「悪趣味魔人デ・パルマによる、人工的で耽美的なヒッチコック・パスティーシュ第一弾!」悪魔のシスター じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
悪趣味魔人デ・パルマによる、人工的で耽美的なヒッチコック・パスティーシュ第一弾!
デ・パルマの初期作が小屋でかかると聞いたら、
さすがに万難を排して行くしかあるまい。
おそらく20年ぶりくらいの視聴だが、
やっぱ昔の凝った映画ってのは、
無条件に楽しめるよなあ。
とにかく人を食ってる。
悪趣味でキッチュ。
大人の遊び感。
嗜好の塊。
最高!
ね?
ブライアン・デ・パルマ。
いろいろとクセの強い監督だ。
ただ、デ・パルマをこよなく愛する人間として、
これだけは強く言っておきたい。
デ・パルマという監督の本質は
「笑えないブラック・ジョーク」にこそある。
そこのところを変に勘違いしてしまうと、
唐突な展開や妙ちきりんな演出がまるで理解できずに、真面目な観客諸氏はむかつき、頭を抱えることになりかねない。
本来的に、デ・パルマは常に「面白がっている」。
客をおちょくって、楽しんでいるのだ。
ところが、観客にはそれが伝わらない。
その温度差が、妙に乾いた「別の笑い」を生む。
デ・パルマ映画は、観客の「おいおい」というツッコミをあらかじめ期待してつくられている。
この点をゆめゆめ忘れてはいけない。
一見、デ・パルマの映画は、「まともな」ホラーやサスペンスやギャング映画の体裁を取って、「擬態」していることが多い。
ましてや、いまや80過ぎの大巨匠。業界の大立者の一人である。
『アンタッチャブル』あたりで彼を知ったような若い映画ファンから見れば、まさかそこまで性格やテイストのおかしな監督だとは、ふつう思わないだろう。
だが、彼の頭のおかしさを侮ってもらっては困る。
ここまで歪んだ笑いのセンスと、奇妙な嗜好をもったサスペンス監督というと、他にはポール・ヴァーホーヴェンくらいしか思いつかないくらいに、デ・パルマはくるっている。
たとえば、今回上映された『悪魔のシスター』。
タイトルクレジットの成長してゆく胎児写真。
悪趣味なシャム双生児の画像。
盲人を視姦する黒人ネタ。
下品な公開番組。
すべてが、露悪的で、バッド・テイストだ。
しかも「たいして笑えない」。
この独特の歪んだ「にやにや笑い」の感覚を、ホラーやサスペンスのテイストとごった煮にして、波状攻撃のようにかましてくるのが、デ・パルマという監督の特徴なのだ。
黒人にジャングル・レストラン大当たりってネタも、たいがいにひどい(笑)。
あのダッサい誕生ケーキも、マーゴット・キダーの鼻にかかった舌足らずなフランスなまりも、ラウラ・アントネッリ風の乳首透けも、元夫の得体の知れない奇顔や帽子や艶めかしいピンクの唇も、ソファにしみ出す血も、無駄に大仰なバーナード・ハーマンの音楽も、すべてが調子はずれで、とぼけていて、悪意に満ちていて、何かがどうしようもなく、ずれている。
でも、それらが稚気にあふれるスプリット・スクリーンの仕掛けや、流麗なカメラワーク、爆弾理論に基づいたサスペンスの醸成、迫真のスラッシャー描写、ダリオ・アルジェントを彷彿させるような赤を生かした耽美的な色彩設定といった、スリラーとしての外連味と混淆されることで、作品は唯一無二のテイストを示しはじめる。
どぎついわりに笑えないブラック・ジョークが、だんだん病みつきになってくる。
すべてがいびつにゆがんだ、陶酔感のあるめくるめくサスペンス世界。
恐怖と、笑いと、官能が、他で見たことのないような渦(ヴォルテックス)を形成している。それは人工的で耽美的な「恐怖」と「笑い」のマリアージュだ。
やっていることはたいてい差別的でとことん下品なのに、なぜか映画としては「品位」を感じさせる。そこがデ・パルマ印のサスペンス映画の不思議なところだ。
おそらくそれは、デ・パルマが目指しているのが虚構美の極致であり、リアリティからはかけ離れているがゆえのことなのだろう。作品の中核を成すのが「稚気」だからこそ、デ・パルマ映画には、どこか「澄んだ」知的遊戯の気配が常にひそんでいる。
