許されざる者(1992)のレビュー・感想・評価
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新年一発目、おかしな作品を見る訳にはいかない。大好きなイーストウッ...
新年一発目、おかしな作品を見る訳にはいかない。大好きなイーストウッドのアカデミー作品でスタート。
誰が正義で、誰が許されざる者なのか、それは絶対ではなく、どの立場に立つかで違うもの。そんストーリーは面白くはあったが、正直アカデミー作品賞までの話か、とは思った。
この作品は私には役者が全てだった。イーストウッドはもちろん、モーガン・フリーマンにジーン・ハックマン。どんなつまらない作品でも名作になってしまいそうだ。
今年も良い作品をたくさん楽しみたい。
Make my Day!
クリントイーストウッドの作品を何本か借りてきてみ始めたが、この映画はダーティーハリーの西部劇版、Make my Day や Do I feel lucky? Well, do you, punk? などハリーの使った流行語がこの映画にぴったりだし、差別用語も出てくるし、、、、途中までみたけど、嫌になった。グラントリノを見た後にこの映画を見たので、結構疲れた。
この映画を見るのを休み、BBCのクリントのドキュメンタリーを見た。このクリント監督は有名だが、あまり俳優として活躍した時をマカロニウエスタンの俳優でしか知らない。黒澤明の『用心棒』をリメイクしたセルジオ・レオーネがジェームズ・コバーンを使いたかったが、忙しくて契約できなかったし、契約料が2万5千ドルで高すぎて払えず、クリントに決めたと。クリントに1万5千ドルで契約したと。クリントは台本がイタリアの英語で書かれていたし、撮影の仕方も不思議に思い、セルジオに聞いたけど?そのまま続行したと。
でも、この映画で、クリントは有名になったし、これらの映画も有名な映画になったのではないか。私は映画界を良く知らないが、多分そう思う。
そして、この西部劇版、ダーティーハリー『許さざれる者』だが、1880年の話で、金がないから二人の子供を食わしていけない。賞金1000ドル目当てで、娼婦を傷つけたカーボーイ二人を殺しに行く。妻と結婚して殺し屋業から長い間足を洗っていたが、妻は三年前に他界し、豚の疫病などで、生活がニッチもサッチも行かなくなり、昔の殺し屋仲間と共にワイオミングのビッグウィスキーという町に出かける。子供二人に、『食べ物がない時はチキンを殺せ、病気とそうじゃない豚をわけろ。困ったら、ネッドに相談しろ。二週間家をあけるから。』といって、父親のマニー(クリントイーストウッド)は出かける。当時は、子供だけをおいて行ったんだ?馬で二週間でカンザスからワイオミングまで往復することができる?ネッドはマニーと一緒に組んでワイオミングに行く。子供は?ネイティブアメリカンのネッドの奥さんとマニーは面識かなさそうだったし、などと思いながらみていた。おいていく二人の小学生ぐらいの子供が気になってしまった。ひとまず、勧善懲悪映画だと思うから、マニーは子供のところに死なないで戻ってくるだろう。でも、ネッドは?などど思った。(11/23/20)
キッドという青年が持ちかけたカーボーイ殺しに出かけるわけだが、この道中から最後保安官を殺すまでの行動のなかで好きなシーンがある。一つだけ書くと:
キッドは今までに五人殺したと粋がっていたが実際のところ人殺しをしたのが今回初めてで、木の下に座ってアルコールを飲みながら、過去の話をマニーにする。マニーは『飲め』というが、キッドの心の中は罪悪感に悩まされる。もう人殺しはしないと賞金を持たされ帰っていくが、この傷はキッドの心に一生残って悪夢に取り憑かれてしまうかもしれない。人殺しからすでに足を洗ったネッドは銃をもつことに恐怖感を感じ、パニック症候群になってしまう。岩陰から銃の引き金を引くことができず、動けなくなってしまっている。それに、マニーの動きや考えかた、それぞれ、三人三様の描写が良くできていると思う。
印象からかけ離れた実態
傷つけられた売春婦が傷つけた犯人を捕まえると報酬をはずむ話に乗っかったカウボーイが仲間とともに本当の悪党に報いを受けさせるなかで、友人想いや妻想いである演出により、邪悪な悪党という印象を払拭させていく作品。ラストシーンの母親はなぜ娘が邪悪な悪党と結婚したのか、知ることはなかった、というセリフに凄みが凝縮されている。
やっぱり西部劇、痛快感があった
まず最初、娼婦を傷つけたカウボーイはクイックマイクだし、あいつだけ賞金かければ良かったんじゃないかと思った。もう1人のデービーボーイはトバッチリでは?
