欲望のあいまいな対象のレビュー・感想・評価
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決して弄(もてあそ)んではいけないことの教示的な一本。
「女は非常に完成された悪魔である。」とは、高名な詩人でもあり、作家でもあるビクトール・ユーゴ)の言葉ということですけれども。
本作を観たりすると、評論子は「非情」に完成された悪魔と言い換えた方が、しっくり来るのではないかと思ったりもします。
ことそれほど、本作に限らず、世の女性たちに、広く訴えておきたいことは、世の女性陣は、世の男性のスケベ心を弄んではいけないということです。
こと恋愛に関する限り、男というものは、弱いものなのです。
世上「カネの切れ目が縁の切れ目」とか言われますけれども。
「カネの繋がりでもいいから」と、若い女性の歓心を買うべく、せっせと貢ぐ中年親父の少なくないこと。
そして、世の中には「厚化粧に騙されて、高い買い物をしてしまった」と、前非を悔いている亭主族の多いことと言ったら、それはそれは筆舌には尽くし難いものがあることと思います。
本作は、評論子が参加している映画サークルの「映画を語る会」で、他の参加メンバーからお題作品として提案があって、観賞した一本でしたけれども。
世の(特に壮年から中年にかけての)男性の悲哀を描き切ったという点では、充分な佳作と評することができる一本だったと思います。
みっともないおじさんだけれど…
おもしろい映画だった。
だらしなくてダメなおじさんだわ〜と思いつつ観ていたが、やっと激しいビンタを。やった!これで懲りるのね、と思いきや…ダメだった。
しかし懲りないところがこの映画のおもしろいところだった。マチューはラストでは、見方によっては、やっと本当の大人の男になったかのように思える。コンチータの方も然り。歪んだ形ではあるが彼を必要としているのだろう。(ちなみに女の悪女ぶりだけが責められるのも気の毒で、正妻としては考えてもらえない点で彼女に同情する。)
人の結びつきの理由には、周囲には簡単に理解できない要素がある。当人たちさえ良ければそれでいいのかな…。
と、思ったところで彼らは終わった。彼らの脳天気な生活とは別なところで、現実社会は厳しく揺れ動いていた。
お馬鹿な大人たちのお馬鹿な関係。どこまでもみっともないが、みっともなさをさらけだすというのは勇気がいること。彼はその点すごい。彼にしてみれば結果的には平穏無事な人生を送るより楽しかったのかもしれない、と個人的には思う。
アンダルシアの雌犬
ルイス・ブニュエルの遺作だが、随分前に見たきりなので、二人一役という奇手以外はあまり覚えていなかった。一人二役というのはよくあるが、二人一役となると舞台公演のダブルキャストか、成長過程の異なる時期を役者で演じ分けるとか、アクションやヌードのシーンだけ別の役者にすげ替えるボディ・ダブルとかはあるけど、この映画のようなケースはあまり見当たらない。キャロル・ブーケはクール、アンヘラ・モリーナはホットという属性の差はあるが、さりとて女の二面性を戯画化するためというわけでもなく、入れ替わりに何の法則性もない。
「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」は食事にありつけない悪夢を描いていたが、片やこの作品はその性的ヴァリエーションだ。女は媚態を示したかと思うと、徹底的に拒絶する。さながら手を伸ばすと飛び去ってしまう小鳥のよう。かつて見た時は男の妄執を描いた映画と思ったが、あらためて見ると女のしたたかさの方が一枚上手だ。
女の“エロ資本”と男の“金”
「この子もしかして抱けるんじゃないか?」と期待をさせて、お客(または男)にお金を注ぎ込ませギリギリまで引っ張る、現代でいう“キャバクラ嬢とそれにハマる痛客”が本作でも描かれている。エロ資本(若さと美しさ)をフル活用する女と、金でモノを言わせようとする男(今でいうパパ活とか?)このような男と女の関係性や人も、古今東西存在するんだとちょっと安心したり。
コンチータの二面性や魔性っぷりを表現するためにタイプの違う二人の女優が演じているが、前情報をいれずに見ると少し混乱するかも。まぁ、どちらの女性もとびきり美しく、ファッションも素敵で思わず見惚れてしまうほど。
恋をすると冷静になれないのはわかる。だけど、もう少し客観視できないかね?マチューくん。
マヌケな男のストーリーをここまで飽きさせずに描けるところもお見事。
当時のスペインの様子も描かれていて見応えある。裸での フラメンコを嬉しそうに鑑賞しているのは日本人観光客でした。
【明日はタンジール】
