もののけ姫のレビュー・感想・評価
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やっぱりジブリは安心できる
IMAXで再上映されると聞き、絶対に観にいこう決めていました。過去にテレビ放送で一回見ましたが、ほぼ忘れていたので思い出す意味も兼ねて劇場で鑑賞しました。
4Kリマスターということもあり、大自然の背景がより鮮明になっていました。手書きの絵とは思えないぐらい美しく、もはや動くアート作品と呼んでもいいレベルで圧倒されました。
あのテーマ曲をIMAXのダイナミックな音響で聞いたときは、周りに包まれているような臨場感で興奮しました。まるで、大きなコンサートホールで生演奏を聞いているような感覚でした。
物語はすごく難しく、全体像を把握することができませんでした。それでも、獣との共存や人間の愚かさを描いた宮崎駿は流石だと思いました。
いつ見ても色褪せない作品で、観終わったときは「やっぱりジブリは安心できるな!」となぜか笑顔になれました。IMAXとの相性も良かったので、この機会にぜひチェックしてみてください!
人間と自然の対立を描く映画ではきっとない
人生で初めて映画館で観た映画。親から聞かされた話によれば、怖くて、わからなくて、とにかく泣いていたらしい。でもきっとその原体験が僕を映画の世界へと導いてくれた気がする。だからとてもとても特別な作品だ。繰り返し鑑賞するなかである一つの解釈が生まれたので、そのことを書きたいと思う。それは、一般的な解釈であろう「人間と自然」という二項対立ではなくて、人間にも自然にも共通する「生と死」あるいは「自己と他者」という関係性の物語ではないかという問いかけである。
多くの人がきっと感じているであろう基本的な作品構造としては、「卑しい人間たち」に鉄槌をくだす「崇高な自然」という対比ののち、でもやっぱり「生きていく」ということに執着する人間の本性は覆せず、そのためにある「人間の悪」を「自然の豊かさ」が許す、という見解ではないか。
しかしきっとその見方は、ある側面では正解なのだが、実はもう少し別のことを描こうとしているのではないかと僕は思った。というのも、この「生への固執」ということは、なにも人間に限ることではなく自然においてもまた描かれているからだ。それは、人間へと復讐をとげようとする「イノシシ」や「豺」などの自然側の考え方も、実は「他者の排除」であり、「他者への不理解」がベースになっているということだった。しかし、それは責められたことではなく、生きていくために“仕方のない”考え方でもあり、また、それが“生きるということ”だと主張されているような気がしたのだ。
しかしこの「他者の排除」は、往々にして「自己の崩壊」をも招きかねない。他者の手打ちを知らない自然は、人間に焼かれ、イノシシたちは全滅する。「猪突猛進」という自己への陶酔と、人間=悪という絶対的な決め打ちのもと、悲劇的な結末を迎えてしまうのだ。そして、エボシに代表されるタタラ場もしかり。自然への不理解への結果、自分たちの破滅を招いてしまう。この表裏一体の関係が、すなわち「生への固執」は「死への道」を招きうるというその二面性こそが、シシ神が「生を与え、死をもたらす」という二面性を備えた暗示的な意味合いではなかろうか。シシ神だけが、その両面をも理解して、だからこそ自然だけに偏重するのではなく、時として人間を生き返らせることもすれば、動物を殺すことさえしてしまう。それは、全くもって「生への固執」がないからであり、ただの「理」として、絶対的に存在する「生命の法則」を奏でているに違いない。
そして、その奏で手として、今作では人間側にアシタカが描かれる。彼もまた「自然と人間の共存」という言葉をもって、「生きながらにして死ぬ」「死を意識して生きる」ことを選び取る。「祟り」という存在は、人間における、あるいは自然における「生への固執」としての表出である。「祟り」が、人間だけでなく、自然をもまた蝕むことは、上述の「人間」と「自然」の「生への固執」における平等を示しているのではないか。しかしアシタカは、「祟り」に蝕まれる自らの運命(あるいは死)を受け入れ、「くもりなき眼」で見定めようとする。その姿のみが、エボシ様に代表される人間も、ヤックルに代表される自然も、双方が惹かれていく「生きる」姿なのではないか。
