もののけ姫のレビュー・感想・評価
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人間と自然の対立を描く映画ではきっとない
人生で初めて映画館で観た映画。親から聞かされた話によれば、怖くて、わからなくて、とにかく泣いていたらしい。でもきっとその原体験が僕を映画の世界へと導いてくれた気がする。だからとてもとても特別な作品だ。繰り返し鑑賞するなかである一つの解釈が生まれたので、そのことを書きたいと思う。それは、一般的な解釈であろう「人間と自然」という二項対立ではなくて、人間にも自然にも共通する「生と死」あるいは「自己と他者」という関係性の物語ではないかという問いかけである。
多くの人がきっと感じているであろう基本的な作品構造としては、「卑しい人間たち」に鉄槌をくだす「崇高な自然」という対比ののち、でもやっぱり「生きていく」ということに執着する人間の本性は覆せず、そのためにある「人間の悪」を「自然の豊かさ」が許す、という見解ではないか。
しかしきっとその見方は、ある側面では正解なのだが、実はもう少し別のことを描こうとしているのではないかと僕は思った。というのも、この「生への固執」ということは、なにも人間に限ることではなく自然においてもまた描かれているからだ。それは、人間へと復讐をとげようとする「イノシシ」や「豺」などの自然側の考え方も、実は「他者の排除」であり、「他者への不理解」がベースになっているということだった。しかし、それは責められたことではなく、生きていくために“仕方のない”考え方でもあり、また、それが“生きるということ”だと主張されているような気がしたのだ。
しかしこの「他者の排除」は、往々にして「自己の崩壊」をも招きかねない。他者の手打ちを知らない自然は、人間に焼かれ、イノシシたちは全滅する。「猪突猛進」という自己への陶酔と、人間=悪という絶対的な決め打ちのもと、悲劇的な結末を迎えてしまうのだ。そして、エボシに代表されるタタラ場もしかり。自然への不理解への結果、自分たちの破滅を招いてしまう。この表裏一体の関係が、すなわち「生への固執」は「死への道」を招きうるというその二面性こそが、シシ神が「生を与え、死をもたらす」という二面性を備えた暗示的な意味合いではなかろうか。シシ神だけが、その両面をも理解して、だからこそ自然だけに偏重するのではなく、時として人間を生き返らせることもすれば、動物を殺すことさえしてしまう。それは、全くもって「生への固執」がないからであり、ただの「理」として、絶対的に存在する「生命の法則」を奏でているに違いない。
そして、その奏で手として、今作では人間側にアシタカが描かれる。彼もまた「自然と人間の共存」という言葉をもって、「生きながらにして死ぬ」「死を意識して生きる」ことを選び取る。「祟り」という存在は、人間における、あるいは自然における「生への固執」としての表出である。「祟り」が、人間だけでなく、自然をもまた蝕むことは、上述の「人間」と「自然」の「生への固執」における平等を示しているのではないか。しかしアシタカは、「祟り」に蝕まれる自らの運命(あるいは死)を受け入れ、「くもりなき眼」で見定めようとする。その姿のみが、エボシ様に代表される人間も、ヤックルに代表される自然も、双方が惹かれていく「生きる」姿なのではないか。
しかし、最後に興味深いのは、その「生」と「死」を司るシシ神ですら、自己の死に直面し、「生に固執」してしまう。その結果として、彼が支配した理の全てを放棄して、自然も人間をも食い殺す。作品の表象的な理解としては、あの結末は人間という欲深い生き物の招いた悲劇には違いないが、一方で「生きるモノ」の宿命としての「死」を予感させる筋書きではないのだろうか。すなわち、シシ神もまた死ぬのであって、その眼前では、やはり怖いのだ。生きていたいのだ。
だからこそ、宮崎駿は「生きろ」という。この世に「生への固執」を抱かないモノなどいないのだと。それによって他者を排除し、自己を崩壊に導かぬモノなどいないのだと。それこそが、この作品のメッセージではないだろうか。だからこそ、宮崎駿は「赦し」の意味で、「生きろ」という。それは「生きていてもいいんだよ」という言葉に違いない。子供たちに、その抱えている闇を、それはアシタカですら抱えるものであり(「祟り」として)、また自然も、そしてシシ神さえも囚われてしまうものだと言っているように思ったのだ。
