羅生門のレビュー・感想・評価
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語りの騙り
黒澤明監督作品。傑作です。
本作では、登場人物の虚栄心によって、殺人の事実が歪曲され、それが映画的手法によって同じ強度で映像化されているのが面白い。またそのことを通して人間の愚かさが描かれており、娯楽性のみならず人間性とは何かを深く問いているのである。
また羅生門のセット、光と影のコントラスト、雨と汗の演出も素晴らしい。この素晴らしさについては、多くの研究の蓄積があると思うので、今後も探求をしていきたい。
人間とは、殺害されて幽霊になっても、自らの見栄のために事実を歪曲してしまう愚かな生き物である。しかし黒澤明監督が映画に翻案するにあたって、追加したラストのシーンでは、人間性の可能性が描かれている。自らの愚かさに光をあて、子どもを抱きかかえること。そして雨上がりの門をくぐること。監督が信じた人間性を私も信じてみようと思う。
いろんな点で想像していたのと違ってた
京都文化博物館で開催されていた‟公開70周年記念 映画『羅生門』展”で初鑑賞。
想像していたものといろんな点で違っていて驚き&新鮮でした。
①役者が現代風でかっこよし。
世界に通用する役者陣。
・多襄丸役の「三船敏郎」
→ 彫が深い男前。手足も長い。
・武士役の「森雅之」
→ 口髭がダンディ。南米のラッパーにいそう。
②小説と違うシナリオ。
「いつ老婆がでてくるのか?」
「いつ羅生門の上に梯子であがるのか?」
期待していたが最後までそんな場面はなし。
この映画は芥川龍之介の「羅生門」と「藪の中」
の2つの小説を組み合わせたものなんですね。
③秀逸な構成
同じシーンを登場人物各々の視点から描き、各々の「勝手な脚色」をあぶりだす。
また「勝手な脚色」はそれを回想している杣売り自身にもあてはまることだった。
さらに羅生門に捨てられていた赤ん坊に下人は「勝手な脚色」によるふるまいを。
最後のシーンはご都合主義による陳腐感があったので無いほうがよかったかも。
(まあ、あのシーンがないと気分がどんよりしたままで救いがないのも事実だけど。)
世界に知らしめた光と影の映像美、鬼気迫る名演
今から約70年前。世界にクロサワの名前を、日本映画の存在を知らしめた歴史的作品。日本映画として初めて第12回ベネチア国際映画祭でグランプリの金獅子賞を受賞し、第24回アカデミー賞名誉外国語映画賞を受賞しました。
原作は芥川龍之介の短編「藪の中」。時は平安時代の乱世、都にほど近い山中で侍夫婦が盗賊に襲われ、夫の侍が殺されます。やがて盗賊は捕われるが、盗賊と侍の妻、目撃者らの食い違う証言がそれぞれの視点から描かれます。見栄や虚栄のための嘘により、人間のエゴイズムがあぶり出され、黒澤明監督と橋本忍による脚本がこの世の真実とは何かを追求しています。
さらに、この映画の見所は物語構造とともに、その映像美と役者たちの演技。豪雨の中に浮き立つ荒廃した羅生門の造形美から始まり、盗賊、侍とその妻の森の中での立ち回りシーンの迫力、語り部となる杣売りと旅法師らの羅生門下でのやり取りなどすべてが印象深い。
夏の森の中の光と影のコントラストの中で、盗賊を演じた三船敏郎の力強くも滑稽な野性味が繰り返される証言シーンを牽引し、侍の妻を演じた京マチ子が女性の内なる強さや妖艶さを見事に表現。木漏れ日の光に照らし出される表情が美しさを増し、モノクロの映画でありながら色彩を感じさせます。
また森雅之が演じる侍の高貴さが対比となり、美しい妻の前で追いやられた男の無念さ、自我を浮き立たせ、志村喬が演じる杣売りらをこの世の藪の中へと引きずり込んでいきます。そしてラストの解釈は、この映画を見た者のエゴイズムが問われることになるでしょう。
主演3人の笑いと表情の演技が良い
主演3人の笑いと表情の演技が良かった。
野獣のように高笑いする多襄丸(三船敏郎)、本性を現してブチ切れ笑う真砂(京マチ子)。真砂が泣いたフリから一瞬で素に戻るのも怖い。
金沢武弘(森雅之)は笑いはしないが、真砂を蔑む何とも言えない目が強烈。黒澤監督がどんな演技指導したか気になる。
どうする検非違使。
とても良かったです。
日にちの見間違いで、椅子に座ってから目的の映画と違うのに気がつきました。
