「アウシュヴィッツビルケナウを訪れて」夜と霧 ミカさんの映画レビュー(感想・評価)
アウシュヴィッツビルケナウを訪れて
ちょうど2年前の5月にアウシュヴィッツビルケナウ収容所を訪れました。フランクルの『夜と霧』を何回も読んでいたのと『サウルの息子』を鑑賞していたので、忌々しく暗い場所を想像していたのですが、そこは意外にも緑に溢れた穏やかな場所でした。忌々しいのは土地ではなく、ファシズムだったのだと痛感しました。
私がアウシュビッツビルケナウ収容所で初めて知ったのが、一番初めに収容所に入れられたのは、ユダヤ人ではなく大学教授などナチスに反対する知識人達ということです。それが、共産主義者、社会主義者、ユダヤ人、ロマ、同性愛者などに広がっていったと。だから、ナチスの選民思想は決して人種の問題だけではありません。
アウシュビッツビルケナウ収容所解放から約10年後、アラン・レネは初めて収容所の残虐行為を告発した作品として今作を発表した訳ですが、残虐なビジュアル(ドイツ軍が撮ったと思われる人の頭部や死体の山)を映し出す記録映画にした事は、とても勇気がいったと思います。ナチスや収容所は、加害国ドイツだけの一方的な問題ではありません。アラン・レネの母国フランスをはじめ、協力者や協力国があったからこそ、ヨーロッパ諸国全体の問題に帰結するのです。と同時に、このビジュアルほどファシズムを一言で語れるものはありません。アウシュビッツビルケナウ収容所でも、多少の画像があっただけだったので、私も今作の様な映像を観たのは初めてです。
日本での初公開時には、残虐シーンが過激であるとして数分のカットを入れて上映したと何かでみたのですが、本当に信じられない気持ちです。作品の一部を削るなんて。昨今の日本でもはだしのゲンが残虐だとか言う馬鹿げた人もいるので、日本人が現実に向き合う強さを持ち合わせていないのかとも思って虚しくなりました。
アウシュビッツビルケナウ収容所を訪れた時に意外だったのが、ヒトラーという個人名が出ることがほぼなかった事です。収容所の理念として、ファシズムは、ヒトラー個人の問題ではなく人類全体の問題、自分自身の問題だからだと。
この作品に映し出される笑いながら人を殺す人、裸になって並ぶ人、人体実験をする人、人体実験をされる人、それはフィルムに映しだされている他人ではなく、全て『私』なのです。今作は『私』の写鏡だからこそ、皆に鑑賞して欲しいです。