しかし、最後に興味深いのは、その「生」と「死」を司るシシ神ですら、自己の死に直面し、「生に固執」してしまう。その結果として、彼が支配した理の全てを放棄して、自然も人間をも食い殺す。作品の表象的な理解としては、あの結末は人間という欲深い生き物の招いた悲劇には違いないが、一方で「生きるモノ」の宿命としての「死」を予感させる筋書きではないのだろうか。すなわち、シシ神もまた死ぬのであって、その眼前では、やはり怖いのだ。生きていたいのだ。
だからこそ、宮崎駿は「生きろ」という。この世に「生への固執」を抱かないモノなどいないのだと。それによって他者を排除し、自己を崩壊に導かぬモノなどいないのだと。それこそが、この作品のメッセージではないだろうか。だからこそ、宮崎駿は「赦し」の意味で、「生きろ」という。それは「生きていてもいいんだよ」という言葉に違いない。子供たちに、その抱えている闇を、それはアシタカですら抱えるものであり(「祟り」として)、また自然も、そしてシシ神さえも囚われてしまうものだと言っているように思ったのだ。
そして、このことは、実は「エヴァンゲリオン」と対になっているのだと思う。「人類補完計画」とは、個人としての「生への固執」を捨てることを要求していた。それはすなわち、「他者の排除」の存在し得ない世界であって、人間も自然もない、言ってしまえば、全てが「死んでいる」世界なのではないか。その格闘をエヴァではシンジ君が担う。私たち、生きとしいけるモノ全ての葛藤が、ある時にはアシタカとして、またある時はシンジ君として表出しているように思えてならなかった。
「生きる」ということは、「他者とかかわる」ことである。私たちは、人間も、そして実は自然までも、そこに恐怖を感じ、排除したいと思い、自らの存在=生に固執してしまう。その上で、「生きろ。」と宮崎は言った。この映画は、そういう物語なのではないか。
2026年の正月映画でもいいよ
ただの偶然なのですがいい加減久しぶりに映画館でも行くかぁ~と、上映作品を調べていたら知った今回のリバイバル上映。何やらIMAX上映で1週間限定だとか。これも何かの縁とインターネットで前売りのチケットを買っての鑑賞です。というのも今年の春頃?に「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」(05年)のリバイバル上映があったのですが、その際は当日券を買おうと劇場へ行ったら席は既に完売!いや何年前の映画だと思ってんねん…とその苦い記憶を元に今回はあらかじめチケットを抑えておいたのです。もうね、それで正解。リバイバル上映初日となる10/24(金)の22:00~スタートの上映なのに客席は満席。本当に久しぶりに両隣に一つの空きも無く見知らぬ他人が座る劇場で映画を鑑賞したのです。それも年齢層の広いこと広いこと。さすがに時間的に小学校低学年以下の子供は居ませんでしたが、保護者に連れられて小学校高学年以上くらいの子供の姿はチラホラ確認できました。
そういえば劇場公開当時に観に行った時は今みたいに全席指定でも上映回ごとの総入れ替えでもない中で、満席で席には座れなくて場内の階段に腰かけて観たんだよなぁ~なんて事も思い出しながらの鑑賞です。
本作を気を入れて観るのは多分3回目。テレビで放映されたものや観光バスの中でビデオが流れたりしたのをながら見した事はかなりの回数あると思いますが、まぁとにかく名作ですね!最初観た時だってよく意味を理解していませんでしたし、今だってどれだけ理解できているのかはわかりません…。ですが作品の意味がわからなくてもとにかく凄いものを観ているんだ!って気持ちにさせる全盛期の宮崎駿が持っていた魔法はやはり30年近い時を経た今も健在でした!
アニメーションって絵が動くことだよという至極当たり前の事をヒシヒシと感じさせる圧倒的な表現力!
