影記録一つとっても宝庫の極み。今昔物語集は手塚の「どろろ」と言う裏の最高傑作も生みだしている事をここで付け加えておく必要がある。もちろん多くの研究が指摘している通り「どろろ」は室町時代の百鬼夜行絵巻がその原点である。しかしその背景には平家物語や御伽草子がありそのルーツは今昔物語集へと辿ることはできる。日本に眠る多くのコンテンツの宝物殿はこれからも数多くの傑作を生みだし続けるであろう。シン・エヴァンゲリオンと言う物語のように。
羅生門効果という心理学用語のネタ元の映画
羅生門効果(Rashomon effect)。事実は一つのはずなのに「こうだった」という認識が三者三様であることに気がついた心理学者(確か家族療法家だったと思う)が、その現象に対して、この映画をヒントにして名付けた心理学用語。
皆”嘘”を言っているのではない。
そこで起こったこと、すべてを言語化するわけではない。何を取り上げて何を割愛するか、その取捨選択だけでも、三者三様の物語ができる。
加えて、内的真実(自分にとっての真実)としてそう思い込む。過去の出来事がこうであったから今経験しているのも「こうであるに違いない」と思い込むこと、認知の問題、自己防衛、情緒の問題、コミットメントの度合い…様々な要素からその人にとっての真実(内的真実)ができあがる。それは、時を経るに従ったり、いろいろな経験を積み重ねたり、見識を広げたり、心を豊かにし深めたり、自分と直面する勇気を持ったりすることで変化していく可能性を持つもので、だからこそ、心理療法ができるのだけれど。お互いの観方・そう見た背景を分かち合うことで「ああ、そうだったのか」その方の世界観が変わっていく可能性をも秘めたものであり、お互いの世界観に橋を渡せる可能性をも秘めたものである。
映画のレビューを拝読していても、同じ映画を観ているはずなのに、そこに何を感じ、好き嫌いはともかく、とらえ方にも様々なヴァリエーションがあって…。摩訶不思議。
ある男の死に至るまでの夫々の言動。
多襄丸は繰り返し言う。「どうせ死罪になるんだ。今更嘘を言って言い逃れしても仕方がない。本当のことを言いましょう」でもね、君の話や被害者の話を聞いている者からするとね、やっぱり自尊心を守りたい為の”嘘”に聞こえる。殺された夫にしても、残された妻にしても、一部始終見ていた杣売りにしてもそれは同じ。皆自尊心は守りたいよね。そうであったと自分に信じ込ませなきゃやっていけないよね。虎は死して皮を残すが、人は死して名を遺す。西洋なら、墓碑にどう書かれるかが大事ということか。
そんな人間の浅はかさ、おかしさ、恐ろしさが映像として描き出された映画です。
なんて書くと、重苦しいだけになってしまうけど。他のレビュアーの方も書かれていますが、カメラワークの美しさ、登場人物の人間臭さ。躍動感。同じ人物を四通りに演じ分ける三船氏、京さん、森氏の演技、それを器として支える志村氏、千秋氏、上田氏の演技に息を飲みます。本間さんの依りましのインパクト、雛人形の仕丁(五段目)さながらの加東氏も華を添えてくださいます。
「男は黙ってサッポロビール」等重厚なイメージの強かった三船氏のはっちゃけぶり(@_@;) 字で書くとどうしようもない盗賊の役柄なんだけど、三船氏が演じるとものすごくキュート(*^。^*) それでいてあの迫力。命そのものがぶつかってくるような荒々しさ!(^^)! 野性味!(^^)! ビックリしました。かっこういい立ち回りから、腰が引けたどうしようないビビりの切り合いまで、縦横無尽に演じきる凄さ(*^。^*)
ライオン・黒ヒョウ等がイメージなのだとか。体に油を塗って、野性味を演出したとか。疾走感を出すためのカメラの工夫とか、様々な工夫と、その演出にこたえる三船氏の演技!!!
京さんは、お淑やかな雛人形、清純そのものといった佇まいから、男を手玉に取る妖艶な美女まで。しかも、その両極端を演じきるだけではなく、男に抱かれた後に捨てられるのではと予感させられて茫然とする表情とか、本当に多彩、様々な心情を細やかに見せてくださいます。
この二人に対して森氏は”静”の役回り。縛られている場面もあるし、性格的にも冷静な武士という役回りだったから、あまり動き回っての派手な演技はありませんが、四者の証言によって浮き彫りにされる微妙な性格の違いを魅せてくださいます。しかも、そんな”静”の武士が、死してなお語るその思いの激しさ。
この三人の拮抗した演技力のぶつかり合いが絶妙です。
暑さが起こした事件?暑さが見せた幻影?
