「「干渉されることへの抵抗と、そこからの逃亡」」汚れた血 neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)
「干渉されることへの抵抗と、そこからの逃亡」
この映画を一言で表すなら、「干渉されることへの抵抗と、そこからの逃亡の詩」です。
同時に、愛の不在と若者たちの孤独、そして大人の世界から受け継いだ“汚れた血”に抗う者たちの物語でもあります。
まず映像の第一印象は圧倒的でした。ブルーレイなのに桁違いに美しく、青とグレーを基調としたフィルムの質感が独特です。特に女性たちが身にまとう赤は強烈で、時に青に転じる。その色彩の変化が登場人物の心理を繊細に表現していました。
アンナが赤を脱ぎ、青い服を着る場面は象徴的です。彼女が精神的に揺れ動く瞬間――恋人マルコとの安定した関係から、アレックスとのわずかな心の交流へ踏み出す。その青は、彼女がほんの少しだけ「自由」や「冷静さ」を取り戻した時間の象徴だったように感じました。
映画全体の撮り方はまさにヌーベルバーグの系譜で、引きの絵が少なく、顔のアップが非常に多い。
神の視点ではなく、あくまで主観的。人物の感情を正面から見つめるレオス・カラックスの姿勢が感じられます。
それでいて、感情を直接揺さぶってこない――そこがこの監督の独特なところです。泣かせようとも、感動を押しつけようともせず、あくまで冷静に、しかし強烈な主観で撮っている。
この「冷たい主観」はカラックスの本質だと思います。観客に感情移入を求めず、ただ生のままの人間の感情の構造を見せてくる。距離をとって世界を観察する感覚です。
物語は一見、犯罪劇のように見えますが、実際には若者たちの内面の逃避を描いたものです。
登場人物はみな「どこかへ出たい」「この場所にはいられない」と言い続けます。
彼らを縛っているのは、愛でも倫理でもなく、“干渉”と“依存”です。
アンナは年上のマルコに守られながら支配され、アレックスは父の知的な檻の中で育てられ、元恋人は母親に監視されている。
彼らは過保護な愛に守られながら、自我を失っていく。
飛行機や滑走路のモチーフは、そうした「依存の殻」から抜け出したいという願望の象徴でしょう。
最後にアンナが滑走路を走り、まるで飛び立つように早送りで動くシーン――あれは現実から逃げることではなく、「自分の輪郭を取り戻そうとする衝動」そのものだと感じました。
「アメリカ女」というキャラクターも強烈でした。なぜイギリスでもドイツでもなく、アメリカなのか。
それはカラックスにとって、アメリカが“文化的な干渉者”だからだと思います。
フランスにおけるアメリカとは、自由と豊かさの象徴であると同時に、精神を侵食する存在。
甘い言葉で人を依存させ、文化を奪い、心を管理する“母性的な帝国”の象徴。
つまりカラックスは、アメリカを「干渉する母」として描き、自分の世界(=フランス)を守ろうとしている。
また、レストランで「ジャン・コクトーだ」と言う男が登場する場面があります。
アレックスは「もう死んでるよ」と返しますが、あのやり取りは偶然ではありません。
コクトーは詩的映画の創始者であり、“死者の芸術家が映画の中で生き続ける”という象徴そのもの。
カラックスにとってコクトーは映画的な父親であり、亡霊。
つまりあの会話は「芸術の血脈は死なない」「亡霊として現代に生きている」というメタ的な告白だったのだと思います。
映画の中で死んだはずの詩人が生きている――それはまさに、映画というメディアの本質(死者を蘇らせる装置)を示していました。
そして、タイトルの『汚れた血(Mauvais Sang)』。
これは直訳で「悪い血」ですが、フランス語では単なる病気のことではなく、「宿命」「遺伝した腐敗」「社会の呪い」を意味します。
この映画での“汚れた血”とは、
親や大人の世界から受け継いだ腐敗、
愛のない社会の病理、
そして現代を生きる若者たちの宿命です。
劇中の「愛のないセックスで死ぬ病気」もその比喩であり、
愛を失った社会の象徴です。
つまりタイトルは、「汚れた世界に生まれた若者たちの宿命」そのものを指している。
アレックスが流す血は、むしろその“汚れ”に抗うための純粋な血です。
彼の怪我は、汚れた時代に抵抗する者の代償として描かれています。
『汚れた血』は、詩的でありながら現代的、冷静でありながら情熱的な作品です。
感情を煽ることなく、映像そのものの構造で観る者に訴えかけてくる。
まるで監督自身が「干渉されずに、ただ見つめてほしい」と言っているように感じました。
レオス・カラックスは、自分自身の内面と映画史の亡霊を正面から受け止め、
その“血”を自らの作品に流し込んだ詩人だと思います。
評価: 92点
鑑賞方法: Blu-ray