人の所作や動物の運動を優れた観察眼で写実的に表現していくことはもちろんですが、その写実的表現の合間にふと挟まる極端にデフォルメされた動き。緊張で体が強張る時。フワりと体が持ち上がる様な感覚になる時。怒りに震える時などなど、実際人間はそんな動き方をしてはいないのに、写実的に表現されるよりも一層生々しく自分の肉体でかつて経験したあの感覚を呼び起こさせる動きを描いて見せてくれます。4DX上映(体験したことはないけど)でなくても、スクリーンの中のキャラクターたちが感じていることを観る者に体感させてくれるこの演出手腕は、描いた絵を動かすアニメーションという表現方法ならではの優位性と可能性をまざまざと見せつけてくるのです。なのでこの映像表現をただ眺めるだけでも本当に十二分に楽しめるのですが、さらにこの問答無用のエンターテイメント性の中にきっと宮崎駿自身でさえも未だに答えの出せていない、永遠に解けないのでは?と思わせる問を投げかけてよこし、知らぬ間に観客に持ち帰らせる罪深さ!!
我々はこの物語をアシタカの“曇りなき眼”を通して、順を追い、実に効率よく、そこで生きる人々、神々の暮らしぶりや考え方、対立の様子などを見聞きすることになります。そうして神々と人々という単純な二大勢力の対立という訳でなく、神々は神々で、人々は人々で何やら内輪でも対立し、いがみ合っている様子を伺い、割ともう事態は最終局面に差し掛かっている事を察します。そうしていよいよ状況がのっぴきならなくなった所でアシタカの口から発せられる『森とタタラ場、双方生きる道はないか?』の率直な問い。物語の状況的には焼け石に水程度のセリフなのですが、作品を観ている者にはとても重く響き、鑑賞後も尾を引きます。しかも恐ろしいことに改めて見るとどうやらこの作品、人と自然の関係だけでなく、日本人の宗教観や文明によって人が得たもの失ったもの、格差や差別、男と女、争いが何故起こり続いていくのか等々、様々な要素が映画という鍋の中でグツグツ煮えたぎり、しまいには噴き出して溢れているのです。なのでまたしばらく寝かせた後で鑑賞すれば新たな発見や感想を抱くのだろうなと容易に察せられます。
まぁこんな感じですんごく浅いところでこの映画を楽しんでいる自分ですが、そんな視点で改めて見て今回印象に残ったいくつかの一つが、神様の死です。
乙事主様は自分の一族を『小さく、バカになりつつある』と嘆かれていましたが、本作では人に畏敬の念を抱かせることが出来なくなった神が獣へと成り下がる様子が端的に描かれます。そして今回の鑑賞で一番私の胸に迫ったのがショウジョウです。タタラ場の人間が木を伐採した後の禿山に夜な夜な木を植えに来るという行動からして既に切な過ぎるのですが、それでも初登場時は暗闇に目を赤く光らせてくぐもった声でボソボソ喋り、アシタカを食べるとか物騒な事を言ってそれなりに不気味な存在です。しかし映画の終盤で再登場した際には陽に照らされてその姿をハッキリ現します…………が、これがもうただの喋るお猿さんなのです。喋るお猿さんはただのお猿さんではないのかも知れませんが、猪も山犬も喋るこの世界ではやはりただのお猿さんです。このようにいままで闇に閉ざされ未知の恐怖に覆われていたものが光に曝され、人が恐怖する対象ではなくなるという、人類が文明を発展させて活動領域を広げるほどに一体いくつの神が人から畏敬の念を抱かれなくなり消えていったのかと、その歴史を思わせる、なんとも辛辣な描写なのです。そうして本作では一番何を考えているのかわからない人知を越えた存在であるシシ神(デイダラボッチ)の死も描かれるわけですが、そうして神々の手を離れた大地で人々はどんな世界を築いたのでしょうか?もしかしたらその答えの一端を「風立ちぬ」(13年)に見つけることができるのかも知れないな~と、テキトーにそんな事を考えてしまうのです。
