劇場公開日 2024年10月5日

「「部屋から出たいのに出られない」――「停滞」に慣れてしまった僕たちへの警告の物語。」皆殺しの天使 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5「部屋から出たいのに出られない」――「停滞」に慣れてしまった僕たちへの警告の物語。

2024年10月7日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ルイス・ブニュエル作品のなかでも、とりわけ彼の個性がはっきり出ていて、かつ、きわめて「端的」な形で撮られている映画、それが『皆殺しの天使』だ。

ある意味、夾雑物のない、やりたいことだけをやっている映画なので、逆にブニュエルを理解するうえでは、「最もとっつきやすい」作品ではないか、と思ったりもする。
せっかくの機会なので、未見の方は映画館に足を運んでブニュエルの人を喰った魅力をぜひ体感してほしい。

ブニュエルといえば「難解」というイメージもあるかもしれないが、本作に関しては、実際のところあまり構える必要もなければ、恐れる必要もない。
むしろ本質的には、完成度の高いブラック・コメディであり、今どきの若者にも十分受け入れられる余地のある、普遍性の高い娯楽映画だと僕は思う。

『皆殺しの天使』には、わかりやすいキャッチーな要素がいくつかある。

まずはブニュエルらしい十八番のプロット。
誰が呼んだか、「●●したいのに●●できない」シリーズ(笑)。

おんぼろバスで峠を越したいのに、なんだかんだ事件が起きてなかなか越せない『昇天峠』。殺人狂が自分の手で女を殺したいのに、勝手に相手が死んでしまってなかなか殺せない『アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生』。本作同様晩餐会に集まったブルジョアが、食事にありつきたいのにありつけない『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』。誘惑してくる小悪魔女子とことを成したいのにどうしてもやらせてもらえない『欲望のあいまいな対象』。その男女逆転版ともいえる「夫に抱いてもらえない」人妻が主役の『昼顔』。
ブニュエル映画には、やりたくてやりたくて仕方ないのに(そして傍から見る分にはそう難しそうなミッションとも思えないのに)、なぜかどうしてもそれを実行することができないという理不尽なシチュエイションが頻出する。
今回のお題は、「晩餐会の後、帰りたくても帰れない」
「部屋を出たくても、どうしても出られない」。
このひとネタで、90分を引っ張る荒業が炸裂する。

― ― ― ―

今回『皆殺しの天使』を数十年ぶりに観返してみて、現代に鑑賞してもちっとも古びていないことにいたく感心した。
だって、これっていわゆる「シチュエイション・スリラー」じゃないですか、まさに(笑)。
言いようによっては、いま一番流行ってるジャンルだよね。

閉鎖空間内で、とあるワンアイディアの危機的状況が発生して、その解決法がどうしても見いだせない。刻々とタイムリミットと生命の限界が近づくなかで、彼らは状況を打破する方法を模索する。ここまではどちらも方向性は変わらない。
現代のシチュエイション・スリラーと本作が異なるのは、そのシチュエイションについて、作り手からなんらの説明も成されないところだ。
今どきの映画だと、「なぜそうなったか」「どうやって解決するか」の「謎解き」「伏線」「どんでん返し」のキレが生命線になってくるし、そこでどれだけギャフンといわされたかで作品の評価が決まる場合が多い。
しかし、『皆殺しの天使』の場合、「なぜ彼らがカギすらかかっていない部屋から出られないか」については最後までまったくわからないし、何の説明も試みられない。
ここでは、部屋から出られない事実は「解かれるべき謎」なのではなく、「最初から設定された不条理な前提」に過ぎないのだ。
要するに、カフカの「朝起きたら、虫になっていた」と同様の「物語の前提」というわけだ。

逆にいえば、観客は不可解な状況は不可解な状況としてほっぽいておいて、どうせ答えはでないのだから、あまり深く考えずに「部屋からなぜか出られない不条理ギャグ」をただゆったりと堪能すればよいことになる。その意味では、バイきんぐや東京03のコントを観ているのと、そう変わりない。

