まわり道のレビュー・感想・評価
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ツークシュピッツェ峰は最高峰。トーマスマンの魔の山?安易な発想
初見かと思ったら、どうやら二度目だった。
『孤独のパラドックスは大事に守られているような深い安心感さえ感じるから不思議だよ』
とかなんとか、
ナターシャ・キンスキ◯は1961年生まれ、この映画は1975年製作だから、彼女は14歳。
従って、この映画はペド◯◯◯◯な映画になり、演出家は訴えられる。しかも、パワー・ハラスメントまで使っている。
さて、だからこそ、ナタ◯シャ・キンスキーの父親、クラウス・キンスキ◯の性的な嗜好(?)をWikipediaで知っておくべきだと思う。
『何を語りたいか』考えたくもなくなる茶色い固形の排泄◯の様な映画だ。
あと、30分間も我慢しなけりゃ。
もう、この監督の映画は見たくなくなった。見る価値がないのかもしれない。
鑑みれば、フジコ・ヘミングさんが『ドイツ人って個性的な人が多い』って辛辣に言っていたのを思い出し、ドイツ人に対して、人種的な偏見を持ちそうになる。具体的に言えば、怒鳴っているドイツ人が皆、ヒトラーに見えたり、ワグナーがナチス・ドイツに見えたり。
追記
オリビア・ハッセーさんはロミオとジュリエットのヌードで演出家を訴えたと聞く。ロミオとジュリエットなら、やり過ぎかもしれないが、こんな訳わからん映画なんだから、誤解も受ける。また、わかりもしないのに分かったフリするのはやめるべきだ。タルコフスキーの難解さとは違う。タルコフスキーは2回見て理解できる。
1972年のミュンヘンオリンピックでイスラエルの選手村にパレスチナ(?)のテロが襲いかかり、犠牲者が出ている。その3年後の映画。勿論、この頃はペド◯◯◯◯ではなかったのだろうが。実存主義を描く映画なら、そのくらいは断るべきだ。
ツークシュピッツェ峰はドイツの最高峰。トーマス・マンの魔の山をもじっているとすぐに分かる。安易な発想だ。
こう言った映画にアルベルト・マンゲルスドルフ風のフリー・ジャズを使うから、フリー・ジャズが誤解を受ける。
最後に
ナチス・ドイツに実存主義やニーチェ哲学を結び付けて、言い訳にしてはいけない。少なくとも、ドイツのベビーブーマーである、この監督の世代はそれに責任がある。だから、
もう、終わっている演出家である事も日本人は知るべきで、この映画を観るくらいなら『マインカンプ』を読む事をお勧めしたい。
大いなるまわり道
なんとなく集まった人々が、なんとなく旅を、なんとなく散歩を、なんとなく生活をする。物語といった物語は存在せず、焦点のぼやけたレンズを覗き込んでいるかのような浮遊感だけが空間を漂っている。ロードムービーと呼ぶにはあまりにも動線がない。
主人公の小説家は小説家であるにもかかわらず他者に対する興味を喪失している。そのことは彼も自覚していて、それをなんとかするために旅に出た。
彼と彼の周りに集まった人々は、なんとなく人間関係らしいことをやってみる。集まった人々とリビングで昨日見た夢について語り合ったり、散歩をしながら一人ずつと向き合って会話するシーンには、彼が自閉性を乗り越えて他者へと開かれていくのではないかという微かな希望が瞬いていた。
しかしこの茫漠とした関係性は実業家の唐突な自殺によって最も簡単に断ち切られてしまう。
それでも小説家のことを愛していた女優の女は、彼との関係をなんとかして修正しようと努めるのだが、小説家は彼女を鬱陶しいと感じてしまう。彼はけっきょく自我の殻の中から出ることができないでいた。
しかし終盤、小説家が元ナチス将校の老人の襟首を掴むシーンがある。ほとんど静によって支配されていた画面が突如として動に転変するこのシーンは、小説家が大いなるまわり道を経た果てに、ほんの少しではあるが他者との関わりの中に踏み出せたことを示唆している。
やがて成員のすべてが散り散りになり、小説家はまたもや孤独に追いやられる。しかし誰もいない山の頂上で彼が感じた孤独は、冒頭で彼が感じていたそれとまったく同じものだっただろうか?旅は単なる空転に過ぎなかったのだろうか?
「また会える?」
「もちろん」
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