そしてもう一つはアシタカという主人公の出来の良さです。右腕に呪いを受けて余命いくばくもなく、そのかわり呪われた右腕のおかげで驚異的な力を発揮し、武でも大人を圧倒し、眉目秀麗で聡明で、行く先々で人々の好感を得て老若男女問わずにモテモテで…と、これでもか!と出来過ぎのこんなキャラクター、普通なら鼻白んでもおかしくないのですが、これが全然うっとうしくないという奇跡!確かにアシタカは聡明ですが世間知らずの田舎者です。そしてアシタカ自身がその事を自覚しており、意見を言うより基本的には世の中を見て学ぶというスタンスのため、少年漫画よろしく正論を笠に着て説教かましたり、無知を開き直るような所がありません。そしてその姿勢のおかげでアシタカ同様、この物語の世界の事を何も知らない我々観客も、アシタカと一緒にこの世界の様子を見聞きすることができるのです。こういう所にも宮崎駿の構成力の凄さをヒシヒシと感じます。
そんなアシタカもたまに感情的になり大人たちに突っかかっていきますが、それも少年らしい可愛げと感じてしまうのは自分が歳を取ったせいもあるのでしょう。アシタカに思いをぶつけられた大人たちはエボシ御前にしろモロの君にしろ思わず笑ってしまう訳ですが、それがたとえ「世間知らずのガキの戯言」と一笑に付すものだったとしてもアシタカは対峙した大人たちの好感を得るのです。
自分がいい歳となった今改めて観ると、本作に登場する大人たちはエボシ御前だってジコ坊だってかなり“できる大人”の部類なのだと分かるのですが、そんな彼等でも自分たちのやりたいことをやりたいようにできている訳では当然ありません。ジコ坊は自分のやろうとしている事(仕事)が世間にどんな影響や結果をもたらすかは考えない事にして、自分の属する組織から与えられた仕事を達成することのみに徹する姿勢を示しますし、エボシ御前はタタラ場の存続のために強大な勢力が後ろについているジコ坊のシシ神退治へ渋々ながらも加勢します。大人は長く社会の力学の中で生きていくうちに自然とどこかで見切りを付け、諦めて、それについて考える事をやめている何かしらを抱えているものです。だからこそ自分の限界や身の程をまだ知らない子供が、具体性のない理想を吐くと、カッとくる事もあるのですが、一方で自分たちが甘んずるしがらみや仕方のない事として触れないようにしている事象を、無知の怖いもの知らずだからこそあるいは越えていくのかも知れないと、そのホンの微かな可能性に『馬鹿には勝てん』と目を細めるのです。
本作の公開から30年近く経った今、私はアシタカにはもちろん、当然エボシ御前やジコ坊の様な大人にも成れませんでした。映画に対して遠くから小枝や小石を投げつけるという行動だけならショウジョウくらいには成れたかな?ってちょっと思いましたが、賢者と他人から呼ばれることも、木を植えるような建設的な行動もまぁしてないですよね……。それはともかく、期間限定のIMAX上映の後、規模を拡大しての4Kデジタルリマスター上映もいつの間にか終わってしまいましたが、現在の日本映画界においてこれほどアニメ作品が興行収入という面でも大きな存在感を示すようになる切っ掛けを作ったと言っても過言ではない本作。もう正月明けくらいまでダラダラ上映しとけよと思いつつ、次に鑑賞する時もきっと新たな気づきや驚きに満ちているだろう事請け合いの名作です。
得体の知れない何か
約30年振りに劇場にて4Kで再鑑賞。やはり、スクリーンで鑑賞すると迫力と臨場感が桁違いです。本当に来て良かった。
私は信仰を持っておらず、神様を信じてはいないのですが、漠然と八百万の神は居ると思っています。それは、子供の時から山や海、森などには何かが潜んでいそうで、得体の知れない何かへの畏れを感じていたから。得体の知れない何かというのは、私だけが感じたものではなく長い間人類が感じてきた普遍的なもの。それを概念化したのが神なのではないかと。