“あの人たちは、セビリアに宿を取り、明日はタンジールに旅立つ旅行者よ”
あのコンチータの裸のフラメンコを見ていたのは、この映画の製作年から考えて、日本人なのだろうなと、ちょっと苦笑してしまう。
ああした日本人は、当時は沢山いたのだ。
ところで、裸のフラメンコを見たことはないけれども、バックパッカーをしていた時に、僕もセビリアに宿を取り、翌日、モロッコのタンジールを目指したことがある。
この作品は、ルイス・ブニュエルの遺作だ。
男や女の本質に迫っているような気がして、僕は結構好きな作品だ。
この作品の、コンチータは、キャロル・ブーケとアンヘラ・モリーナの二人の女優が演じ、女性の2面性を表していると言われているが、それに加えて、僕は、スケベ親父が、女性に対して性欲が勝り、一人の女性を愛していると口では言っても、肝心な顔さえも実は曖昧にしか覚えておらず、関係を求めてしまうといった皮肉も込められていると強く思う。
あと、コンチータが見せる焦(じ)らしについて白状すると、“いるいる、女性にこういうタイプ!”って、ものすごく同意したくなる。犬へのお預けじゃあるまいしと。
映画は、テロだのギャングの抗争があっても、ブルジョワジーはこんなものだと制作当時は言いたかったのかもしれないが、現代もうわべは豊かになって、自分のことしか考えられなくなっている僕たちの社会も同じなんだと思う。
結局人間は変わってないのだ。
どうしても女をモノにできない男のシニカルな艶笑譚。「二人一役」の奇策が炸裂する巨匠の遺作!
ブニュエルお得意の「●●したいのに、どうしても●●できない」シリーズを締めくくる、彼の愛すべき遺作。
今回は、「とある女とやりたくてやりたくてしかたないのに、どうしても一線を超えられない」初老の男の悲哀を描く。
内容的には『昼顔』とよく似ているというか、『昼顔』に出てくる「させてもらえない旦那」を主人公に独立させて、一本のシニカルなコメディに仕立てた感じというか。
一筋縄ではいかない難解さも併せ持つものの、基本はベタな艶笑譚なので観ていて純粋に楽しいし、随所で発揮される変態性やラストの刹那的なびっくり落ちもひっくるめて、人を食ったブニュエルの魅力がいっぱいにつまった愉快な一作となっている。
本作は、映画史上おそらく初めて、「二人一役」を採用したことで名高い。
すなわち、一人のヒロインを二人の女優が演じるのだ。
これは、舞台で日替わりに女優が同じ役をやるのとも違うし、アクションやヌードでだけダブルを用いるのとも違う。もちろん、おしんが小林綾子から田中裕子になって音羽信子になったのとも違う。
この映画では、キャロル・ブーケとアンヘラ・モリーナという二人の女優が、同じ役柄をシームレスで入れ替わり立ち代わり演じ分ける。カットが変わると、さっきまでキャロル・ブーケが立っていたところに、同じを服を着たアンヘラ・モリーナが立っている。でまた次のシーンではキャロル・ブーケに戻る。その入れ替わりには一切の説明がない。「二人一役」とは、そういうことだ。
向こうのWikiによると、もともとはマリア・シュナイダーで撮り出したか、テストを始めたかしたのだが、全然ダメということでお眼鏡にかなわず三日で返され、さあ映画自体がポシャるという瀬戸際になって、ブニュエルがなかば冗談で出してきたアイディアだったらしい。
そもそも、本作のコンチータというキャラの一貫性の無さ――男を誘っては逃げる魔性ぶりにブニュエルは演出をどうしたものか頭を抱えていて、どうせならいっそのこと二人の女優に演じさせたらどうかと、苦し紛れに思いついたんだそうな。さすが、天才。考えることの次元が違う。
「二人の女優に同じキャラを演じさせることで、女の二面性を表すなんてすごい!」
こういう言い方をすると、われわれ凡人は、たとえばA面B面とか、双極性障害とか、「淑女と娼婦」とか、そういう「切り替え」演出をつい思ってしまう。すなわち、理知的で楚々としたキャロル・ブーケと、陽気であけすけで可愛いアンヘラ・モリーナで、ヒロインの二面性を具体的に描き出しているのではないかと。
でも、実際に観た印象で言うと、ブニュエルはたぶんそんなことはしていない。
この手のシーンはキャロル・ブーケで、あの手のシーンはアンヘラ・モリーナで、といった区分や棲み分けを、どうやら敢えて設けていないようなのだ。
むしろ、時間で区切って、自動的にA、B、A、B、A、Bと、交互に出してきているくらいの機械的な切り替え感がある。
要するに本作が「女性の二面性を描くために二人の女優に演じさせている」という説明自体は正しいとしても、「二人の女優に一人の女性の二面性を演じ分けさせている」わけではない、ということだ。