黒澤ファンに怒られそうですが、映像が綺麗で場面展開もスムーズでした。
三船敏郎、京マチ子、上田吉次郎さんが印象的でした。
盗賊と夫婦の3人が、それぞれ自分が気持ちがいい様な供述を展開していて、面白かったです。
最後どの様な、お裁きになったのでしょう。
自分の弱さに開き直るか向き合うか
白黒のコントラストの強い画面。舞台設定も白の強い回想シーンと、暗い雨の羅生門とで対照的。そんな中で、汗の一粒一粒まで3Dの様な立体感を感じさせる三船敏郎の肉体の存在感が際立つ。汗にまみれても不思議と湿度は感じず、逆に乾いて見える。
印象的なのは森雅之と京マチ子。不自由のない幸せそうな夫婦からの変わり様は本当に恐ろしい。人の本性が露わになった形相、特にじっとりと見詰める森雅之の白目がちな目が頭からなかなか離れてくれない。
最後、志村喬演じる男が 僧から赤子を受け取ろうとする時の表情が何とも言えない。短刀を盗み、それを知らぬと嘘をついてしまった事を明らかにされながら、それでも苦しい生活の中で赤子を引き取って育てようと決意する男の善性がよくにじみ出ている。そして晴れ上がった空の下、羅生門を後にする男の姿は神々しくすらある。
一方で、赤子から衣を剥ぎ取り開き直った男は、きっと今も雨に打たれながら歩き続けているように思えてならない。
…
鑑賞後、羅生門と藪の中を久しぶりに読み返した。そして、小説の羅生門に出てくる老婆は映画で赤子の衣を剥いだ男であり、老婆を蹴落とす下人が志村喬の演じた男になったんだと気付き、映画のタイトルに合点がいった。
いいですね~黒沢さんと志村さんと三船の黄金コンビ
今日も古いDVDを適当に選んで映画鑑賞♪
物事の善悪、善人と悪人、生きる上での悪行とは何か?
このご時世、改めて考えさせられた気持ちです。
人の心とは、空しくて悲しいかな?でもラストのシーンでこの世も
まだ捨てたものでは無いものだと考えさせられる!流石は黒沢監督です♪
濃密な枠構造
なんて濃厚な構造と台詞に満ちた88分なんだろう。そして役者達の素晴らしい演技。
殺された侍の妻(京マチ子)が語る背景に流れる、あ、これが「ボレロ」かと感動した。編曲された日本のボレロ。ここにボレロ的リズムが置かれたことで、語り手=京マチ子演じる妻が自分の語りにだんだんと酔いしれ自分を美化していく陶酔感に私も巻き込まれた。最後は「この弱い愚かな私」と来た!
最初と中間と最後は朽ち果てた大雨の羅生門。このシーンは映画「羅生門」の枠にあたるが、その場にいる3名のうち2名はメインの話の中にも目撃者として証言者として足を突っ込んでいる。そして人間不信に頭を抱え絶望している。こんなタイプの枠物語ないような気がする。
数日間のことで羅生門では大雨、林の中は真夏で暑く虫がブンブン飛んでいる。光と影が硬質な映像でとても眩しい。妻を馬に乗せて歩く侍。このときの森雅之は全く魅力がないのに、妻(京マチ子)が盗賊(三船敏郎)に手ごめにされた後に妻を見やる眼差しは冷たく蔑みに満ちていて凄みがある!でもあくまで妻からの視点。一方で、三船敏郎の小動物のような可愛らしさと機敏さとしなやかな身体の動きは最初から光っていた。三船敏郎の瞳は少し薄い茶色がかっている(モノクロだけど私にはそう見えた)。羽虫を払い手でポリポリと体を掻く仕草、キラキラしてよく動く目、女好きだがオモチャを欲しがる子どもに過ぎない。
この3名の話に足を突っ込んでしまった羅生門に居る二人は人間不信に陥るが、第三の男は違う。「本当のことは言えないのが人間だ」「誰も彼もがてめえのことばかり」「羅生門の鬼さえ人間の恐ろしさを怖がって逃げ出した」と悟ったようなことを言う。
でも志村喬演じる男=真実を全部見てなおかつ盗みもした男は、赤ん坊を6人育てている、一人増えようが同じだと、羅生門に捨てられていた赤ん坊を引き取る。この最後に置かれた枠物語が若い坊さん(千秋実)と私達を人間不信から救ってくれる。
音楽、映像、脚本、構成、全てがギラギラきらきらしながら優しさに着地している。映画「羅生門」はこういう話だったのか。自分なりにだけれど映画館で集中して見ることができてよかった。
ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、アカデミー賞名誉賞受賞。世界に誇る...
ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、アカデミー賞名誉賞受賞。世界に誇る最も有名な日本映画の一つ。灼熱の太陽を感じさせる木漏れ日のコントラストとしたたる汗、逃げ惑う人物を追うスピード感のあるカメラワーク、地べたを這うようなアングル。黒澤明の実験的手法が、白黒だからこそのコントラストの強い陰影を作り出し、肌の質感、目の瞳孔や虹彩の動きまで見て取れる生々しくも美しい映像に仕上げている。時代劇にラヴェルのボレロ(風な曲)も当時としてはかなり斬新。
作品の凄み
場面展開は3場面。登場人物も台詞も極力少ない。
教養の乏しい当方が芥川龍之介を語るのはおこがましいが、たったそれだけの話の状況描写、心理描写を繊細に表現する芥川文学と同じだと思った。だからすごい。
舞台劇を見ているような展開で、三船敏郎と京マチ子の演技は圧巻。ふたりはオーラが違う。脳裏に焼き付いている。
物語の深みに理解力が追いつかず、かと言ってもう一度見てみようと思う体力も知力もない。
ただ、あの世界観は体現しておいて良かったと思った。画面から霊力を感じる。恐ろしいくらいに。
証言のエクスタシー
証言...没入のエクスタシー
鳴り響く早坂文雄のボレロ! 女はオーガズム後の余韻に浸るように夫殺しを懐古し、巫女に口寄せされた夫と多襄丸も過去に憑依され、感情を爆発させる。真正面やや下に据えられたカメラは証言者を壁か空という簡素な背景を背に誰もが自分のストーリーに没入していく様を映している。回想という翼を得て主観的物語にどこまでも堕ちていく一方で、藪の中で翼を得たカメラは傍若無人な振る舞いをみせ、映像を通じて証言の元となる言葉を生成する初動を捉えている。戦後に獲得された内心の自由が末法の世を告げるパンドラの箱なのかもしれない。
藪の中ではない‼️羅生門だ‼️
この作品によって "世界のクロサワ" が誕生‼️という事は世界映画史上において最重要作品だということです‼️原作は芥川龍之介の「籔の中」で、「羅生門」からは舞台となる羅生門という建物だけが使われています‼️すさまじい豪雨の中に立つ羅生門の見事な造形はいちど見たら忘れられない‼️素晴らしい美術ですね‼️登場人物たち全ての証言が食い違う中、真実をめぐる人間の業、欲望、虚栄心とその先にある人間の善意(志村喬さん)といったテーマ‼️そして躍動感あふれる映像‼️特に森の中を縦横無尽に動き回るカメラワークは、まるで木漏れ日に色がついてるみたいで、さすがは宮川一夫‼️そして我らが三船さんを始めとする出演者‼️野生児そのままの三船さんや森雅之さんの気品ある侍ぶりも素晴らしいのですが、高貴な若妻からエゴと欲むき出しの毒婦へと変貌する京マチ子さんが特に凄すぎ‼️そして、第4の証言者の木こりを創出してよりドラマティックな物語を創り出した黒澤監督と橋本忍さんによる完璧な脚本‼️しかしこの作品の一番見事な点はそのタイトルネーミング‼️物語はそのほとんどが「籔の中」なのに、タイトルは「羅生門」‼️やっぱり、外国の方にも発声しやすいのは「ラショーモン」‼️その時その時の決断というかセンスですよね、やっぱり歴史に残るのは‼️
虚偽・真実と天候との相関性
ネタバレ
土砂降りの中雨宿りのため半壊の「羅生門」に飛び込んできた通りすがり、その通りすがりにある事件のあらましを語り聞かせることになる貧しい木こり。
その事件の関与者はことごとく言い分が食い違い、いずれももっともらしく聞こえてくるので何が真相か全く判別がつかない。(うち一人は霊媒が語っているし・・・)
羅生門では話を聞いている通りすがりが火を起こすほど気温低下。
そして最後に貧しい木こりが目撃したことを話すが、それすら真実と言い難い怪しさが否めない。通りすがりは木こりをなじり雨の中門を飛び出していく。しかし、ひょんなことから門に捨てられた赤子を木こりが引き取ることを決意した後雨が上がり、太陽が差し込む。
これくらい分かりやすい相応描写もないであろう。