この八百万の神を制圧しようとするタタラ場(文明社会)に生きる人間と、山に生きるサンは一見正反対に見えます。しかし、人間が生きる文明社会も山がないと成り立たない。今も解決していない、いや今後も解決しそうにない人類の抱えるジレンマをサンとエボシ御前で表している様でした。
山と共に生きるサンも
サンを救いタタラバの人を救うアシタカも
開発を進めるエボシ御前も
全てが人類の象徴。
しし神様は、あらゆる生命体を司る崇高な何か。
私の生も死も、しし神様次第です。
台風、噴火、地震、津波などもしし神様の領域。
だから、たくさんの死をもってたくさんの生を生み出します。
個人的には人間よりも、犬神モロ、乙事主様、しょうじょう達の存在がブッ刺さりました。思いっきり人間族でいることに罪悪感を感じましたし、全ての生き物が人間族を恨み憎しみ、苦しみを訴えかけてきた錯覚に陥りました。人間族でいることが恐ろしい。
「俺たち人間喰う」
「人間にもなれず山犬にもなりきれぬ哀れで醜い可愛い我が娘だ」
「わしの一族を見ろ。みんな小さくバカになりつつある」
再上映観て来ました
歳を取って改めて観ると、以前と違って全く別の観え方がしましたね。
観れば観る程に面白く感じました。
呪われたアシタカは、アニメーターとしての才能をギフトされてると同時に苦悩を背負った監督自身の姿であり、祟り神はかつて日本の為に戦って来た老人達が老害化した姿ではないでしょうか。そして、やがて自身も老害化する未来に恐怖する姿。
村からたたらばに舞台が移る様子は、自然と共生する人類が資本主義化して行く様。
ジコ坊は、プロヂューサーじゃないですかね。
サンが「こんな奴○してしまおう」とか、アシタカが「あなたを○したくない」って台詞は、プロヂューサーへ対する監督の本心じゃないでしょうか。邪推ですが。
シシ神に助けられた時も、いっそアニメ作りを辞めてしまいたい自分と、でもまだ続けなければならない自分への絶望の現れでは?
乙事主とモロを祟り神化する前に退場させてやったのは、世界を変えようとして成しえなかった同世代や先輩への敬意と、彼らを老害化させない為の情けなのでは。
そしてアシタカも、頑張ったけれれど何も変えられなかった自分自身を投影しているのでは?
そんな風に見えました。
生き物としての人間
人が生きるということ、獣が生きるということ、森が生きるということがどういう営みなのかを語る寓話。
あまりにもその語りが言外やフレームの外まで拡張されているのは、宮崎駿という作家が苛烈に過密にフレームの中を物語の残骸で埋め尽くしてしまう能力を持っているからだ。
東の一族の生活、戦国乱世、タタラ村、蠢く朝廷と宗教組織という欠片。
そういう面白い設定を詰めるだけ詰めてフレームの外に全て切り飛ばして、ただ一つの指向性を与えた。
人間が自然の中で生きるということ。その営みが如何に暴力的で容赦がなく、破壊を産んでじいうるのか。
何故、森の神を知悉しているエボシが神に挑んだのか。知って尚、女や病人を守るため、自分のムラを守るためである。
何故、守らないとならんのか。それは地滑りや洪水による天災が人の心を澱ませ、戦乱を起こさせた。
その戦乱が森を切り開かせ、シシ神を祟り神にし、サンという捧げ物を出してしまった。
しかし、そうした大きな物語に関係なく今作はアシタカという曇りなき眼を持つ者(つまりカメラレンズ)の視点で進んでゆく。彼が見た美しい女(サン、タタラ村の女、カヤ)や畏れるべき自然を彼がどう解釈して生きて行くか。もっと単純にいうと、彼が「目の前の命を奪うか、救うか」に還元され、その選択が物語を動かす。