多襄丸が真砂を見初めるシーンのすがすがしさ。一幅の絵画のよう。
そんな絵にも心を奪われる。
加えて、羅生門場面での志村氏、千秋氏、上田氏の演技も素晴らしい。出番が少なくて動きも少ないのにインパクト大。
森の場面でも、羅生門の場面でも、三人の立ち位置の変化が、面白い。それをみるだけでもワクワクする。
四者の証言を聞いて混乱した気持ちが、羅生門での会話に(内的言語で)参加することによって少しずつ、それなりに心の中に落とし込んでいけるかと思うと混乱させられ、ラビランスの迷宮のようにさ迷い始め、つい柄にもなく哲学的なことを考え始めてしまいます。
この三人の会話がなかったら、盗賊・殺された夫・残された妻の物語を見せられて放り出された気分のまま収まりがつかずに終わったのだろうなと、この部分を持ってきた監督に座布団1枚の気分です。
ラスト。完全に監督オリジナルの展開。でも、ある行為から、財政的にある程度余裕ができたからの行為でもあるよな、なんて、ちょっと意地悪な見方もしたりして…。
それでも、根っからの悪人なんていないのだろうとも思わせてくれる。
旅法師たちの話の間降り続いていた集中豪雨も上がっての幕。
人間を考えると言う点でも、カメラワークや演技を堪能するという点でも、何度も見返してしまいます。それだけの価値のある映画です。
文句なし!
今でこそ“羅生門スタイル”として映画の一スタイルになっているが、この当時はかなり実験的な内容も盛り込んだ黒澤明の出世作。最初は橋本忍が3日で書きあげたという「藪の中」だけであったが、短いということで黒澤明の協力により「羅生門」をくっつけたという。
多襄丸(三船)が下手人であることは間違いなく、貴族の妻(京マチ子)が彼に手ごめにされたことも間違いない。人間のエゴと嘘。人間には嘘で固めたほうが楽になるという言葉どおり、殺すことや不貞が本人によって都合のいいように思いこむ。まともな人間なんていない・・・人間不信になってしまう荒んだ世の中はいつの時代にも通ずることかもしれない。
多襄丸の証言:男の目の前で妻を手ごめ。後に決闘で男を殺した。
妻の証言:短刀で夫を殺した。
本人の証言:いつの間にか短刀が刺さっていた。
杣売の証言:あくまでも短刀ではなかった。
それに加えて、「殺してくれ」と言ったかどうか、妻の不貞にどう対処したものか・・・などと、各自の尊厳を保つような嘘で固められるのだ。最後には杣売も短刀を盗んだことが暴かれてしまい、坊主までが人間不信に陥りそうになるというラストシークエンス。しかし、最後には温かいエピソードとなるところで極上の作品に仕上がっているのでしょう。
脚本もさることながら、宮川一夫の撮影技術が凄い。タブーとされる太陽を木漏れ日として直接撮った初めての映画らしいし、雨に墨汁を混ぜた重々しい映像や風そのものを感じさせる葉の影など、細かなこだわりが凄い。
音楽ではボレロ風の曲が使われていたけど、羅生門スタイルの映画『閉ざされた森』なんてのはモロにボレロだったなぁ・・・やっぱりオマージュだったのか。今の感覚で点をつけたら4点なんだろうけど、スタイルを確立させた功績を称え5点。
今見ても全く色褪せない
最後の証言が真相だとは思えない
映画史上最高の泥仕合
羅生門の下で雨宿りをしている男が語る、ある殺人事件の話。美人の女を目撃し一目惚れした盗人がその女の旦那を殺害して逮捕されたが、盗人・女・旦那3人とも主張することが全く違うミステリー(?)。
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真実とは何か?そもそも真実なんてあるのか?がテーマの作品(『ゆれる』とか『三度目の殺人』とか)って現代の邦画で割とレベルが高いジャンルだと思ってるけど、その邦画の大元を見たという感じがした。
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男は自分のプライドを保つために嘘をつき、女は自分の純潔清純さを保つために嘘をつく。盗人が語る回想では、映画的に音楽もついててかっこよく見せた2人の男の対決が描かれるけど、目撃者の男が語る1番真実らしい回想では2人の対決は音楽もなく男ふたりがヘロヘロになって戦う泥沼さ。
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人間離れして強靭そうな盗人もひとたび死を目の前にすると怯えて必死になる。歴史上に起きてきた全ての戦いって映画みたいにかっこいいものじゃなくて、こういう感じだったんだろうな。
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