そして、このことは、実は「エヴァンゲリオン」と対になっているのだと思う。「人類補完計画」とは、個人としての「生への固執」を捨てることを要求していた。それはすなわち、「他者の排除」の存在し得ない世界であって、人間も自然もない、言ってしまえば、全てが「死んでいる」世界なのではないか。その格闘をエヴァではシンジ君が担う。私たち、生きとしいけるモノ全ての葛藤が、ある時にはアシタカとして、またある時はシンジ君として表出しているように思えてならなかった。
「生きる」ということは、「他者とかかわる」ことである。私たちは、人間も、そして実は自然までも、そこに恐怖を感じ、排除したいと思い、自らの存在=生に固執してしまう。その上で、「生きろ。」と宮崎は言った。この映画は、そういう物語なのではないか。
生きるということ
悪人がでてこない。アシタカの視点でいろいろな人間や獣の神などが出てくる。共に生きる道はないのかなんどもなんども問われる。「生きろ」がテーマだが、アシタカとサンが引き付けあっていく感覚がスゴい。ともに生きるアシタカはタタラ場でサンは森で。
シキ神は首を取り戻しで映画は終わる。
自然も人間も負けない。
ちょうど室町時代がその境目ということなのだろう。
三輪明宏の声もいい。
米良さんの声もいい。
ジブリが圧倒的に表舞台に出た作品だ。
そなたにサンが救えるか
久しぶりに金曜ロードショーで観ました。
何度も観てるのですが、やはりもののけ姫は良いですね。
宮崎ジブリ映画の中で一番に好きな作品です。
物語序盤にダラダラすることなく、ストーリーの目的がすぐに定められるのでそこは何も考えずに追っていくことができると思います。
目的(呪いを解く方法)を目指す中で人と自然と動物との共存、憎しみや悲しみやプライド、生産性や利便性につきまとう自然破壊など現状我々が生活していく中での避けては通れない道をファンタジーを通して伝えていると思います。
最後にまたゼロからやり直して新しい良い村にしようというセリフが、やはりどこか後悔しながらも突き進んでしまっていたのかな?と思いました。
また同じ過ちを繰り返してしまうバッドエンドなのか、自然との共存を目指すハッピーエンドなのかは、この後の物語の人々次第なのかもしれませんね。
追伸、カヨちゃんを忘れないでいてください…
『生きろ』の重み
古来より日本には沢山の神々がいた。その中のひとつに生と死を司る神として獅子神がいた。此れは即ち自然そのものである。そして自然に対して畏敬と畏怖の念を忘れた人間に対する警告である。
日本アニメの最高峰であり日本映画の不滅の名作である。当時の歴代日本映画興行収入を記録し日本アカデミー賞最優秀作品賞まで受賞した。そして社会現象となり伝説となった物語り。此れと"千と千尋の神隠し"が双方である。
この作品は当時劇場で1年以上の超ロングランとなっておりその存在を知らない者はいなかった。今の鬼滅のように各シネコンで時刻表上映では無く達成したものだった。シネコンは今の約半数で残りは昔ながらの単館や有っても数館の小規模な映画館達であったのだ。その中で達成した記録なのだ。
また若者の自殺が社会問題となっていた時代でもあった。そんな時、宮崎監督は若者達に「生きろ」とのメッセージを込めてこの作品を創った。物語りの中でタタラ場が破壊された時に登場人物の甲六の妻のトキが言っている「生きて居りゃ、何とかなる」これを伝えたかったのだ。
20回目くらいの鑑賞だがいまだに面白すぎる
こんな複雑でエンタメでアクションでアニメーションの嘘を詰め込んだ作品を作って、国内外で評価されまくったら、そりゃあその後あんな感じのフィルモグラフィーになるかも、いやなるよなぁと今回見て思いました。
隙がない、全てに気が巡らされていて血圧高い!と2025年の今思います。
一瞬2倍速くらいになるアニメーションの動き(アシタカやサンが走る、登るシーン)、たくさんのイノシシ達がそれぞれ全力で命を削って走っている動き、この映画のマジックが宿っている瞬間が絶え間なくありました。