― ― ― ―

「不条理」。
「シチュエイション・スリラー」につづく、本作第二のキーワードだ。
考えてみると、この夏は上の階のシネマヴェーラで「安倍公房×実相寺昭雄」の特集上映をやっていて、同じユーロスペースでは「安倍公房×石井岳龍」の『箱男』が上映されているわけで、その空気と連動して今回の『皆殺しの天使』は上映されているともいえる(このあいだまで新宿Kシネマではブニュエルの『スサーナ』もやってたし)。
「不条理」というと、どうしても小難しい感じがするかもしれないが、あえて解決のつかない違和を仕込んで観客に「考えさせる」触媒だと考えれば、ある程度、呑み込みやすくなるのではないか。要するに、カフカやサルトルや安倍公房の不条理だって不条理だが、筒井康隆や伊藤潤二の不条理だって不条理なのだ。
実際、『皆殺しの天使』のやってることって、じつに筒井康隆っぽいよね(笑)。

晩餐会に集まった20人のブルジョアが、とにかく部屋から出られない。
というか、なにか曰く言い難い抑制がかかって、「部屋の敷居がまたげない」。
みんな帰りたいのに帰れない。なぜか気づくと雑魚寝をしてしまう。
本当は、ただ扉から出て帰ればいいだけなのに、身動きがとれない。

このシチュエイションで、ひたすら「勝手に閉じ込められた」20人を追い詰めてゆくのが本作の大筋である。どれくらい追い詰められるかというと、人が死ぬくらいまで追い詰められるので(笑)、かなりの緊迫感である。本作は、シチュエイション・スリラーであると同時に、密室サバイバル・パニックホラーでもあるわけだ。

固く閉ざされた鉄の門扉が開いて、使用人の一人が街へと逃げ出していく冒頭から、「屋敷から出る」というイベントに、この話の焦点が当てられているのは伝わって来る。
晩餐会の準備を進めるコックや使用人たちも、気もそぞろな様子で帰りたがっている。なんなら主人の制止を振り切ってまで、彼等は一目散に家路についてしまう。
船から逃げるネズミ。
労働者階級である彼等は、いち早く「滅び」の気配を察知し、ネズミのごとく、あるいは脱兎のごとく、お屋敷からスタコラ退散してしまう。しかしブルジョワジーはその気配を察知することができず、「出られない部屋」の無限ループに陥ってしまう。

すなわち、ここでの「部屋から出られない」という現象は、現実の事象というよりは、ある種の「寓意」ととるべきものだ。
「身動きがとれない」
「一歩が踏み出せない」
「社会通念から逃れられない」。
こういった、「誰しもが経験したことがある」保守性とルーティーンと停滞と「変わる勇気」にまつわる問題を、現実の事象の形で「象徴化」し「寓話化」したのが、『皆殺しの天使』の「部屋から出られない」シチュなのだ。

― ― ― ―

そう考えれば、みなさんも本作のことが、やにわに「身近な」「自分自身の」物語であるように思えてくるのではないか。
ちょうど、『チーズはどこへ消えた?』で迷路から飛び出せない小人のヘムのように、人は日常の繰り返しと成功体験と怠惰な停滞のなかで、つい「変わる勇気」を喪ってしまうことが多いものだ。それは単に「一歩踏み出せない」のではなく、「一歩踏み出すそのやり方まで忘れてしまう」、あるいは「思考の選択肢から無意識のうちに、変化すること、一歩踏み出すことをオミットしてしまう」という形での、根の深い喪失である。

屋敷から出られないブルジョワたちは、「そこから出る」ことではなく「そこで生き延びる」ことでサバイバルしようとする。いまいる環境から出ることではなく、閉塞した環境のなかでなんとか帳尻を合わせようとする。でも、それってまんま、僕たち自身が毎日続けていることではないか?