「木こりも赤子を後に売るか、奴隷として終生こき使うかなどの不純な動機で引き取った可能性がある」という考え方ももちろんできるが、上の天気との相関性を顧みるならその説は取りにくいというのが個人的考え。黒澤監督的にはどうだったかもはや知りようがないが
2003--
全て、藪の中…
「羅生門」のタイトルになっているが、内容は同じ原作者の芥川龍之介の
「藪の中」。
一つの事件に、多くの証言があり、どれも一致しない内容で、真相は
藪の中…最後に語られた証言ですら、本当の真実であったとは、断言
できない…
世界の多くの作品に影響を与えた映画。
証言する誰もが、自分を正当化し、自分は間違っていない、自分は
美しいと主張する。
黒澤明監督のコメントを、聞いたり読んだ事は無いが、ラストに下人が語る
言葉より、赤ん坊を家に連れて帰る者の言葉が、世の中に最後に残る
「人間の心の光」と、思いたい……
真相は「藪の中」
1950年。黒澤明監督作品。
ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した。
またアカデミー賞名誉賞(現在の外国語映画賞)も受賞。
原作は芥川龍之介の「羅生門」と「藪の中」をミックスして橋本忍と
黒澤明が共同で脚色した。
朽ち果てた羅生門の縁側か庭先で三人の男たちが、目撃した焚き木売り
(志村喬)の話を聞く形で進む。
映画のストーリーは「藪の中」で、「羅生門」はそれこそ軒先と門構えと
題名(これが素晴らしいのだが・・)を借りただけである。
「藪の中」と言う言葉は現代でも、真相が知れないことを指す言葉として使われている。
事件は焚き木売りが入った「山」で起こった。
武士が白馬に妻を乗せて旅をしている。
通りかかった盗賊・多襄丸(三船敏朗)は武士の妻・真砂の美しい指先と市編笠
から一瞬覗いた真砂の美しさに息を呑む。
欲情した多襄丸は真砂を手籠にしてしまう。
真砂の怒りは手籠を見ていて、真砂に軽蔑の眼差しを向ける夫(,森雅之)に向けられる。
真砂は多襄丸をけしかけ夫と決闘をして勝った方の妻になる・・・
そう言うのだった。
ここからは多襄丸、真砂、目撃者・焚き木売りの三者の意見がバラバラで食い違うのだ。
誰が武士を殺したか?
真砂の心に霊媒師が宿り、夫・‥金沢の弁明まで聞くことが出来る。
この映画は海外で高く評価されて、アラン・レネー監督の「去年マリエンバードで」
にも影響を与えたとのことです。
それにしても、多襄丸の三船敏朗の活気と狂言回しの役割。
真砂の京マチ子の妖艶さと映画の役への意気込み。
志村喬の最後にはヒューマニズムを感じさせる役割。
黒澤明監督作品らしいダイナミズムに溢れた作品でした。
過去鑑賞
流れる音楽はボレロをリスペクトしている。
世界的に良いかは別にして、面白いと思った。
3人とも自意識過剰な人間で、その3人に偶然に起きてしまった話。
多襄丸と男の戦いは、史上もっとも格好の悪い殺陣と言えないか。剣の達人などと到底言えない。
流れる音楽はボレロをリスペクトしている。
男は虚栄心から,女は狂気から嘘をつく.嘘をついているという自覚すら...
男は虚栄心から,女は狂気から嘘をつく.嘘をついているという自覚すらないのかもしれない.出来事に対して当事者として行為していることを,私たちはいつも客観的には語ることができないみたいだ.客観していた町人もまた,自分の行為についての認識が欠落していて,それを指摘されてうろたえる.それでもやはり,人を信じるという事をあきらめないという最後のシーンが印象的だった.自分にはやはり女性の狂気を描いている個所が特に気になって,盗賊の誘いを力強く拒絶した後に夫から拒絶される瞬間の女性の顔がとても印象的だった.自分の選択によって板挟みにあう女性と,そこからの感傷から狂気への変転.自分の引き出しの中に微妙に響きあうところがあって,それをもう少し掘り下げていきたいと思ったりもしたものだ
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