クリントイーストウッド演じる元悪党マニー。生活難から再び殺しに手を染めようとする。引退から10年以上経っているため、馬にもちゃんと乗れず、銃もマトに当たらない、保安官にボコられる。なんか情けなさも感じる。
しかし、ネッドの復讐のために、街の治安を守るため過激な暴力、見せしめをした保安官、娼婦の意思を尊重しない酒場の主人を撃ち殺した銃撃戦は痛快感があった。
勧善懲悪ではないし、マニーのこれまでの行いが許されるものでは決してないが、蔑まされた立場の弱い者(娼婦)にとっては恐ろしくも尊敬するダークヒーローなんだと思った。
全員悪者・・・なのかな?
往年の殺し屋が、娼婦の顔を傷つけた賞金首を狙う物語。
クリントイーストウッドが、モーガン・フリーマン、ジーン・ハックマンを従えて製作した西部劇。
西部劇は殆ど鑑賞しないのですが、オスカー作品ということもあり鑑賞。
派手なガンアクションはなく、「殺されることの痛み」「殺すことの痛み」を真正面から描いた作品のように感じます。
ただ、ラストはどう捉えれば良いのでしょうか?
勧善懲悪でしょうか?イーストウッドの格好良さでしょうか?それとも「人は変われない」という教訓めいたものしょうか?敵役のような立場になった保安官が、決して悪者でなかっただけに、私の拙い映画脳では上手く咀嚼出来ませんでした。
それ以外にも、ラストでは前述の「痛み」の描き方が雑になったようにも感じられ、私的評価はやや辛口の標準点としました。
ザ・西部劇
客の牧童に顔を傷つけられた娼婦が賞金稼ぎを募って復讐を果たす。単純なストーリーだけど
娼婦、保安官、賞金稼ぎそれぞれのプライドとか
思いが感じられ味わい深い。人を殺めてしまう事は一生消えない刻印を心に刻む。
長年酒を絶っていた老ガンマンが殺しのあとで
酒をあおるシーンは印象深い。
また昔のイーストウッドの西部劇が観たくなった。
キャラと状況が掴み辛い!!
脚本が分かり辛く、抑揚や緩急も薄い為、多くのキャラとその時々の状況が把握できませんでした。映画の世界に全く入り込む事ができませんでしたが、再度鑑賞する気にもなりませんでした。銃声は迫力がありました。
結局
結局は人殺しという道を歩むのか。。
何がテーマなのかハッキリしないというか、、
人を撃つこと。人を殺すこと。これを軸に死んだ妻や友人、新しい相棒、敵の保安官やイングリッシュボブを通して描いている、のかな。
人物としての成長が伝わらなかった。物語が何か前に進んだのか。分からず。
タイトルの意味を考える
元殺し屋、女子供も殺す残虐な男が
娼婦にキズを負わした漢を賞金のために殺しに行く。
シンプルなストーリー、シンプルな展開に、
何でこれがアカデミー賞獲れたんだ?
と疑問が湧いていた。
ジーンハックマンは嫌なヤツではあるが、
謂わゆるガンマンではなく暴力的な男。
何故コイツが西部劇の敵役なのか?
銃を撃てない黒人ガンマン
殺した事のない若いガンマン。
そして賞金のために殺しに来た下殺し屋。
キッドが初めて人を殺した後のやり取り、
殺されるモーガンフリーマン
ラストの銃撃戦で全ての疑問が吹き飛んで、
物語はひっくり返った。
許されざる者とは主人公の事だと思った。
良い殺しなどない。
と言うメッセージなんじゃないかと思う。
顔に傷をつけられた娼婦がいつの間にか
性器以外剥ぎ取られたみたいな噂話がもうフリになっていた
のだと思う。殺しにヒーローなどいないという
斬新な西部劇だったんだとラストに分かった。
だけど、この感想が正しいのか分からない。
傑作と言われる所以が分かるにはもう少し時間がかかりそうだ。
完全にイーストウッド西部劇のファン向け
今まで観た映画の中で1、2を争うほど好きです。
しかし本作の肝は、昔ながらの西部劇の根底を覆しているところにあるので、”そもそも西部劇の伝統やお約束を知らない”という人にはおすすめしにくいです。
できれば、ハワードホークス的な伝統的な西部劇、イーストウッドがブレイクさせたマカロニウエスタン、さらにイーストウッド監督西部劇を一通り観たあとに集大成として観るのが断然おすすめです!まさに終着点なので。
監督の功績を歴史に残すという意味でも、本作のアカデミー賞受賞はとても意義のあるものだと思います。
ちなみに、最近の映画でいうとスリービルボードが近いテーマを扱ってると思うので、同作のファンなら西部劇好きじゃなくても楽しめるかもしれません。(あれも現代舞台の擬似西部劇的ではありますが)
何に怒るのか
西部劇は、私はマカロニウェスタンが好きでそういうものを一昔前に結構見ていた。一方で荒野の七人とかそういうのはあまり記憶にない。
そういう自身の経歴というかフィルターで見ていて新鮮だったことがある。これまで悪党が暴れるというのは普通に見受けらたが、同時に無秩序な世界というのが、なんとなくではあるが前提に合ったような印象を持っている。
