「呪われた血は本当にあったのか」マーティン 呪われた吸血少年 よしえさんの映画レビュー(感想・評価)
呪われた血は本当にあったのか
注射で眠らせた女を裸にして、剃刀でつけた傷から吸血をおこなうという猟奇的犯罪を繰り返していた少年マーティン。祖父と孫ほどにも年の離れた従兄であるクーダに引き取られるが、クーダはマーティンを吸血鬼と罵り、事あるごとに呪われた血と脅す。マーティンは自分が何者であるのか思い悩み、またごく普通の形で女と結ばれることを夢想する。ラジオ番組に電話し、「伯爵」と名乗って吸血について語り、人気を得ていくが、吸血衝動には歯止めをかけられず、犯行を繰り返していく。
マーティンが実際に吸血鬼であったのかは作品内で明言されず、唐突で衝撃的なラストの後、余韻のように見るものの心に残る。実際、伝統的な吸血鬼像に見られる十字架を恐れニンニクを嫌い鏡に映らないといったことは一切なく、明るい太陽の元でも平気で行動できる姿は、そうでないことを示唆しているようにもとれるし、一方でこれまでの吸血鬼ものとは違うことを端的に示しているようにも見える。
そうした虚飾を剥ぎ取ってしまえば、マーティンはただの性衝動に思い悩む普通の少年(少年と言うにはちょっと薹が立っているのだが)にしか見えない。この辺りは誰にでも身に覚えのあることで、理解しやすい。彼が常軌を逸しているのは、ひとえにその衝動を犯罪行為で紛らわしていることと、犯行の手口が巧みで(実は仔細に見ると結構杜撰なのだが)、これまで嫌疑もかからず逃げおおせていることだ。クーダには完全に疑われているものの悪魔憑きと思われているせいで見逃されているという、なんとも厄介な構図すら孕んでいる。
ごく普通に考えれば、自分を吸血鬼だの悪魔だのと罵る相手と一緒に暮らしているのも相当におかしいのだが、一方でそのように見做した少年をごく当たり前のように自分の元で働かせているクーダの心情もかなり異常だ。このような関係性のもとで一つ屋根の下に暮らし食事をともにするというのもかなり理解し難い状況設定ではあるし、しかしながらその異常性をさほど感じさせず一本の作品にまとめ上げたのは、やはり監督のジョージ・A・ロメロの手腕が際立っているとしか言いようがない。ラストからスタッフロール中も続くシークエンスの乾き感は見事。