なんとなく「辞めたら負け」だと思って続けている仕事。
医者から指摘されても、気にしないことにした生活習慣。
惰性で付き合い続けている、あまり気の合わない友人たち。
固定化し、数十年来変わらないし変える気もない支持政党。

あなたのいる「そこ」は、
まさに『皆殺しの天使』の
「出られない部屋」なのだ。

出ようと思えば簡単に出られるのに、出ること「だけ」を忘れて思い出せない。
閉塞感にはすこぶる自覚的なのに、そこにいることを「前提」として捉えてしまって、抜け出さずにその場で解決しないといけないような気分に支配されている。

「思考停止」という意味では、「出られない部屋」は「自分事として捉えられる範囲の狭さ」の比喩であるともいえる。
しょせんは他人事の、アフリカの貧困と飢餓。
しょせんは他人事の、ロシアのウクライナ侵攻。
しょせんは他人事の、イスラエルと中東の問題。
しょせんは他人事の、北朝鮮拉致者と家族の問題。
僕たちは、つねに「出ることを忘れた」部屋のなかの逸楽をむさぼり、「外」の悲惨な状況から目をそむけている。いったん確立した身近な安寧や社会的地位を手放せる人間は少ないし、その枠組みの外の世界に関心が持てる人間も少ない。

『皆殺しの天使』は、そういう閉塞感のなかで動くことを忘れたすべての人に対して機能する、効果てきめんの「口に苦い良薬」である。

たしかにブニュエルが本作を撮ることで正面切っておちょくりたかったのは、腐敗したブルジョワジーであり、腐敗したカトリック勢力であったろう。
しかしこの物語は、より普遍的で身につまされる「観客も我がこととして共感できる」要素に満ちている。われわれだって、彼等の愚かさを嗤えるほどに「自由」ではないのだ。

いろいろな既成概念に束縛され、
いろいろな社会通念に慣らされ、
「本当は疑ってみても良いルール」で、
がんじがらめになっている。

『皆殺しの天使』は、緊迫感のあるスリラーであり、毒と風刺のきいたブラック・コメディであり、同時になれ合った僕たちに鞭を当ててくれる「気づき」の物語でもあるわけだ。

彼等は結局どうやって部屋を出られたのか。
単に「閉塞感」に不平を垂れるだけでなく、
何をすれば、現状を打破できるのか。
最初から罠にはまらなかった使用人と、
閉じ込められたブルジョワジーの違いはなんだったのか。
永遠のループを示唆する皮肉なラストの意味とは?
『皆殺しの天使』の「不条理」には、そんな「今を」生きていくための重大なヒントが満ちあふれている。まさに、ピーキーでありながら保守化した現代に生きるわれわれこそ、ここで展開されている「思考実験」を追体験すべき存在だと言ったら、言い過ぎだろうか?

というわけで、皆さんもぜひ観てみてくださいね!

以下、重要な点を箇条書きで。

●冒頭に映し出されるゴチック教会のファサードと、鳴り響く聖歌。象徴としての「羊の群れ」。ラストの教会におけるミサのシーンを観るまでもなく、本作が「ブルジョワジー」とともに、「カトリック勢力」を揶揄し、おちょくっているのは、火を見るよりも明らかだ。ここで、ブルジョワの怠惰とカトリックの怠惰はひとつのセットであり、「部屋から出ないですべてを停滞させている罪」を等しく背負っている。ラストの鐘楼で鳴りひびく鐘は終末の鐘、『黙示録』の鐘である。

●「シュルレアリスム映画」としての本作で印象的なのが、「反復」の奇妙なモンタージュである。2度繰り返される到着シーンや、2度繰り返される挨拶、何度か繰り返される同じセリフ。これらは、なぜか屋敷内で飼われているヤギとクマ同様、明快に仕組まれたシュルレアリスティックな「デペイズマン」(異化効果――事物のあり得ない取り合わせを用いた虚構性と独自の美学の強調)である。

●同様に、部屋を這いまわる手のシーン(まさにイジー・バルタやヤン・シュヴァンクマイエルのストップ・モーションの世界である)も、現実と幻想のあわいを超えた、シュルレアリスティックな名シーンだ。ブニュエル作品には、『昼顔』などに特に顕著だが、妄想が現実に越境し、夢とリアルの境目が曖昧になっていくシーンが多く、観ていて混乱させられる要因のひとつになっている。

●ブニュエルの「脚フェチ」ぶりを想起させるすね毛処理のシーン、食材をぶちまける現代のコントだと怒られそうな演出、密室監禁ものでスルーされがちなトイレの話に徹底的に拘泥する姿勢など、あちこちに彼らしい好みが噴出していて実に楽しい。

じゃい