劇場公開日 1995年3月4日

「ディズニーによる「資本主義的憂鬱」の表現」メリー・ポピンズ あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5 ディズニーによる「資本主義的憂鬱」の表現

2025年7月27日
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鑑賞方法:映画館

ディック・ヴァン・ダイクが存命なこと(2025年7月現在)に驚く。1925年の12月生まれなのでもうすぐ100歳となる。
さて古典的児童文学作品であるトラヴァースの「風に乗ってきたメアリー・ポピンズ」と本作の違いはよく論じられているところである(研究書が多くある)。まず何と言っても主役のメリー・ポピンズのキャラクター設計。原作の彼女は常に不機嫌で、規律を重んじ、時として意地悪である。魔法は使うがそれが自分の仕業であることは一切認めない。謙虚であるわけではなく責任回避的態度なのである。これはメリー本人の性格というよりは当時の職業としての「ナニー」(乳母とか家庭教師と訳されることがあるがニュアンスとしては「子守」が近い)の代表的性格を反映しているらしい。つまり重労働であり(映画ではカットされているが原作ではジェインとマイケルの下にまだ双子がいる)、低賃金であり、休みはない。機嫌よく仕事をしろと言う方が無理がある。原作では彼女に代表される下層労働者や、バートのようなまともな職もない大道芸人などの日常と、上流社会の住人(ブーム提督やラーク夫人など)の馬鹿馬鹿しい言動を対比して、資本主義がもたらした格差、矛盾、悲哀を描き出している。
映画ではジュリー・アンドリュースが演じるメリーは明るく元気で優しいとされているわけだが(子どもたちが広告文案を書く設定は原作にはない)、でもどこか憂鬱な感じを引きずっている感じが面白い。
そして、ウォルト・ディズニーは、マイケルが鳩の餌に使うはずだった2ペンスをシティの銀行頭取が強奪しようとし、そしてそれによって引き起こされた取り付け騒ぎでバンクス氏が解雇されるところを映画での設定に組み込んで、資本主義の非人間性を描いてみせた。
現在の状況に則れば世界有数のコングロマリットたるディズニースタジオが何を言ってるんだということになるが、1964年当時はまだまだ数あるプロダクションの一つでしかなかった映画会社の表現として革新的だったのかもしれない。
当時は画期的だっただろうアニメと実写の合成は今となっては古めかしい。でも筋書きの面白さともちろん楽曲群の素晴らしさは今後も残っていくものだと思う。
そう、最後のメリー・ポピンズが西風に乗って飛び去る直前に、傘の柄のオウムと会話するシーンがあるが、あの声はウォルト・ディズニーその人であるとの説が昔からあった。でも今回、スクリーン越しに確認したところ、あれはバンクス氏を演じたデヴィッド・トムリンソンの声のようですね。何故二役になったかは分からないけど。

あんちゃん