そもそも、デ・パルマという人は、50年前に「心ある」映画ファンからどのように認識されていたかというと、「アルフレッド・ヒッチコック監督の俗悪なエピゴーネン」として知られていたわけだ。
『悪魔のシスター』でも、明らかな『裏窓』(54)のパロディから始まって、『サイコ』(60)を彷彿させる殺戮シーンがあって、『バルカン超特急』(38)みたいな「信じてもらえない目撃者」が出てくる。ソファをめぐるコミカルなシーンなどは『ハリーの災難』(55)風。そこで部屋内を移動しながら犯人を追いかけまわすカメラワークは、ほぼ『ロープ』(48)の再現に近い。母親とふたりで女性記者が海沿いで車を走らせるシーンは『鳥』(63)を想起させる。終盤の病院のシーンなどは、ほぼそのまんま『白い恐怖』(45)へのオマージュだといっていい。
そもそも、半引退状態だったバーナード・ハーマンをわざわざ引っ張り出して、作曲家に起用していること自体、「こちらヒッチコック・サスペンスのパロディでござい」と宣言しているようなものだ。
とにかく、デ・パルマは全編にわたって、ヒッチコックをパクっている。
それどころか、次作でも、そのまた次作でも、彼はヒッチコックを剽窃しつづけるのだ。
で、なんでそんなことを繰り返しているのかというと、おそらくなら深い意味はない。
デ・パルマには「それが面白い」と思えているから。
愛する作家をパクる。それに客が突っ込む。作品の品位が落ちる。
この悪戯感と共犯性と露悪趣味が、本人にとっては楽しくて楽しくて仕方ないのだ。
「パクリ」もまた、彼特有の「笑えないジョーク」の一環というわけだ。
でも、一度、彼の呈示する「恐怖」と「笑い」のマリアージュの「味」を覚えると、そこからだんだんぬけだせなくなる。
白子やフキ味噌やからすみのような「大人の珍味」と似たようなもので、食べ慣れてくるにしたがって、変な味がなぜか変に思えなくなってくる。
舌がいつのまにか「うまい」と認識しはじめるのだ。
こうなるともう、デ・パルマ中毒患者のできあがりである。
ご同慶のいたり。ようこそ、悪食の世界へ!
― ― ―
『悪魔のシスター』は、デ・パルマの得意とする「ヒッチコック風スリラー」の第一作であり、いわゆるデ・パルマらしさのすべてがふくまれているといっていい。
先ほど羅列してみた「悪趣味」の乱れ打ちは、終盤まで変わらず押し寄せてくる。
(そもそも、作品を撮り始めたきっかけが「ソ連のシャム双生児の記事を読んで面白かった」からってのが、実に低劣ですばらしい。)
嬉々としてフリークスのビデオ鑑賞会を始める老新聞記者。
(彼の地位の高さは摩天楼にある瀟洒なオフィスから伝わってくる。)
妙に高圧的だが、思いのほか仕事がめっちゃ出来る探偵(笑)。
(いきなり件の部屋に侵入して物色できている展開自体がギャグだ。)
とくに、舞台が例の洋館にうつってからは、情報の開示の仕方が完全にコメディ映画のそれで、じつに気が利いている。
なんでもないように「奇妙な庭師」が出て来て、電話を借りようとしたら今度は「奇妙な潔癖症の女」に因縁をふっかけられる。そこまで来て、観客も初めてここが●●だと気づくわけだ。なんて小粋な演出だろうか。
そのまま今度は(追い詰めたつもりが追い詰められて)『時計じかけのオレンジ』(71)か『カッコーの巣の上で』(75)みたいな悪夢的世界がスタートするのだが、このあたりのドリフっぽいうさん臭さが、もうたまらない。ニューロティックで、シニカルで、コミカル。
「違和の笑い」は、素っ頓狂で牧歌的なラストシーンでも炸裂する。
まがいなりにも延々ここまで引っ張ってきた映画を、こんなシーンで終わらせる映画監督が、ほかにどこにいるだろう? なんてオフビートな……。でも、これがデ・パルマなのだ。
一方で、映画としての最大の弱点は、逆にプロットのほうにあるのかもしれない。
さすがに、この映画のネタの核心はわかりやすすぎる、という話だ。
そこはたしかにちょっと気になるかも……(笑)。
現代のミステリ愛好家からすると、本作の叙述トリックはほぼ「誰にでも」わかるレベルでバレバレだったりするのではないか?
