郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942)のレビュー・感想・評価
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男と女は根本的に違う
アメリカの作家、ジェームズ・M・ケインの小説を映画化したもの。1934年発刊だから、作品化されたのは早かったように思います(1942)。しかも、戦争最中といってもいいこの時期に、よくぞ、映画を作れたもんです。ヴィスコンティって、すごい。
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」については、ジャック・ニコルソンとジェシカ・ラングのアメリカ版をずいぶん昔に見たものの、細かいところはすっかり忘れています。ただ、こちらの方が過激で官能的だったような。イタリア版があるのを知って見ましたが、ほとんど瞬間的に食堂の店主の妻ジョヴァンナが宿無し労働者ジーノに惹かれるのに、びっくり。ジョヴァンナ、メスっ気,強い!
風来坊のジーナはただの遊びの気まぐれかと思ったらば、案外、恋にのめり込んでおりました。旅の途中で知り合った自称アーティストのスペイン人の前で、恋の悩みを打ち明けたり。
しかし、こんな出会いもうまく行くはずなく、店主殺害を実行してしまうも、悲惨なラストに。
ジョヴァンナとジーナは、考え方や感じ方の違いで、中々、スムーズにいかず。死んだ男の家で暮らすことをジーナは極端に嫌い、男は店を売って別の土地でやり直したいと考える。女は手堅く、店を続けて、安定を計ろうとする。男女の違いがよく出てます。
ジーノの優柔不断にはほとほと、あきれてしまいましたが、演者のマッシモ・ジロッティは、かなりのイケメン。ボロボロのランニング姿があんなにサマになっているとは!
結局、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の意味はわからないまま。第一、郵便配達も出て来ません。その謎?は、翻訳本のあとがきに書いてあるらしいです。
人生の敗北者をリアリズムで描いたヴィスコンティ初演出の荒々しい凄み
ジェームズ・M・ケインの原作を読んで、その面白さと卓越した表現の荒々しさに感銘を受けた。それでその面白さを期待しすぎて映画を観てしまい、予想とは違った印象を持った。ヴィスコンティがこの処女作で表現したかったのは、夫を裏切り殺人行為に至る女の情念と、その熱情ある女性に魅了された男の戸惑いと無自覚な犯行、そして罪の恐れであり、絶体絶命な境地に追い込まれた時の人間の生々しい生き様である。推理小説の面白さや謎解きではなく、どのような状況下で男と女は、どう表情を変えていくのかが、ヴィスコンティの関心と興味であった。
先ず、前半のレストラン経営者ブラガーナとジーノ関わり合いが、ジャン・ルノワール的な人間表現で見事である。妻ジョバンニがジーノに好意を抱きながら、夫の前では無関心を装うところが面白い。町の酒場でオペラのコンクールがあり、ブラガーナが意気揚々と自信満々に歌い上げるシーンと、三人で裏道を歩くショットは、ルノワールタッチを連想しないではいられない。まだヴィスコンティの演出タッチが確立しないのは解るが、これほどまでに師匠の演出をそのまま再現していることに驚いてしまった。この後殺人が行われるが、映画は殺害シーンを描かない。次のショットでブラガーナの遺体が車の傍らに置かれている。後のジョバンナの事故死を強調するための演出であろう。
ジーノが事件後同じレストランで生活するのに耐え切れず、若い娘アニータと仲良くなるシークエンスは、ヴィスコンティらしい演出を見せる。夫に掛けてあった保険の額の大きさに驚くジョバンナの姿も印象的に描かれている。激しい恋愛の無計画さと、結果お金の損得勘定の現実に引き戻されて不幸になる世の常が窺われるところだ。運命も二人の再出発に逆らうように流れる。
イタリアネオレアリズモの先駆けとなるヴィスコンティの演出は後半に特に顕著である。マッシモ・ジロッティとクララ・カラマイの熱演もあって、赤裸々な欲望に負けた男と女の転落がリアリズムタッチで描かれ、その行き詰まる迫力が見所であった。
1979年9月14日 飯田橋佳作座
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