対してこの作品では、保安官という存在を通して秩序というものが強く印象付けられている。しかしその保安官こそ悪党だと、主人公は言い放つ。
通常であれば正義の味方として描かれるはずの保安官が殺されることにどんな意味があるのかと見ていて感じたのは、正義とか悪党とかという立場よりも、平気で人の尊厳を踏みにじるような真似をするやつに対する怒りがこの映画を下支えしているということだ。
だれにだってプライドがある。娼婦にだって、主人公の相棒にだって、どんな人間にもある。そこをないがしろにしたからこそ、ライフルが火を噴いたとみていて感じる。
素晴らしい
酒も断り女をも断る、改心したかつての極悪ガンマンはさながら戦う聖職者。ラストは圧巻で怒り狂った神が乗り移ったようだった。クリントイーストウッドの演技力に脱帽。室内では帽子は被らないですけどね。
複数回鑑賞して見えてくることがある、さすがの名作
Best of イーストウッド作品として必ず名前のあがる、アカデミー受賞作。運び屋含め、直近のイーストウッド作品を先に観てから遡り、満を持しての鑑賞だと、一度観ただけでは、このシンプルなストーリーのどの部分が名作と呼ばれるポイントなのか、見えなかったのが正直なところ。
グラントリノやアメリカンスナイパーで受けた衝撃のせいで、マニーは自ら殺されに酒場に行くんじゃないか?と勝手に予測した結末。予測は全くお門違い。この作品以前の一般的な西部劇のセオリーや、イーストウッド出演作のパターンを知っていれば、異色の西部劇であるということがすぐわかったのでしょうが。
あれ?悪い奴殺しちゃうんだ?あれ?しかも、宿の主人から殺っちゃうんだ?と、別の衝撃を受けたラスト。
見終わって、しばらくしてから理解したのは、これが、以降に氏が生み出す名作のスタンダードを示唆しているということ。
人を殺すとはどんなことか、のリアル。
過去の過ち、または、昔取った杵柄に捉われる主人公。
正義と罪の境界線。
二度観て、やっと、名作と言われる所以、シンプルなストーリーの中に散りばめられた細かな演出の伝える意義が少しわかった気がします。
一つ気になっているのは、モーガンフリーマンを起用した意義。南北戦争直後に、あの立ち位置での黒人のガンマンの存在がどれだけ一般的だったのか、知りませんが、ネッド役は意図的に、黒人起用したように思えてなりません。見せしめの暴力の後に生きて返されたイングリッシュボブに対して、あっけなく殺されたネッド。1880年代を描きながら現代社会の闇に対する批判やメッセージが、そこには込められているのかも。作品が公開されたのは、LA警察によるアフリカ系アメリカ人への暴行事件の直後。ジーンハックマン演じる保安官のモデルは、その問題の警察官だとか。
などなど考えると、何度か鑑賞を重ねてこそ見えてくるものがある、深い作品なのだと納得させられます。
昔懐かしい感じの西部劇。ラストの撃ち合いの迫力はさすがだった。保安...
昔懐かしい感じの西部劇。ラストの撃ち合いの迫力はさすがだった。保安官も賞金稼ぎも見方によってどちらも許されざる者となっていく。善悪ははっきりつかないが人殺しが罪なのは間違いなく、結局両方とも悪なのだろう。
正義とはなにか・・・。
皆がそれぞれの正義をかざすと無法地帯になってしまう。今のエルサレムとかの現状がそうなのか・・・!?
そんな世の中では自分の信念こそが大事になる。
主人公のマニーは死んだ妻と子供達と友の為に正義を掲げて信念を貫く。
ある意味難しかった。現代の日本人には主人公の行動が正しいのかどーか・・・。
それにしても老いて尚輝くイーストウッド!
俳優としても監督としてもカッコいい!
観ると何か心に刺さる。信念を感じる。
腰抜けました、凄すぎ
最高にして、最後の西部劇
最後の保安官との対決はこれ以上の西部劇はない
雷鳴轟く中、雨が叩く路面をカメラがなめて遠目にサロンを写すシーンから続く展開は神レベル
イーストウッド、ジーンハックマン、モーガンフリードマン役達者ばかり
相棒の死を知り10年来飲んでない酒をあおってからの、歯止めが吹き飛び冷酷な男に戻ったことを象徴してからの演技の凄み
特にカウンターでまた飲みんたあとのシーン
一瞬のためらいをみせるも、結局、許す事をせず止めをさすシーン
彼こそが許すことができなかった男だ
静まりかえり拍車の音だけを響かせサロンを去るシーンに続き、全てが終わり呆然と見送る娼婦たちの表情!
それは本作を観た私達観客の鏡だ
もうまともな西部劇を撮れるのは自分しかいない
その自負をもって、主人公の設定も、時代設定もまた西部劇の最後の時代を描いてみせる
つまり自らハリウッドの西部劇を締めくくってみせたのが本作だ
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