今作のような血みどろの戦記が当時広く受け入れられたのは美男子が女を守るといういかにも野生的で根源的な物語構造になっているからであり、飽きずに見れるのは目の前の命をどうするかという生き物として当然すべき選択をする以外何もさせない物語にある。
そなたは美しい。4Kだとさらに
4K版を劇場鑑賞。
ジブリ作品ではこれが一番好き。何回見ても面白いこの作品が初の4K化となれば、もう見らずにはいられない。
肝心の映像面は、アシタカが祟り神を射って旅に出るオープニングパートからもう映像の美麗さが際立っている。
木々の折り重なり、影の明暗、おぞましい祟り神。旅立ったアシタカが通り抜ける雄大な自然は奥行きがどこまでも続いているように見えるし、前途を表すような曇天は重みと広がりが際立っている。
自然の美しさが特筆される作品ではあるが、スカッと通り抜けるような青空は意外と少ない。旅立ちは曇り空だし、終盤に入ると戦火の煙が空を覆ってくる。全てを乗り越えたエンディングパートで、ようやく清々しい青空が見られる。
せっかくの4Kだからと画質のアップグレードに目を凝らしていると、光と影の使い方でこんなにも鮮やかにアシタカの揺れ動く心情を訴えていたのかと改めて気付かされた。
特に、エボシとの問答の後でションボリ歩くアシタカを、たたら場の灯が照らす場面は言葉に詰まる。
たたら場は映像面もさることながら、IMAX劇場の音響だと音の精彩も格段に良くなっている気がする。静かなエボシの庭では、こちらも息をひそめるほどの静寂を感じるし、賑やかな飯場ではどの方向から笑い声や話し声が響くのかが事細かに聞き取れる。
音響面では山犬の巣で問答を繰り広げるアシタカとモロのシーンが際立って素晴らしい。
元からパワーのある名場面だが、モロの声をあてる美輪明宏御大の声の強弱、感情の発散が全身に響いてくる。
洞窟の中だとアシタカの声が反響している事もハッキリ聞き取れる。あとサンがアシタカの頭巾や上着を繕ってくれた跡も4Kの画質でこれ以上なくハッキリ見える。サン可愛い。
個人的な気付きは、たたら場に戻ったアシタカを見て、おトキさんの隣に居た女性が一瞬、表情を明るくした所。
このシーンで、この女性が石火矢でアシタカをショットしたあの人だと気付いた。4Kというより大画面だったから気付いた事だが、アシタカが生きていて心から喜んでいるのが表情から見て取れてこちらも嬉しい。駿はこういう所をあまり説明してくれないから、何回見ても新しい発見がある。
総合的にとても素晴らしい映画体験だった。
この現代で、もののけ姫の初鑑賞が劇場で4Kバージョンという贅沢すぎる観客がいるのだと思うと嫉妬すら覚える。
何にせよ、まだまだ4K化が待望されているジブリ作品は多いので、これに続いて他の作品もぜひ4K化してほしい。あと4KUHDブルーレイも売ってほしい。
imaxじゃなくとも傑作
何十年ぶりか以来に映画館でもののけ姫を観ることができました。鑑賞し甲斐のある傑作を迫力満点で観ることができて非常に満足です。
今回初めてimaxで映画を観ましたが、確かに映像もよりクリアになり音響も細かな音も聴こえてきて臨場感がアップしていると感じられました。個人的には映像より音響の方がimax技術の恩恵を大きく受けている感じがしました。
元々imax用に作られた作品ではないけども十分に完成されたジブリ映画ですから、他の作品もどこかのシアターで見直したいなと改めて思いました。ラピュタとかやってくれないかな〜〜。より活劇物として映像映えするのはラピュタだと思うから。
今の若い世代の人たちにもたくさん見てほしいなと思います。新しい世代のアニメ映画も出てきてはいますが、内容の面白さ・背後にある分厚い思想や知恵・美術・音楽などクオリティに差がありすぎて、後世に伝えるジブリ作品の果たす役割はまだまだ終わっていないと思います。
IMAXリマスター上映 大スクリーンもさることながら圧倒的な久石譲サウンドの壮大さ!
