ミレニアム・マンボのレビュー・感想・評価
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2001年の台北、ある女性の回想の物語。 若気の至りとか、ダメな男...
2001年の台北、ある女性の回想の物語。
若気の至りとか、ダメな男性に絡まれるとか、想い人を追って夕張や新宿に出向いたりとか。
当時よく聴いたダンスフロアのビート、懐かしくも心地よく。
当時は日本もバブル崩壊後でしたが、台湾も相応に陰鬱とした側面もあったのかな…と想像。
画面に映る演者さん、影の使い方が印象的な、明るさばかりでなく憂いも秘めた、想像を膨らませたくなる映像でした、
埼玉県川口市 "第8電影" さんにて鑑賞。
(投稿時の映画館一覧にないのですね。)
バーも兼ねた、独特な雰囲気の場所でした。
映画目線ではとても居心地よさそう、ただし、タバコの残り香がして、アレルギー持ちにはちょっと…でした。
すべてが影に沈む街で
群衆には顔がない。それゆえ大都会の中にありながら人は孤独を感じる。『平面論』で松浦寿輝がそんなことを言っていた。
ヴィッキーの暮らす台北の街は常にうっすらと翳っている。そこに集う人々の表情はほとんど見えない。ダンスミュージック、喝采、夜伽、すべてはどうでもいい雑音として空間を滑り落ちていく。孤独の重力に唯一抗うように上昇する紫煙は空中に溶けて消える。
夕張は天国だ。ヴィッキーは童心に帰ったように雪と戯れる。しかし天国は虚構に過ぎない。夕張は映画の街。したがって虚構の街。そこは彼女のいるべき場所ではない。台北への帰還。
異国の斥力に、あるいは自国の引力に抗うようにヴィッキーは東京へ向かう。言葉は通じず、想い人は群衆に紛れてしまう。留守電の音だけが虚しく響く部屋の中で、彼女は長い夢からゆっくりと醒めていく。
この映画はヴィッキーの回想である。そこではヴィッキーは自分のことを「彼女」と呼ぶ。
遠い昔の話。
目まぐるしい台湾うらぶれて少し温かい日本
ミレニアム。
意識したことなかったけど、この映画をうつるミレニアムは、躍動する台湾鬱屈していてもパワー、欲望感じる台湾
。台湾にルーツある日本の兄弟DJ 台湾のクラブではキラキラな感じでおばあちゃんのいる夕張ではなんとも純心な少年のようでおばあちゃんはミレニアムも関係なく台湾から戦時中に日本に来たのだろうか、日本で長い我が人生を夕張の雪景色の中ですごす。なんか古い映画の看板、夕張の映画の街のアーチ、ここでは電子音のダンスミュージックもならない、なんだか時が止まったような静けさと温もり。ガオさんがヤクザ同士の問題ほとぼりをさますため東京にきて新宿の安宿にビッキーを呼び寄せる、。宿のフロントの女性の辿々しいが優しく温かい話し方ガタガタと電車が走る宿の窓からの風景は台北の喧騒、欲求不満気味中持て余すエネルギーとはまるで反対のなんだがうら寂しい感じ、これもミレニアム、、だったんだな。日本のミレニアムはたしかにそんなキラキラした希望もなかったのかも。台湾シーンはミレニアムにかける期待と虚しさ、空元気。ハオはダメなやつだけど、徴兵回避のためのドラッグ、減量。台湾の抱えてるものはミレニアム間近でも私らの知り得ないおもくるしい時の流れを感じる。
ビッキーがひたすら美しく流れるたばこのけむりのようにさまよう表情。
夕張は監督撮りたかったのかな。おばあちゃんや雪のシーンや古い日本映画の看板や。
素晴らしい映像、音、俳優たち、小道具美術。個人的な私的な物語にならないところがさすが侯監督、ということか。
不思議な映画だ。
当時25歳ぐらいのスー・チーが幼く見える「ダメ男ズルズル映画」。
観たかった作品だがサブスクに無くてレンタルも厳しい『ミレニアム・マンボ』(千禧曼波)。4Kリマスター版の2K上映にて。
とても良かった
2000年はおよそ四半世紀前だが、つい最近のように感じてしまう。こんなにタバコを吸っているシーンばかりの映画など、今では到底ありえないが。
日常をじっくり時間をかけて見つめる、いつもの演出スタイルで、全編出ずっぱりのスー・チーがスクリーン越しのすぐそこで息をしているような臨場感がある。陰影のある場面が多く、アップで捉えられたスー・チーの美しさに釘付けになってしまう。
劇中、やや唐突に夕張の町が登場する。ストーリーの起伏の中で、ポジティブな心象が描かれるシーンとなっているのが、こそばゆくも嬉しい気持ち。かつて夕張ファンタの審査員として来道した侯孝賢、いい人だ。
