マイ・ビューティフル・ランドレットのレビュー・感想・評価
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漂白、挫折、そして児戯
ネオナチの残滓がまだまだ色濃く残る80年代イギリスを舞台に、パキスタン移民の青年オマールと右翼の友人ジョニーがコインランドリー店の経営で一旗上げようと奮闘する映画。人種、性、経済格差などをめぐるあらゆる歪みが縦横無尽に混線し、社会的正誤のクライテリアが根底から狂っていく。コインランドリーというモチーフはそれらの歪みを一切合切漂白するデウス・エクス・マキナだ。
しかし繊維の奥まで染み付いた汚れが洗濯程度ではどうにもならないように、オマールやジョニーを取り囲む諸問題がコインランドリー経営を成功させた程度で消え去るはずもない。いや、むしろ経営業務を通じて資本主義というわかりやすいコードの上に乗ってしまったことにより、それらの歪みはよりアクチュアルな後ろめたさとなってオマールたちにのしかかる。
友人オマール(=移民=部外者)への恋慕とイギリス的ナショナリズムとの狭間で揺れ動いていたジョニーは、最終的にかつての悪友たち(=貧困層=ナショナリスト)に打ちのめされる。
これに懲りたジョニーはコインランドリー経営から足を洗おうとするが、そんなジョニーをオマールは後ろから優しく抱き締める。
オマールとジョニーが事務所(?)の洗面所で子供のように水をかけ合うラストシーンはとても印象的だ。イギリスという国が押し付ける不条理を憎むものの、結局そこから飛び出すことができなかった2人。彼らには児戯的な現実逃避以外のいかなる退路も用意されてはいなかったのだ。
移民とイギリス若者の青春群像劇
内容はわかるが、なぜそうなるかの掘り下げ、そして個々のその先の示唆がない。
時代的に暗雲混沌で先なんて、というもかもしれないが、スッキリしない。
ラストシーンを見ると尚わからなくなり、タイトルの印象になりました。
【サッチャー政権下のイギリス・サウス・ロンドンで起こった事。ダニエル・デイ=ルイスってこんなに美青年だったのか!】
パキスタン移民の叔父ナセルはサッチャー政権下のイギリス・ロンドンでの成功者。美しき、イギリス女性を愛人にしているし・・。
一方、オマール(ゴードン・ウォーネット)の父は、酒浸りの日々。息子には”自分と同じにならないよう”大学進学”を望んでいる。
同じ、移民の兄弟でも明暗を分けている。
ーサッチャー政権下のイギリスは、彼女の新保守主義の考えに基づいた富裕層優遇政策のあおりを受け、白人の労働者層が貧困を極め、その不満が鉄の女と揶揄されたサッチャー首相自身や、自分たちの仕事を奪っている成功移民者達に向かっていた時代である。-
ナセルも、オマールの将来を気遣い、自分の店で働かせ、更にはコインランドリーの運営も任せる。
オマールは幼馴染で、昔はワルをやっていたと仄めかされるジョニー(ダニエル・デイ=ルイス)を雇い、ナセル一族の少しヤバめのサリームからクスリをちょろまかし、店を改装。
コインランドリー新規オープンにこぎつけるが・・。
ー今、鑑賞すると当時の政治状況を背景に、移民問題(移民が、イギリス人労働者より富んでいる・・)や当時は描かれにくかった、同性同士の愛、混沌としたイギリス社会の断面が生々しく描かれており、興味深い。
更には、ニューロマンティックスっぽいエレクトロニックミュジーックが流れるクラブの内装などの、色彩のケバケバシイ美しさも”時代感が出ていて”良い。
だが、矢張り、この作品を成立させているのは、若きダニエル・デイ=ルイスの圧倒的存在感と美しさであろうことは間違いないと思った作品。ー
To Walk out the Door
変わらず、なにも決めないで適当に借りてきたビデオを観るチャンスがあった。感銘を受けた。
なぜかというとロンドンに住むパキスタンからの移民の家族、コミュニティーの人々の姿がみえ、それに、移民と資本主義の台頭とにより南ロンドンの右翼の青年たちが、社会から置いてきぼりにされていくのがよくわかるからだ。ロミオとジュリエットのようにこの対立している南ロンドンのコミュニティーの中で、イギリス人でパンクのジョニー(ダニエル・デイ・ルイス)とパキスタンの移民の息子オマール(ゴードン ウォネック)がお互いに愛を確認しあっていくのが美しい。最後のシーンで、自分たちの経営するコインランドレットでオマールがジョニーの傷を拭う。お互いに水をかけあって無邪気に遊んでいる二人が美しく感じられセクシーだった。それほと、この二人の愛を育てていくシーンが自然に感じられ、周りの環境に溶け合っている。
どこでもと言っていいほど、最近は移民の課題が多い。日本は移民政策を取っていないが、日本に住んでいる外国人を考えてみると、同じではないが少し理解がにているかもしれない。 オマールの父親と叔父の対比は移民の両極端の姿をよく表している。社会主義のジャーナリストでインテリな父親はロンドンに旋風する資本主義の社会に自分をアジャストすることができなく、アル中のような状態だが、息子のオマールには大学に行き勉強することをいつもを勧めている。オマールの叔父はこの世の中を上手に生きて、パキスタンのコミュニーティーやアングロの社会でも信用を得て実力をつけていく。この二人の移民の生き方は現実にもよく存在し得る。それに、私個人は上手に波に乗っていける人ではないので、不器用で自分の考えや主義主張が曲げられない父親の気持ちが痛いほどわかる。父親は新しい土地ロンドンで小さくてもいいから自分の居場所を見つけられるといいんだが。
移民の一番の関心は子供達の『教育』だ。1980年代の映画でも今の映画でも、移民はその移住した土地で、教養を身につけて、仕事をとって生活をしていかなければならない。それに、差別と戦っていかなければならない。子供には、自分の味わった苦労をさせないようにとまず、勉強をさせる。
作品の脚本家ハニフ・クレイシ (Hanif Kureishi)はとても有名で彼の作品は日本語にも翻訳されているが、私は全く知らなかった
変わらぬ関係
学生のときに、大学の授業で先生が見せてくれたことを思い出してレンタル。
不況にあえぐサッチャー政権下の英国。イギリス人の若者は職にありつけず、移民2世であるパキスタン人の若者に雇ってもらうという逆転現象。しかし、映画はこの逆転現象を皮肉に描くのではなく、ジェンダーやセックスの問題も横糸に張り巡らして、こののちの先進国社会の諸相を見事に織り上げてみせる。
性と経済の問題は非常に密接である。
この映画に出てくる人々の目下の問題は性と金である。性的な関係が金を動かし、また金の切れ目が縁の切れ目となる別れもある。
30年経った現在、映画に描かれている問題は、あの頃よりも一層明らかな問題となっている。
確かにサッチャーの新保守主義によって英国経済は復活した。しかしそれは、金融テクノロジーと資本の集中による、富の遍在と格差を前提とした経済成長であった。
移民や資本を持たない者たちにとっては、事態は一向に変わらず、両者のヤマアラシジレンマのような関係もこの当時から変化してはいない。
変わったのは、問題を見つめる人びとのまなざしのほうである。
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