ヤンヤン 夏の想い出のレビュー・感想・評価
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豊饒な映画の味わい
人生という多面体を、なんという表現の豊かさでスクリーンに映し出しているのだろう。まぎれもない傑作である。
タイトルからして、ヤンヤンという小さな男の子の視点から家族が描かれるのものと予想していたが、映画はそのような一面的な表現に留まるものではなかった。
この作品を鑑賞することは長年の宿題であったが、かと言って例えば、ホウ・シャオシェン監督の「悲情城市」ほどの傑作を期待していたわけではない。しかし、この「ヤンヤン 夏の想い出」は「悲情城市」に勝るとも劣らない傑作である。いや、このように台湾の映画作家に比較対象を限定することがもはや愚かな物言いなのだろう。
映画は母の弟の「出来ちゃった」婚の式に始まり、その式で倒れ昏睡状態に陥る祖母の葬式に終わる。この間、ほんの数週間にも満たない時間に、出産・不倫・後悔・懐旧・家族の断絶・新興宗教・家出・恋への憧れと幻滅・大人への不信・友人・いじめ・思春期・老い・死といった、一人の人間がこの世に生まれてから死ぬまでに経験するであろう、ありとあらゆる出来事がいろいろな登場人物の身に起きる。
これらひと夏の出来事を、台北に暮らす裕福な家庭の父・娘・息子の三人の目を通して描かく。素晴らしいのは、複数の視点から一つを選んで描いたシークエンスどうしが、破綻なく繋がり、一つの物語を構成しているということである。
ビジネスに行き詰った人々や昔の恋人への父の眼差し、同じフロアに住む同級生の家庭事情や恋愛に対する娘の眼差し、意地悪な女の子たちや周囲の大人への息子の眼差し。これらがお互いに影響することはほとんどないし、この三人の登場人物によるコミュニケーションも家族にしてはむしろ少ないのでは?と思わせるほどにあまり描かれない。
にもかかわらず、観客はこれを一つの家族の物語として了解する。それは、この三人それぞれへの感情移入というよりは、この三人という家族への感情移入である。三つの視線が紡ぎ合わされて、大きな一つの世界が見えてくるから、観客はこの一本のフィルムの内容がバラバラだとは思わないし、人生の豊かな味わいを感じることができる。
この作品では、明らかに小津安二郎へのオマージュが捧げられている。言うまでもなく、東京滞在中に熱海に出かけるシークエンスは「東京物語」を想起させる。
エドワード・ヤンは、熱海の突堤でわざわざ俳優をしゃがませている。笠智衆と東山千恵子が並んで歩き、疲れたと言って東山がしゃがむあのカットを知っている者なら、誰しも感じたであろう。同じように海岸でしゃがむウー・ニェンツェンは一人であり、熱海に同行した昔の恋人は傍らにはいない。「東京物語」の老夫婦は寂しさを共有していたが、この台湾から来たビジネスマンは熱海への同行者と共有する思いを過去にしか求められない。誰しもが知っている映画の場面を引用することで、この登場人物の孤独の深さが強く伝わってくる。
私たち人間がどこまで歳を重ねようとも、自分の全体像を見つめることは不可能で、それはコインの両面のように二つで一つなのだ。だからこそ人生は引き返すことに意味はなく、ただひたすら進み続けるしかないことを、映画は一つの家族のほんの短い時間を描写することによって我々に伝えてくれる。
映画という「2」
【90点】
ものすごい傑作です。語れる切り口がいくらでもありそうな映画でした。この監督の作品がもう観られないというのは本当に残念なことです。
原題の『A One and a Two』についてヤン監督は、「人生で起きるいくつかのことは、数字の1+2と同じくらいとても簡単である」と解説されていますが、そのことに対応するように、作中の青年が「映画は人生を3倍にした。なぜなら2倍の生活を与えてくれたから」という意味のことを言っています。つまり、ヤン監督にとってこの映画は「2」なのです。
そう考えると、この映画のなかで繰り返されたパンを用いた空間の対比も、赤と緑も、何度も登場した鏡も、祖母と孫娘も、兄と弟も、夫と妻も、父と息子も、少年と少女も、すべて「2」に対応していたように思われてきます。なにより、姉弟の名前がティンティンでありヤンヤンであったのは象徴的です。
このような対比関係は物語を通じて強調されていたと思いますが、その中でも特に執拗に登場したものは赤と緑の色彩です。ティンティンが夕暮れのガード下でボーイフレンドとキスするシーン、信号がタイミングよく緑から赤に変わっていったのは美しい画でした。それ以外にも、緑の制服を着たティンティンが歩くと、わざとらしく道に赤いバイクが停めてあったり、色彩へのこだわりはやり過ぎてちょっと笑いを誘うレベルですね。ただそれも理由あってのことで、赤と緑の対比が、最終的に二つの対照的な死として物語のクライマックスを彩ったところは、笑いを超えて戦慄しました。そしてお話は綺麗に、式で始まり式で終わったわけです。
ところで、ヤンヤン少年はやはり失恋したのでしょうか……?
(ここまで書いて気付きましたが、この作品では女性が突然消えますね。叔父の元彼女、妻、父の元彼女、娘の友人、小田、学校の少女、そして祖母。帰ってきたのは妻だけではないでしょうか? ちょっと不思議な感じです。夢(理想)と現実、過去と現在の対比でしょうか。そういう対応があるとするなら、最後の教室シーンは、全知=完成(卒業)=死と、無知=未熟=生者とを対比させたものだと捉えることもできそうです)
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