傑作
映画におけるフレームが「世界」の絶対的な境界であったことなど一度もなかったという事実をあらためて突きつける本作が、同時期に、これも同様に4Kレストア版で上映されているタルコフスキーの『ノスタルジア』より軽んじられるなどということは間違ってもあってはならない。
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後半、子分が起こしたトラブルを解決できないままガオが家に帰り着く。半開きのドア。ドアの前にはスー・チーの荷物が散らばっている。誰かの襲撃があったのではないかと疑いながらガオが部屋に入る。酔い潰れてソファに横たわるスー・チー。拳銃を握るガオの手。静かに拳銃をテーブルに置く。この一連のショット、特に拳銃を握る手のショットが素晴らしい。
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始まりは浮遊感のあるスローモーション。
あまりの美しさに心が躍る。
キャメラを振り返りながらステップを踏むスー・チーは、陸橋の階段を跳ねながら降りていき、やがてその姿はフレームから消えていく。
タイトな設えの家の中。
ショットを割らず、キャメラを振って登場人物をフレームに収め、一定の持続したショットがゆるやかに登場人物を追っている。
しかし、このショットが厳密に登場人物を追っているかといえばそのようなことはなく、気がつけば登場人物がフレームから立ち去り、再び帰還しもするだろう。
フレームを意識しない俳優の存在と不在が画面を活気づける。
『工場の出口』が、フレーム内に収まった工場の出口から出てきた労働者や馬車がフレーム外の場所へそれぞれ去っていく様子を、あるいはフレームを横切り通り過ぎていく人々の運動を捉えたものにほかならなかったように、映画はその誕生から、フレーム内の存在と不在、フレームの中に収まる運動とその外にも広がる「世界」が画面を活性化させてきたといって間違いなく、フレームが形作る「構図」に被写体を耽美的かつ静的に配置することで「構図」内に切り詰められた「世界」をそれらしく「表現」してみせようとする作品がおよそつまらないのは、それらのフィルムにフレームの外に広がる「世界」への不信が焼き付いているからにほかならない。
それゆえ、フレームの中に窓やドアの枠を置くことでフレームにフレームを重ねる「台湾の小津安二郎」の『ミレニアム・マンボ』は、画面の窮屈さよりむしろ「世界」の豊かな広がりを獲得していると言っていい。フレーム内フレームの内側からその外へ、さらにその外へと被写体が運動することは映画におけるフレームなど所詮「世界」における偶然の産物に過ぎず、絶対的な境界などではまったくなかった事実をあらためて突きつけるのであった。
長万部じゃなくて夕張
プレミアムなマンボだと勘違いして喜んで観たら全然違った。
マンボNo.5はかからなかった。
全編テクノだった。
ホゥ·シャオシェン監督とトランスポーターのスー·チーの初タッグ作品。
2001年作品。
台湾のある街で女子高校生がクラブで羽目を外し、親元を離れ台北のアパートで男と同棲。そのまま高校中退。まったく働かない嫉妬深くてどうしょうもない遊び人のヒモ男のスケになって、逃れられなかった過去を自ら「彼女は····」とナレーションを入れて振返る構成。逃れられなかったというより逃れるチャンスは再三あったのに逃げなかった。先に説明が入り、スローな展開で映像が追いつくのはかなりかったるい。しかし、撮影は花様年華の撮影監督で、とてもムーディ。薄暗いアパートに蝋燭の灯はエロかった。煙草に酒、時々コカイン。キャバクラ???でのティーバッグシーン。ジョニ黒をキリン一番搾りで割って飲んでた。後半、夕張、新宿など日本が舞台に。冷蔵庫のキティーちゃん、МDコンポなど、最初から台灣よりも日本だった。そこの意図するところはちょっとわかりにくい。竹内兄弟の実家のおばあちゃんの割烹着。「スタンプ細胞はあります」のあのヒトを思い出してしまいました。
ガオさんは台灣の高倉健なんですかねぇ?
ハオ君のうなじフェチ、汗フェチ的な前技はなかなかだった。
夕張が出てきた。
ミレニアムに時代が移る頃、台北でハオと同棲しているビッキー(スー・チー)が彼のあまりの酷さに耐えきれずに逃げ出し、ヤクザのガオ(ガオ・ジェ)の元に身を寄せる。しかし、ガオが身を隠してしまったので、彼を追って日本に来る。スー・チーがともかくかっこいい!