このあとの宮崎駿は、この映画以降語るべきストーリーを無くしていくわけですが、確かにここまで詰め込み、なおかつエンタメに仕上げる力量を見せつけられれば、仕方なしか、とも思ってしまいます。
2025年の私たちから見れば、シシ神はあまりに原子力発電所のようであり、新型ウイルスのようであり、簡単に生と死を体感させるSNSのようでもあり、もうすげぇのなぁ、とため息でした。
台詞も映像も記憶に残るアニメのひとつ
魅力が無い…
つまらんかったです
面白い
もう何度見たか知れない作品。
ラピュタの「すべてを見せる」構造から、「すべてを描くが表現しない」構造へと変えたのは、作り手宮崎駿さんのすべてを描いてしまうと描きたいものがなくなってしまうということに気づいたからだということだ。
だからこの作品の裏設定は凝りに凝っている。
視聴者も感じる矛盾点のようなものを探すために何度も見てしまう。
村というのか小国の王になるはずだったアシタカヒコ
タタリ神によって呪いを受けるが同時に神々の聖痕を受ける。
村を出ることになる際に恋人カヤから受け取った黒曜石のナイフを、いとも簡単にサンへ渡してしまう。
「私はたたらばで暮そう」
さて、
単純に見て楽しめる作品だが、現代人の感覚と当時の人の感覚の違いという視点から見ることでこの作品の裏の顔が見えてくる。
この物語の視点はすべてアシタカによる。
しかし、彼が感じたこと それさえも押し殺していることでアシタカが感じているはずの葛藤のようなものがあまり見えないことが、この作品を別物にしているようだ。
宮崎さんに影響を与えたのが司馬遼太郎さんで、「人間というのは本当に不条理を抱え込んでしまうとき、礼儀正しくなるんです」という言葉が効いたようだ。
この視点によってこの作品がまったく違ったものになり、さらにタイトルがそれに輪をかけてしまった。
アシタカせっ記
これこそがこの作品の本当のタイトルのようだ。
しかしそれでは売れない。
このジレンマ
風の谷のナウシカを「巨大虫オーム」とするようなものだ。
このあたりは岡田斗司夫さんが解説している。
岡田さんは宮崎さんや鈴木さんなどたくさんのアニメーターたちと交流があるので、「実は」というのをよく知っている。
彼の語るこの物語の「実は」は、一般的には追うことなどできないだろう。
さて、、
一般視聴者の私が感じたもののけ姫
縄文文化を受け継いできた小国
豊かな森 自然との調和を崩さない生き方
ここに突如として現れたタタリ神 呪い
少女たちを守り国を守ったアシタカが追放される。
彼の本当は感じていたであろう不条理との葛藤を描かないことで、この作品が万人ウケすると同時に別物になった。
ヒイ様の呪い返し
西の国で起きた不吉なこと 呪いを受けたアシタカをそこへ向かわせることでその呪いを返す手法。
アシタカがたたらばへ残ったのはやはりサンがいるからだろう。
黒曜石のナイフをサンに贈ったのもカヤというたった一つの心残りを捨てたように思った。
それだけ国から追放されるというのはアシタカにとっては重いことだったのだろう。
マゲを切り落としたのは儀式だったが、黒曜石のナイフこそ自分自身をまったく別の世界の人間として生きることの決意だったように思った。
この物語に登場するたくさんの対峙軸
鉄という資源を得るために森を破壊し続けるエボシたち
その鉄を奪いたい侍たち
森の破壊を許さない神々
シシ神の首にあるという強力な力
彼らは巨体で言葉を遣うが、その他の特別な能力はない。
怒り狂い、人間を呪い、心を腐らせるように土蜘蛛のような妖怪タタリ神になるだけで、呪う以外の力はない。
アシタカは「人間の手でシシ神の頭を返したい」と言った。
日本各地に残るダイダラボッチ伝説
エボシには彼女らの言い分が存在する。
捨てられていた女の子を拾ってくる。
病気の人を人として扱ってくれる唯一の人
この多角的な面を考えると、人それぞれの生き方もまた多角的であっていいように思った。
考え抜いた上の生きる術 たたらばと鉄の生産
このたたらばに子供たちがいないのは何故だろう?
捨てられた子供は拾うのに、子供を産むことをエボシは嫌っているのだろうか?
サン
山に捨てられた子供をモロが育てた。
捨てたのが、あるいはエボシだったのだろうか?