1997公開の本作品。
当時も映画館で鑑賞したが、当時(商用営業して)無かったIMAXの大スクリーンリマスター、迫力のサウンドに鳥肌が立った。
テレビじゃ味わえない感動を、肌で感じる事を勧めたい。
(ちなみに2KコンバートのIMAX専用設計成田IMAX劇場で鑑賞したが、2019年池袋IMAX_GTができるまでは関東最大、スクリーンもサウンドも一級品!なんちゃってIMAXレーザー行くなら、こちらを勧めたい。スクリーン サイズ縦14m×横24.5mはその辺のIMAXデジタルより二回りデカく、サウンドは4wayスピーカー、出力等はわからないがとにかくIMAX劇場が別館なので近隣施設を気にする事なくメインスピーカの鳴らしまくる、迫力の重低音&チューニングは関東屈指!家からは遠いがそれはそれで良い、映画を観終わり劇中かかっていた音楽を聴きながら田舎道を走る贅沢さがたまらない)
IMAXで鑑賞.心残りの消化
幼い頃に姉と父親だけもののけ姫を見に行った記憶があり、自分は行けずそれがずっと心残りだった。
今回再上映したのでIMAXを見に行こうとしたが連日ほぼ満席で2週間待った。
近場の劇場はIMAXの音量がおかしく爆音が怖く満席だと席を移動出来ないのが心配だった。
2年振りにIMAXを見に行ったら音量は丁度良く調整されており、多分クレームとかあったんだと思う。
内容自体は久しぶりに見ると意外に展開が早く、何も言う事は無い。
みんな好きでしょう。
これを見ると90年代後半がフラッシュバックして
何とも言えない気持ちになる。ウリナリとかを見ていた時か。幼児の時に金曜ロードショーの魔女の宅急便を見ていたら終わりに2年後もののけ姫公開予定とか画像が出てきて、数歳しか生きてない自分はどれだけ先なんだよ...とそれだけ強烈に記憶に残っている。
その2年後はとっくに過ぎ去り、
もはや30年近く経つ。
IMAXで見たが正直別にテレビ放送でも全然良かった。4kだが画質の荒れは所々若干有り、
セリフの音量はフラットじゃないので所々気になり、IMAXはそこまで効果を発揮しているとは思えなかった。ただ久石譲のオープニング、米良さんのエンディングは最高だった。
音楽の音響としては最高なのかもしれない。
劇場で見たいと言う30年来の願望は叶ったのでそれは良かった。
森は生きている。殺すのは誰?
娘が泊まりに来たので映画の話しをした。
「おとう最近何観たの?」
「秒速5センチメートル。実写2回、新海誠の小説読んで、お前が押したアニメ3回観て鈴木史子のノベル読んで、鼎談動画見て約5千字のレビュー書いた」「ほぉ」
「お前は何観た?」「チェンソーマンと、もののけ姫」
「もののけは、吉祥寺プラザの閉館上映に行ったでしょ」「あれは思い出、今回は体験」
「スラムダンク」好きの娘はIMAXを初め、全ての上映形態で観たらしい。結局、Dolbyシネマが一番だと。
「だからもののけをDolbyシネマで観た。音が頭上から降って来る。浴びるんだよ。Dolbyシネマで観れば、昔と違う事感じるよ。」
老いては子に従え。Dolbyシネマではないが、なるべく音の良い画面の大きな劇場でとTCXシアターへ。
11月19日(水)
TOHOシネマズ日本橋で「もののけ姫」(4Kデジタルリマスター)を。
初公開時劇場鑑賞済、その後金曜ロードショーで複数回視聴。
アマゾンの熱帯雨林の伐採が凄いスピードで進んで、跡地は大豆畑にして大豆を生産している。地主は土地が高く売れ、大豆生産者は食料として売り利益を得られるが、樹木伐採によって干ばつが加速度的に進むらしい。
森が死んでいる。
本作が作られて28年経った今でも、いや舞台となった室町時代やそのはるか前から利権と自分たちの利益のために世界の何処でも人は対立し、戦い、憎み合っている。
シシ神様ではなくクマ神様が人里に出て来る今日この頃、木々は伐採され大量のソーラーパネルが敷き詰められている。新しく建てられるマンションはオール電化。
地元に1年前に建った高層マンションは上層階は億ションだが、投資目的の中国人が買い居住していないので、夜は電気が点いていない。周辺には木造の空き家が多い。隣駅の駅前に4棟の高層ビルの計画がある。