これこそが、本作において発揮された、ブニュエルの真の天才性ではないかと思う。
あえて、冷静さをキャロル、奔放さをアンヘラみたいな「ダッサい」ことをせず、二人の区分を「あいまい」に仕上げてある。
そうすると、結果的にどうなったか。
コンチータというヒロインが、個人のキャラクターではなく、ほんとうの意味で「普遍的」な女性のアイコンとなり得たのだ。
画面内の鑑賞者であるマチューからも、劇場内の観客からも、コンチータという「個」は、つねに二人の女優の存在によって、ぶれ続け、揺れつづける。その二面性、多層性は、いつしかハレーションを起こし、「個」は分解され、やがて「女性というあいまいな何か」へと拡散してゆく。
コンチータは、コンチータという名を冠された、ある種の記号なのだ。
移り気で、理解不能で、貞淑で、淫乱で、魅力的だが、許しがたい「女性」というあいまいな欲望の対象を示す、概念なのだ。
僕たちは、コンチータを観ているようで、その実、「性的対象として女性を観たときに味わわされるすべての喜び、興奮、あせり、怒り、苦悩」を追体験し、男女の駆け引き(ゲーム)のあらゆる局面を眼前に展開されることになる。
ブニュエルは、女優を一つの役に二人、あえて役割を分けずにフラットに投入することで、キャラクターを完全に「ギミック」として観客に認識させ、そこに役を超えた普遍性を付与することに成功したのだ。これは、なかなか余人にできることではあるまい。
で、つけたタイトルが『欲望のあいまいな対象』。いやあ、キレッキレである。
内容自体は、たわいないといえば、たわいない。
ブルジョワジーの初老の男が、ひたすらセビリア人の小間使いに迫り、小間使いは気があるように見せつつ、押せば逃げ、諦めれば寄ってくるようなそぶりで翻弄しながら、決して一線を超えさせない。ただ、それだけの話だ。
男は、目の前にぶら下がっているのに食べられない果実に、すがってみたり、妥協してみたり、怒り狂って追い出したり、またわざわざ探しに旅に出たりと、妄執に囚われて七転八倒する。まさに下半身でものを考える、というやつだ。
いっぽうで女は、男に見つけられると逃げるでもなく、むしろ好意を前面に押し出し、いかにもすぐやれそうなことをにおわせるが、いざ本番となるとするりと逃げてしまい、あげく貞操帯まで着用してくる。どうやら本気でやらせる気はないらしい、と観客が気づくのは結構後になってのことだ。
けっきょく、誇張され、戯画化されてはいるが、ブニュエルにとって、男女の営みとそこに至るまでの駆け引きというのは、まさにこういうことだったのだろう。
とはいえ、本作は単なる艶笑譚として観るには、いろいろと考えさせられるところが多い。
たとえば、男性はとにかく入れることに執着するが、女性はペッティングで十分だとか、なぜ性行為が恋愛の延長上になければいけないのか、といった「セックスの温度差」や「恋愛と性行為」といったテーマはじつに普遍的なものだと思う。
なんでも金で解決しようとするマチューのやり口の汚さが、ブニュエルらしいブルジョワジー批判の一環であるのに対して、コンチータの盲目的な身持ちの固さは、彼女がカトリック国であるスペインの出身であることとも無関係ではないだろう。すなわち「宗教と性」というテーマも仄見えるわけだ。
それから、本作には全編を通じて、きわめて唐突な(ちょうど『アンダルシアの犬』を想起させるような突発性で)テロリズムが各所に挿入され、当時のスペイン、フランスの不穏な気配を表すと同時に、「暴力」と「死」の気配を濃厚に漂わせる。この「暴力」の気配は、マチューとコンチータの関係性にも反映し、当初はいわゆる「恋のさや当て」のような粋な会話の応酬だったものが、そのうちお互いのウィークポイントを叩き合うような口論や「ドッキリ」に発展し、最後にはDVのような暴行や、スラップスティックのような水の掛け合いへと行きついてしまう(そういや欧米でも「水掛け論」っていうんだろうか??)。もちろん、この唐突な暴力の繰り返しが、やがて訪れるラストに向けての伏線であることは自明である。
ブニュエルの「女性に対する違和」が二役というギミックに通じているとすれば、本作を彩るテロリズムは、彼の「世界に対する違和」の具現化でもあるのだろう。
このドラマツルギーを逸脱した唐突なテロリズムも含めて、本作ではあちこちに、簡単には説明のつかない呪物のような象徴物が挿入され、シュルレアリスティックな効果をあげている。
突然飲み物に飛び込んで死に至る蠅。ばね罠にかかって死ぬ(あからさまにおもちゃに見える)ネズミ。このへんは、愛欲のゲームに取り込まれているマチューを表すメタファーか?
