ヤンヤン 夏の想い出のレビュー・感想・評価
全4件を表示
彼らには「生還」できるホームがあった? 1990年代末 台北 ある5人家族の肖像
野球中継を見聞きしていると得点シーンで「生還」という言葉を耳にすることがあります。「外野を抜けた長打で一塁ランナーが一気に長駆生還」とか「外野フライで三塁ランナーがタッチアップして生還」とかで出てくる「生還」です。これ、どうして「生還」という用語を使っているかというと、得点時に踏むのが「ホーム」ベースだからだと思います。そう、野球とは走者がホームに無事生還して得点となるゲームなんですね。言われてみれば、何の変哲もない正方形の他の3つのベースと違って、ホームベースは五角形で屋根のついたお家の形をしているようにも見えます(あの形はピッチャーの投げたタマのストライク/ボールを判定するためにそうなっただけだけれど)。
この映画の中心にいるのは1990年代末の台北の(日本流に言うと)比較的高級な瀟酒なマンションに住む5人家族です。メンバーの5人は若い順に言うと、邦題に名前が入っているヤンヤン(恐らく小学校の3年生ぐらい 演: ジョナサン•チャン)、その姉で高校生のティンティン(演: ケリー•リー)、この姉弟の父であるNJ(演: ウー•ニェンツェン)、母であるミンミン(演: エイレン•チン)、そして、ヤンヤンの母方の祖母の5人です。
物語はヤンヤンの叔父(母の弟)の結婚式から始まります。その後、ヤンヤンのおばあちゃんは事故にあい、昏睡状態に陥って病院のベッドで寝たきりになり、結局、物語はおばあちゃんの葬式で終わることになります。そう、この映画は結婚式に始まり、葬式で終わるのです。血縁とか、家族とか、親戚付き合いとかを否が応でも意識せざるを得ない冠婚葬祭の儀式−−それを物語の前後においたサンドイッチ構造の中身のほうは、この20世紀末の台湾の新興中産階級(NJは友人とともにIT関連と思われる会社を経営しています)の家族のメンバーそれぞれの姿を描き、彼らにとって家族とは何であるかを、すなわち、我々にとって家族とは何であるかを問うているように感じました。
実はこの一家、皆、大ピンチに直面しているわけで、平和なホームドラマに出てくるような一家団欒の場面なんぞありません。ヤンヤンのお母さんは意識が戻らない実母に話しかけるのに疲れてしまい、宗教に傾倒して家を出てしまいます。ティンティンはおばあちゃんの事故の責任の一端は自分にあるのではないかと悩んでいますが、その一方で隣に引越してきて知り合いになった隣人の恋人とちょっといい感じになってしまってデートしたりもします。NJは会社のほうがうまくいかず、共同経営している友人との関係も微妙ですが、そんななか、昔の恋人と再会して心が揺れています。ヤンヤンは担任の先生と関係があまりよくないようでクラスメイトからもイジメられてるような感じです。
で、この中で中心になって描かれるのは、NJとティンティンです。NJは仕事上のパートナーとして組んでみたい日本人の大田(演: イッセー尾形)に会いに日本に出張しますが、商談の後に昔の恋人と日本でデートします。そのデートと同時刻で(日本と台湾間の時差の関係上、時計の針は日本のほうが1時間進んでいますが)、ティンティンは隣人の恋人とデートしています。それを交互に見せるのですが、その見せ方が映画的でとても美しいと感じました。と同時に、私はこのまま、この一家は家庭崩壊のほうに向かってしまうのではないか、という一種のサスペンス感も感じました。
あと、私は個人的に、ネイティブではない双方が国際言語としての英語でコミュニケーションをとるシーンがとても好きなのですが、この映画でのNJと大田の英語での会話は秀逸でした。双方にとって外国語であまりうまいとは言い難いのですが、なんだか東アジア的な人情が英語に乗っかっているような感じです。このあたり、家族としての繋がりだけでなく、人と人との繋がりの大切さもも描かれているように思いました。
でまあ、何はともあれ、この一家、結局、皆「生還」するのです。おばあちゃんは家族みんなの記憶に残るということで魂がホームに生還します。NJもティンティンも実は途中でタッチアウトになりそうな局面もありましたが、無事、生還します。ラストの葬式のシーンではヤンヤンがおばあちゃんの棺に向かって、ノートに書いた手紙を読み上げます。ヤンヤン、けっこう、ズルいです。だって、このシーンで全部、持ってちゃうんだもの。
「夢」と「現実」の物語
ヤンヤンの父と姉が主人公であり、ヤンヤンはそこに立ち会う観察者という構造の物語。真実を切り取る「写真」を介して、登場人物たちに「現実」を見せる役割を担っているのかな。
・NJ(父)→昔の恋人や価値ある仕事という「夢」、倒産寸前の会社と家庭崩壊間際のプライベートという「現実」
・ティンティン(姉)→美しい恋という「夢」、嫉妬や性欲や支配欲に溺れる生の恋愛という「現実」
・ヤンヤン→終始観察者の立場だが、同級生に対する恋心を抱いていること、父のNJが「あいつは俺にそっくり」と言っていることから、やはり単純に無垢な存在というわけでもない。「自分の後ろ姿は見られないから、写真に撮ってあげる(意訳)」とのことだが、カメラを覗く自分自身もまた、自ら認識することはできないわけで。超然とした観察者というよりは、自分も観察される対象であることに無自覚な子どもといった印象を抱いた。
豊饒な映画の味わい
