ホンジークとマジェンカのレビュー・感想・評価
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三人の妖精さんによる「天使と悪魔」の脳内会議! ジークフリート的英雄の純愛物語。
K’sシネマのカレル・ゼマン特集上映参加初日の二本目。
まず、先にフィルアップの「プロコクウ氏 映画制作の巻」が上映された。
木製のシンプルな人形を使ったストップモーション・アニメ。
8分ほどの短編だが、アイディア満載の楽しいスラップスティックで大満足でした。
映画の企画を持ち込んだものの、映画会社の重役に叩きだされたプロコクウ氏は、傷痍軍人のアコーディオンを高値で譲り受け、先っぽにジャムだかの瓶をはめてカメラ風にしつらえ、新聞広告で「屈強な男、採石工役」を募集、集まった連中を使って東映特撮の舞台のような石切り場でカメラ(?)を回し始める……。
細部まで気合の入った高品質のストップモーションのなかに、さまざまなドタバタの新ネタを注ぎ込んであって、充実した内容。石をかち割ったら、正方形の小さなウッドブロックが四方に飛び散る趣向も面白かった。ラストのメタ的な仕掛けも、実に映画的だ。
で、本編『ホンジークとマジェンカ』。
ゼマン最後の長編ファンタジーで、おそらくチェコにもともとある御伽噺なのだろう。
出生したホンジークを三人の女神が訪れる冒頭は、聖書における「東方三博士の礼拝」のようだ。
三女神は、白(天使)、黒(悪魔)、灰色(無関心)の三妖精をホンジークに授ける。
何か起きるにつけ、天使と悪魔は真逆の忠告を仕掛け、主人公はときには白を採用し、ときには黒を採用する。この近年のアニメなどでもよく見られる表現は、いわゆる古い伝統的な「Shoulder Angel」の類型を踏襲している。「妖精さんはホンジークにしか見えない」というのが、まさに定型通りの設定だ。
要するに三匹の妖精さんは、人生の岐路に立つたびに心の中で対立を繰り返す良心と邪心、楽天主義と悲観主義、受動性と能動性の象徴的キャラクター化である。本作ではそこに「無関心」属性とされる「灰色」が付け加えられ、二択の窮屈さに「あわい」が設けられているうえ、必ずしも「白=天使」を選ぶことが推奨されているわけでもなく、実際に平気な顔をして「黒=悪魔」の主張を受け入れるシーンもまま出てくる。こういった教条的道徳性に陥らない「現実主義」のベースが、本作が漂わせる独特のオーセンティシティ(真正性)の源なのかもしれない。
自分を首吊りにして殺そうとした盗賊を逆に助けたホンジークは、結局盗賊を追ってきた兵隊からふたりして逃げるはめに。小悪党の年長者と無垢な英雄という取り合わせは、容易に『ジークフリート』におけるミーメとジークフリートの関係性を想起させ、これが西洋の伝説・民話の一類型であることをうかがわせる。
このあと、盗賊に襲われかけた王女を助けるものの、同行していた王女の許婚(この事件で手ひどく振られる)に裏切られ、ホンジークは本格的に官憲に追われる身となる。その旅すがら出会った森の美しき妖精(ちょっとポール・デルヴォーっぽい。三妖精と違ってこちらはいわゆるニンフですね)の一人と、ホンジークは恋に落ちる(実際にはお付きの三妖精がクピドに射させている)。しかし妖精は、妖精の女王のお付きとして、白鳥に姿を変え、彼方の城に飛び去ってしまう。まさに『白鳥の湖』だ。あるいは『ローエングリン』か。
彼は海の向こうに聳える妖精城に赴くために、黒い妖精=悪魔と契約し、コウモリの羽根を授かる。しかし見た目まで悪魔に変わってしまった彼は、人として受肉しマジェンカの名を得て彼を追ってきた女性とすれ違うことになる。このあたりは、『ファウスト』や『美女と野獣』の香りもしてくる。
人として、貴族のもとに身を寄せたマジェンカは、ジョスト試合の景品として、優勝者の嫁になることが定められる。結局その大会で優勝したのは、出だしでホンジークを裏切った元王女の婚約者(貴族の息子)……かと思いきや、彼の鎧を借りてひそかに出場していた、悪魔化したホンジークその人だった!
彼の「呪い」が、女性の無垢なる献身と愛情によって解呪される一連の展開は、まさにワーグナー的な主人公像を想起させるものだ。やはりこういう「無償の愛で浄化される英雄像」の類型が、ヨーロッパの叙事詩文化の底流に存在するということなのだろう。
作画自体は、とても味わいと風格があって、古い民話・伝承の映像化にふさわしい。
特に三匹の妖精のキャラクターががっつり立っている(灰色の妖精の独特の存在感!)。
悪役のカリカチュアライズされた造形や、ジョスト試合での鎧の造形と思い切った動かし方、試合に負けたときのガラガラドッシャンな崩れっぷりも、実にカッコいい。
アニメとしてはあまり動かないけれど、最低限のアニメーションで最大限の効果をあげているし、漂う情感となんとも言えない「本場感」は、やはりチェコならではのものだ。
ただ、もとが民話・伝承だからか、主人公ホンジークの行動原理がいちいち読みづらいし、あれだけ白い妖精に警告されていたのに、安易に黒の言葉に乗っかって突き進んだ挙句、悪魔に変身した自分の姿を見て驚倒して泣き崩れるとか、あまりに考えなしのアホの子過ぎてしょうじき共感しづらい(その辺もジークフリートっぽいw)。
クピドの悪戯によって強制的に結ばれたかに見える二人の恋心が、後半における展開のすべてを支配しているという物語構造自体、個人的にはあまりしっくりこない(ホンジークの突然の恋着がクピドの矢以外に理由が見当たらないし、ヒロインのマジェンカがなんでホンジークのことが好きなのかもよくわからない。そのわりに、「愛のために道を踏み外し、愛によって救われる」話になっているのが実に居心地が悪いということだ)。
音楽も、人によってはメロウで胸に沁みたという人もいるだろうが、個人的にはなんかイタリア艶笑映画とかモンド映画でムダに美しく流れてるムーディな音楽みたいで、ちょっと気味が悪かった(笑)。なんで電子音がキュインキュイン鳴ってるんだろう??
とはいえ、剣ではなく、一本の薔薇を掲げて悪龍に立ち向かい、見事に調伏してみせるホンジークの姿は、やはり尊いと思う。
年代記(クロニクル)に描かれるような歴史的英雄や戦争の英雄ではなく、市井に生きた一人のヒーローの姿を謳い上げる、というコンセプト自体も美しい。
あと、さんざん旅を続けてたどり着く先が「断崖で途切れた海」だったり、ボロボロの大判の本とか、雷の描写とか、ビジュアルイメージや重要な事物・事象の選択に意外なほど『前世紀探検』と共通する要素が多かったのは興味深かった。ゼマンは思いのほか、特定の呪物やシチュエイションに執着して幻想的イメージを紡いでいくタイプなのかもしれない。
得体の知れない部分もひっくるめて、噛み応えのある「伝説・民話・伝承」の「天然もの」を、とくに食べやすく加工もしないでそのまま口にしているような「地場感」があって、特別な時間をじっくり満喫することができた。
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