曇りのない眼で良く周りを見て欲しいものである。
宮崎駿の世界では、いつも森は生きている。
豊穣の森で生きているトトロは憎しみも争いもない。
心を盗まれても元気で生きていける。
サンは森で、私はたたら場で暮らそう。共に生きよう。
宮崎駿は、「生きろ!」そして、「君たちはどう生きるか」を問い続けるのである。
ラスト、ジコ坊に一言言いたい。「馬鹿はおヌシだ」と。
アシタカ、一度自分の村に帰らなきゃ駄目だよ。呪いは解けたと。
子供が見てこそ真価を発揮する作品
子供のときに劇場で見たときは面白く感じたけど、今見るとあれ?こんなんだったっけ?と物足りなさを感じた。
首をシシ神に返したら周りの人間も改心して即ハッピーエンド、みたいな結末にモヤモヤ。
最後の15分間は突貫作業で結末を変更しただけあって、やっつけ的な印象は拭えない。
「共に生きよう」っていうセリフも実際に住宅街で人が熊に殺されてる現代においては、映画的な聞き心地の良い言葉でしかなく陳腐で薄っぺらく感じてしまう。
言われなくたって人間も動物も植物もみんな死から逃れようと必死で生きてるじゃん。
共に生きるか否かではなく、その先のどう生きていくかを描いてほしいのよ。
高畑勲の『平成狸合戦ぽんぽこ』はそこをちゃんと描いてたよ。
そもそも時代設定が昔すぎて山だらけの中では文明社会と自然の対比が小さく感じてしまう。
ぽんぽこの狸たちのほうがより切迫してて説得力があった。
あと、セル画時代のアニメを4K・IMAXで映すと明るくはっきりしすぎてしまい絵がよりフラットに見えてしまうのも残念だった。
宮崎駿がこの作品は10歳ぐらいの子供がいちばん内容を理解できて楽しめると言ったらしいけどそれは間違いないと思う。
ジブリ作品は子供のときに見るのがベスト。
大人になると曇りなき眼で見れなくなる。
映画館で観れる喜びを感じる作品
他を慮ることの大切さを伝心出来る復刻必須な作品
今更ながら感動した
室町時代。北のエミシ一族の村に暮らす青年アシタカは、村を襲ったタタリ神を退治した際に呪いを受けてしまった。呪いを解く方法を求め、西に向かって旅に出たアシタカは、タタラ場と呼ばれる精錬所を目指すことになった。そしてその道中、森の中で犬神に育てられた少女サンと出会い、人間を嫌うサンに森から去るよう警告された。やがてタタラ場へたどり着いたアシタカは、人間たちが生きていくために森を切り開いたことでサンと犬神の怒りを買ったことを知り・・・さてどうなる、という話。
ジブリ作品であり、ものすごく有名な作品だが、最初から最後まで真面目に鑑賞したのはおそらく初めてだと思う。
白犬、猪の化け物、鹿の神などが出るんだ、とわかったし、たたら製鉄っぽい村が出てきたりと、ストーリーも興味深かった。
今更だけど、良くて感動した。
声優でアシタカ役の松田洋治は似合ってたし、サン役にが石田ゆり子だったのか、と初めて知った。そして良かった。
そのほか、田中裕子、美輪明宏、森繁久彌、森光子、小林薫、西村雅彦など、実力派俳優が多数参加してたとは、驚きだった。
米良美一の歌う主題歌はもちろん知ってたし、彼の高音は素晴らしかった。
最後の、おわり、は受けた。
感動ひとしお
もう何度観たことでしょう。
だから迷ったけど、やっぱり大画面で観たくて、4Kデジタルリマスター版で観てきました。
28年も経つのに全く色褪せない名作だとしみじみ思いました。
文明と自然の共生
自然に宿る神々
それらを大切にしてきた太古の日本人の心
信念を持って生きること
助け合うこと
特に賢者アシタカが大好きなんですよね。
たしか年齢設定は16とか?
こんな器の大きい16いますか💦
アクションシーンもゾクゾクするし
呪いをかけられ掟により1人村を出るシーンで既に涙流れる。
サンと出逢い、たたらばの皆んなと出逢い、色んな人(生き物)の思いを知り、静かに見つめるその瞳は深みを増しながらも、とにかく前へ突き進む、勇ましさ、強さ。
そしてヤックルラブ♡
何度見ても 星5の作品
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