人生という多面体を、なんという表現の豊かさでスクリーンに映し出しているのだろう。まぎれもない傑作である。
タイトルからして、ヤンヤンという小さな男の子の視点から家族が描かれるのものと予想していたが、映画はそのような一面的な表現に留まるものではなかった。
この作品を鑑賞することは長年の宿題であったが、かと言って例えば、ホウ・シャオシェン監督の「悲情城市」ほどの傑作を期待していたわけではない。しかし、この「ヤンヤン 夏の想い出」は「悲情城市」に勝るとも劣らない傑作である。いや、このように台湾の映画作家に比較対象を限定することがもはや愚かな物言いなのだろう。
映画は母の弟の「出来ちゃった」婚の式に始まり、その式で倒れ昏睡状態に陥る祖母の葬式に終わる。この間、ほんの数週間にも満たない時間に、出産・不倫・後悔・懐旧・家族の断絶・新興宗教・家出・恋への憧れと幻滅・大人への不信・友人・いじめ・思春期・老い・死といった、一人の人間がこの世に生まれてから死ぬまでに経験するであろう、ありとあらゆる出来事がいろいろな登場人物の身に起きる。
これらひと夏の出来事を、台北に暮らす裕福な家庭の父・娘・息子の三人の目を通して描かく。素晴らしいのは、複数の視点から一つを選んで描いたシークエンスどうしが、破綻なく繋がり、一つの物語を構成しているということである。
ビジネスに行き詰った人々や昔の恋人への父の眼差し、同じフロアに住む同級生の家庭事情や恋愛に対する娘の眼差し、意地悪な女の子たちや周囲の大人への息子の眼差し。これらがお互いに影響することはほとんどないし、この三人の登場人物によるコミュニケーションも家族にしてはむしろ少ないのでは?と思わせるほどにあまり描かれない。
にもかかわらず、観客はこれを一つの家族の物語として了解する。それは、この三人それぞれへの感情移入というよりは、この三人という家族への感情移入である。三つの視線が紡ぎ合わされて、大きな一つの世界が見えてくるから、観客はこの一本のフィルムの内容がバラバラだとは思わないし、人生の豊かな味わいを感じることができる。
この作品では、明らかに小津安二郎へのオマージュが捧げられている。言うまでもなく、東京滞在中に熱海に出かけるシークエンスは「東京物語」を想起させる。
エドワード・ヤンは、熱海の突堤でわざわざ俳優をしゃがませている。笠智衆と東山千恵子が並んで歩き、疲れたと言って東山がしゃがむあのカットを知っている者なら、誰しも感じたであろう。同じように海岸でしゃがむウー・ニェンツェンは一人であり、熱海に同行した昔の恋人は傍らにはいない。「東京物語」の老夫婦は寂しさを共有していたが、この台湾から来たビジネスマンは熱海への同行者と共有する思いを過去にしか求められない。誰しもが知っている映画の場面を引用することで、この登場人物の孤独の深さが強く伝わってくる。
私たち人間がどこまで歳を重ねようとも、自分の全体像を見つめることは不可能で、それはコインの両面のように二つで一つなのだ。だからこそ人生は引き返すことに意味はなく、ただひたすら進み続けるしかないことを、映画は一つの家族のほんの短い時間を描写することによって我々に伝えてくれる。
映画という「2」
【90点】
ものすごい傑作です。語れる切り口がいくらでもありそうな映画でした。この監督の作品がもう観られないというのは本当に残念なことです。
原題の『A One and a Two』についてヤン監督は、「人生で起きるいくつかのことは、数字の1+2と同じくらいとても簡単である」と解説されていますが、そのことに対応するように、作中の青年が「映画は人生を3倍にした。なぜなら2倍の生活を与えてくれたから」という意味のことを言っています。つまり、ヤン監督にとってこの映画は「2」なのです。
そう考えると、この映画のなかで繰り返されたパンを用いた空間の対比も、赤と緑も、何度も登場した鏡も、祖母と孫娘も、兄と弟も、夫と妻も、父と息子も、少年と少女も、すべて「2」に対応していたように思われてきます。なにより、姉弟の名前がティンティンでありヤンヤンであったのは象徴的です。
このような対比関係は物語を通じて強調されていたと思いますが、その中でも特に執拗に登場したものは赤と緑の色彩です。ティンティンが夕暮れのガード下でボーイフレンドとキスするシーン、信号がタイミングよく緑から赤に変わっていったのは美しい画でした。それ以外にも、緑の制服を着たティンティンが歩くと、わざとらしく道に赤いバイクが停めてあったり、色彩へのこだわりはやり過ぎてちょっと笑いを誘うレベルですね。ただそれも理由あってのことで、赤と緑の対比が、最終的に二つの対照的な死として物語のクライマックスを彩ったところは、笑いを超えて戦慄しました。そしてお話は綺麗に、式で始まり式で終わったわけです。
ところで、ヤンヤン少年はやはり失恋したのでしょうか……?
(ここまで書いて気付きましたが、この作品では女性が突然消えますね。叔父の元彼女、妻、父の元彼女、娘の友人、小田、学校の少女、そして祖母。帰ってきたのは妻だけではないでしょうか? ちょっと不思議な感じです。夢(理想)と現実、過去と現在の対比でしょうか。そういう対応があるとするなら、最後の教室シーンは、全知=完成(卒業)=死と、無知=未熟=生者とを対比させたものだと捉えることもできそうです)
全4件を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。