目的のためには犠牲もいとわない女エボシ
たたらばの女たちの見たとは全く違う一面をのぞかせる。
シシ神の首 未知なる力 不老不死の力 繁栄の力
「シシ神は活かしもするし殺しもする」
破戒された自然はまた元に戻ろうとする。フクシマのように
人間の行き過ぎた破壊は、結局自然の元に戻ろうとする力によって戻されてしまうのかもしれない。
それを人間は知っていて、または感じることで終末論などが湧き起るのだろうか。
隕石の落下も、大地震も大洪水も自然の元に戻ろうとする力かもしれない。
もし、
サンがエボシの子供だったら、エボシはその罪滅ぼしのために捨てられてる子供を拾ってくるのだろうか? それとも単なる人工か?
既に山犬に育てられていたサンを、エボシは見つけることができなかったのだろう。
逆に山犬と一緒になってたたらばとエボシを狙うようになってしまった。
その娘と戦うときは、娘を殺すこともいとわない。
これこそエボシに降りかかった呪いだが、自作自演とも取れる。
「共に生きる道」
アシタカの提案
この時代 磁石を袋に入れ海岸の砂浜を行ったり来たりすれば、たくさんの砂鉄が取れるが、当然そんなことは無理な時代。
力対力では力のあるものが勝つ。
この構造は未だに変わらないし変えようとしないが、アシタカのような提案をすることはできる。
結局最後は未来少年コナンのように自然の力が勝つ。
この繰り返しが人類の歴史でもある。
様々な対立軸と視点のある物語
もっと書こうと思えば書けるが、キリがない。
だから、何度見ても面白い。
ナウシカがオーバーラップ
共生とは。
宮崎駿氏は一時期、照葉樹林文化論に傾倒していたらしい。
(照葉樹林文化論とは…)日本の生活文化の基盤をなすいくつかの要素が中国雲南省を中心とする東亜半月弧に集中しており、この一帯から長江流域・台湾を経て日本の南西部につづく照葉樹林地域に共通する文化の要素は共通の起源地から伝播したものではないかという仮説であり、この中にはブータンも含まれるとか。この説は現在ではこの文化論そのものを否定する意見もある。諸説ありという事だそう。
衣装はブータンを参考にしていたとか。
かつて西日本に繁茂していた照葉樹林の原生林も今ではほとんどなくなっている。残っているのは屋久島など僅かだと言う。
自分で食べる分だけ獲る。生きるために食べるのであって、娯楽のためなどでは無いこと。
曇りなき眼ですべてを見定めよ‼️
「風の谷のナウシカ」と同じく、自然と人間の対立&共存というテーマを描いた宮崎駿監督の傑作ですね‼️時は室町時代。タタリ神の呪いを断つために旅立った少年アシタカは、たどり着いたシシ神の森で、森の神々とエボシ御前が率いる製鉄集団が熾烈な戦いを繰り広げているのを知る。同じ時期、彼は、人間でありながら森の神々に味方する少女サンに出会う・・・‼️山犬のモロや猪の頭・乙事主、シシ神などのキョーレツすぎるキャラ‼️ナウシカの凶悪バージョンであるサン‼️そんなサンの心を開いてくれる男らしいアシタカ‼️そんな魅力的なキャラたちが繰り広げる凄まじいアクション・シーン‼️手や首が飛ぶチョット残酷なバイオレンス・シーン‼️特にタタラ場でのサンvsエボシ御前、そこにアシタカが乱入するシーンのスピード感と躍動感はアニメーションを超越してる‼️首を失ったシシ神がデイダラボッチと化し、青空にその巨大な姿が映えるシーンの美しさもホントに印象深い‼️そして鑑賞するたびに思う、エミシの村に残されたアシタカの許婚・カヤ‼️多分、エミシの村へは二度と戻らぬアシタカを、永遠に待ち続けるであろうカヤが切ない‼️
白蛇伝なら宮城ま◯子さんですね
1931(昭和6)年に「癩(らい)予防法」なるものが加わる。しかし、それよりも、優生保護法が1948年から1996年まで存在した。それが、1931年の法律と相まって、とんでもない悲劇を生むのだ。
このアニメはそこまで、体制に迎合した話にはなっていない。しかし、やはり、商業的ではないが、優生保護法に重点を置いて描いてもらいたかった。
僕に取っては、一番良くもあり、悪くもある歴史だ。しかし、日本は泥沼から永遠にはい出せない機会になってしまったように感じる。
さて。
勿論、最初に見たのは封切。川崎のチネチ◯タである。
黄砂が酷い大連にて鑑賞
2024年7月31日
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