ハオは、くすりとアルコールの過飲によると思われる嫉妬妄想を抱えていて、ビッキーにつきまとう。彼女は何度も逃げ出すが、懇願されて戻ることの繰り返し。むしろ、映画の中で、喫煙と飲酒が目立つのはビッキーの方で、飲んでいるお酒はビールとカクテル、ジョニーウォーカーとワイン、どれもバブルの頃のお酒。台北は繁栄に向かってまっしぐら。お金は出回っているけど、彼らのように世の中の動きに付いてはいけない人たちは、必ず出てくる。
ただ、ストーリーがあるというよりは、各エピソードをスー・チーが10年後の未来からみたナレーションと、テクノポップでつないでゆく感じ。ちょっとだけフランス映画の香りがした。
侯孝賢監督が、日本に寄せるノスタルジックな思いは半端ない。きっと、小津の映画が好きなのだろう。途中で、彼女は夕張にゆく。映画が恐ろしいのは、ミレニアムの頃、既に、低迷してゆく日本を見切っていたこと。台北と対照的で、日本が出てくるシーンには全く緊張感がない。日本になくて、彼らにあるのは兵役か。従来の香港映画と比べると、侯孝賢の台湾映画には、背景に力強さがありながら、全体として、すっきりした清冽さがある。潔いと言ってもよいかもしれない。それが、かなりのところまで日本および日本映画から来ていると思えるところは嬉しいが。
ただ、最初にあった全体のシノプシスとか情景が中盤で繰り返されたり、最後に出てくる場面で「今年の東京は雪が多い」というけれど、実際の背景は夕張であったりとか、やや繰返しが目立ち、混乱もあることが気がかり。
ミレニアムという節目
【78点】
こんなにラストの印象的な作品はなかなかないと思います。掴み所のない映像に、中盤まではもやもやさせられますが、その鬱屈があってこそのラストだとも言えます。
ミレニアム・マンボというタイトルは、ミレニアムという歴史的な節目と、マンボのリズムのように繰り返すというところから来ているのでしょうか。実際、似たような場面が続く映画です。回想という形態で時系列がシャッフルされているだけに、話が進展している感じはなく、断片が繰り返されているという印象が強調されています。
主人公のビッキーは冒頭で、「ミレニアムなのに」とか「繰り返す」とか「催眠術のように」ということを言っていたと思いますが、そのあたりがこの作品のテーマだと考えて良さそうです。つまり、ミレニアムは歴史上の節目ではあっても、それは女性の恋にとっては何の関係もない話なんだということでしょうか。
ところで、この映画は映像が凝っています。リー・ピンビンのカメラは、その催眠術のような繰り返す生活というものを嫌というほど体感させてくれます。全体像が掴めないほどに人物アップやピンぼけを多用するカメラ、暗闇や仕切りに隠された空間などに、混沌朦朧とした雰囲気が良く出ていました。小道具も良く効いていて、中でも最も印象深いのは、何と言ってもビッキーが常に燻らせている煙草の紫煙でしょう。どの場面でも煙草を持っているから、繰り返しの感じが強くなるし、煙という切れ間のないものが映像中にいつも漂っているのは、テーマが一貫していて素晴らしいです。
しかし、そういった退廃的な印象とは無縁の場面もありました。それは彼女が日本に来たときです。ここで彼女は初めて外の世界を歩き、雪景色のなかで人が変わったように無邪気に笑います。ずっとこんな笑顔が続くといいと思い始めたころに、やはりまた退廃的な場面に引き戻されるので、あれは何だったのかという感じでしたが、その雪景色の意味は終盤になってから分かりました。
結局、物語の鍵となるのは、この雪景色と、携帯電話だったと思います。終盤になると、やたらと携帯電話が登場します。ハオの前から消えたビッキーは、ハオの元に携帯を残していましたし、ビッキーの前から消えたガオは、ビッキーの元にやはり携帯を残しました。そして思い出してみると、ビッキーと竹内淳の出会いは「番号ちょうだい」で始まったのです。
つまり、この映画において携帯は、恋人の縁の象徴以外の何物でもありません。そして、相手の手元に携帯だけが残るというのことは、縁が完全に切れていない、恋の移ろいが曖昧なものであったという暗示ではないでしょうか。ミレニアムという歴史的節目に対して、ビッキーの恋の移ろいは曖昧だったという解釈です。
ただし、ビッキーが自分自身を「彼女」と呼んで回想していることを忘れてはいけないとも思います。自覚的か否かは別として、自分を第三者的に見ているということですから、以前と今の彼女との間には何らかの区切りがあったと考えるのが自然です。それは何だったのでしょうか?
思うに、あの雪景色が区切りだったのではないでしょうか。ビッキーがかつて退廃的な日々を繰り返す中で燻らせ続けてきた紫煙がたまりにたまって一つの季節を形成したというのが、あの大雪なんだと思います。あの光景は、ビッキーの心象風景の反映のようなものであり、そう考えると、実は彼女自身が恐らく自覚していないミレニアムの区切りはあったということです。
そして最後に、東京に大雪が降ったといいつつ夕張を映したところがミソで、あの夕張映画祭の古くさい看板が、ミレニアムになっても、昔から続いてきた映画文化は続いていくというメッセージに思えるのです。作中おいて語られたような恋愛の位置づけと映画とを、最後の最後で対応させるあたりが、非常にロマンティックなラストだと個人的には思いました。
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