それから、随所で登場する白い麻袋と中の布地。血のついたような白布は、容易に処女の証を想起させるが、不穏な暴力性の象徴であるともいえる。ラストでも登場する、枠を用いて刺繍の縫い取りをするイメージは、やはり処女膜と連関があるのだろうか。
その他、こびとの心理学者の相客や、エロ話に聞き入る女の子、裸フラメンコ、やりすぎの殴打シーンなど、観客の心を揺さぶってくる仕掛けやくすぐりは満載だ。
あと、ほとんどの物語の内容がマチューによる回想譚になっていて、それがブルジョワジーの集まる一等車両のコンパートメントで相客に話して聞かせる形で展開するというのは、旧い『デカメロン』の形式(貴族がペストを逃れた疎開先で艶笑譚を話してきかせる)を踏襲しているようにも思う。また、過去の回想とすることで、女優が二人に揺れるイメージの不確定さに根拠が生まれている部分もあるだろう。
キャロル・ブーケはこれがデビュー作。アンヘラ・モリーナも当時は新進で、かなり思い切ったキャスティングだったのではないか。ブニュエルの「この手の」(女に男が惑わされる)映画では毎度主役を張るフェルナンド・レイだが、同様にここに居てしかるべきミシェル・ピコリが居ないと思ったら、なんとフェルナンド・レイのフランス語は吹き替えで、その声をミシェル・ピコリが担当しているらしい(笑)。なんだよ、出ずっぱりじゃねーかw
ちなみに、キャロル・ブーケとアンヘラ・モリーナのフランス語音声も吹き替えで、そちらは『最後の晩餐』にも出てたフロランス・ジョルゲッティという女優さんが担当しているそうな。
とことん人工的というか、役者から「個」を奪っていく仕掛けが張り巡らされてるんだな。
いずれにせよ、男と女の駆け引きにとことんこだわり、シュルレアリスムの手法を援用しながら、「じらされて臨界に達した欲望のありさま」を見つめ続けた巨匠の遺作として、まさにふさわしい一作だと思う。
コンチータ
1977年 スペイン/フランス映画
スペインでは1973年ブランコ首相が〈バスク祖国と自由〉に暗殺され
1975年フランコ死去で民主化移行期に入る
バスク地方はスペイン―フランスにまたがっており
コンチータはスペイン内戦で発生したバスク難民の娘なのか?と思った
(彼女を二国の女優に演じさせるのは そういうことかと… )
モリーナは土着性、激情が感じられ
ブーケは美しいが 冷気を感じさせる冷たさで、あの目はテロリストの目かも(笑)
若い娘のスペインの地位も金もあるブルジョア紳士に対する憎しみの様なもの… も感じられる
(何故 裸でフラメンコを踊らなければならない境遇なのか… )
政権が変わっても(紳士と彼女の関係のように)スペインと〈バスク祖国と自由〉の血みどろの闘いが続くことを映画は暗示して終わる
フランコ政権下で指名手配されているのに
いそいそとスペインに戻り、映画を撮ってしまったブニュエル(←批判された)は
アメとムチに惑わされる紳士に自らを重ねたのだと思う
コンチータは〈バスク祖国と自由〉の独立願望と激しさを表しているみたいだが
フランコのようでもある
嗚呼やらせてくれない!
小金持ちのおっさんが清楚系(?)のねーちゃんに翻弄されるお話で、たまらなく情けない感じが最高です。やらせてくれない女の子とどうしてもやりたい男のアホらしさが延々と続いておりますが、女の子もどうやら徹底した実利主義ともいえず、なかなかのかまってちゃんてところがいいですね。
ところどころ意味のないカットが挟まれますが、無節操・無意味なのもばかばかしくて好きです。
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