とはいえ、この映画の撮られた1972年といえば、サイコスリラーはまだジャンル化しておらず、NYあたりで書かれている「どんでん返し付きのサイコ小説」はまだ「ニューロティック・スリラー」と呼ばれていた時期である。
当時のマーガレット・ミラーやヘレン・マクロイ、リチャード・ニーリィあたりによる、先駆的な叙述トリック系ミステリ小説のネタの「シンプルさ」を考えると、『悪魔のシスター』くらい頑張っていれば、すでに「十分」及第点には達しているともいえる。
あるいはその「ネタの割れやすさ」「真相の茶番感」自体が、デ・パルマならではの「笑えないジョーク」の一環だという解釈もありうるのかも。
それともう一点、本作には意外にシリアスな「精神分析的なアプローチ」が可能だという点は見逃せない。
「双子」「狂気」「医師と患者」。
この三大噺を通じて、デ・パルマはさまざまな「隠しテーマ」を付与している。
たとえば本作のなかに、家父長制に対して反逆する女性の深層心理といった「フェミニズム的な含意」を見て取ることはたやすい。
あるいは、女性のもともと持つ「二面性」や「相反する感情」の対立と超克を、「双子」にかこつけて描いた作品だということだって可能かもしれない。
さらには、精神治療における「陽性転移/陰性転移」の問題に、鋭くメスを入れた映画だともいえる。
実はこう見えて、なかなか一筋縄ではいかない映画だったりもするのだ。
最後に。
なにはともあれ、本作におけるマーゴット・キダーは実に魅力的だ。
彼女はこのあと、ホラー・サスペンスのスクリーム・クイーンと『スーパーマン』のヒロイン役を交互に演じ続けるという、いかにもメンタルに悪そうなフィルモグラフィを形成したあと、私生活では三度の結婚と離婚を繰り返したすえ、アルコール及び薬物の過剰摂取による自殺をとげることになる。
― ― ―
本作のあと、デ・パルマは『ファントム・オブ・パラダイス』(74)『愛のメモリー』(76)とキャリアを重ね、『キャリー』(76)『殺しのドレス』(80)という二大傑作を世に送り出す。
『キャリー』は、冷え冷えとしたキングの原作を、ピノ・ドナジオ節と甘美なソフトフォーカスで、吐き気がするようなメロウな青春映画に仕立てた悪意&ギャグ炸裂の快作。あの有名なジャンプ・スケアのラスト・ショットについても、皆さん騙されてはいけない。あれは、彼一流のギャグなんですよ、ギャグ(笑)。
『殺しのドレス』は、ヒッチコック・パスティーシュとして洗練と悪趣味の極みに達したデ・パルマ美学の粋のような映画で、冒頭の本編とまったく関係のないアホ丸出しのシャワーシーンは、まさに捧腹絶倒。一方で、美術館で姥桜が「喪失の連鎖」によって追い詰められていくシーケンスは、心理描写が映像表現と密接に結びついた迫真のモンタージュで、本家のヒッチコックにも決して負けていない。
ただ、この二作以上にぜひおすすめしたいのが、『ミッドナイトクロス』(81)。
主演は当時低迷期にあったジョン・トラボルタ。内容は単なるゆるめのB級社会派サスペンスで、出来自体は正直たいしたことない映画なのだが、とにもかくにも、ラストが凄い。
デ・パルマのいびつな笑いが極北へと突き抜けることで、逆に虚無の深淵へと達してしまった奇跡的な傑作であり、本作のラストシーンに震撼しない人間は映画などもう観なくていい、とさえ思ってしまう。冒頭に張られた伏線が、ラストで非常識きわまりない「くだらなさ」をもって生かされ、その「くだらなさ」ゆえに観客の慟哭を呼ぶ。この「笑い→悔恨」のドラマは、デ・パルマ以外の何人たりとも作り得ない類のものだ。
僕の「男泣き映画」ベスト1を、『狼は天使の匂い』(72)と分け合う一作。
もし『悪魔のシスター』が思いのほか面白かったという方がいらっしゃったら、
ぜひ『ミッドナイトクロス』のほうもご覧になっていただければ!
「ミッドナイトクロス」も大抵の人が面白いと感じるはずです。
オープニングのシークェンスさえ乗り越えてくれれば(笑)
でも、あそこを観ないとラストが効いてきませんからねぇ。
熱いデ・パルマ論、感服いたしました。
私も大人の珍味にはまった同胞です。
「キャリー」「殺しのドレス」「ミッドナイトクロス」の3連作は映画自体もさることながら、ナンシー・アレンに魅了された私です。
後にも先にもアレンをあんなに魅力的に撮った監督はいませんね。