普通の人々のレビュー・感想・評価
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どこに焦点を当てたストーリーか
兄の死による親子の確執は『スタンド・バイ・ミー』を、カウンセラーとの対話による心のわだかまりの解消は『グッド・ウィル・ハンティング』を連想させる。だが、ストーリーはどこに焦点を当てているのかよく分からない冗長さで、それらの作品にはとても比肩するものではないと思えた。
まず、亡くなった兄がどんな人物で、どういう点が母親に愛されていたのか、逆に主人公である弟はなぜ母親に愛されないのか、そういった状況がよく分からない。また、カウンセラーに対する過去の事件の告白で、わだかまりを解消するシーンも唐突過ぎる。『グッド・ウィル・ハンティング』の場合、心に傷を負った者同士、カウンセラーと主人公とで通じ合うところがあり、それが主人公の心を開くきっかけとなり、心のわだかまりの解消につながったというような深みがあった。だが、今作の場合そういった深み感じられない。それゆえ主人公に終始感情移入しづらい。
ラストシーンにしても、父親との関係は改善されたにせよ母親との溝は深まったままで、今作を『家族の崩壊と再生』というテーマで描きたいのだとすれば、中途半端な結末だ。
これでアカデミー賞四部門受賞なのか、と思わされた。
お母さんは誰が救うの?
地味なんだけど、好きな映画。何年か前に視聴してとても印象に残っている作品。歴代1地味なオスカー作品と言われているけれど、メッセージ性は強い。なかなかレビューも難しい。
きょうだいの死によって、トラウマを抱えた主人公のコンラッド。傷ついた家族たちの物語。普通やったら、家族で力を合わせて悲しみを乗り越えよう!みたいなストーリーになりそうやけど、この作品は違う。長男の死によって、家族の歪みみたいなものが表面化され、修復不可能になっていく。コンラッドが母親に愛されたいけれど自分のせいで兄が死んだから…自分は罰を受けないといけない、幸せになってはいけないんだという気持ちが伝わってきてとても辛い。母親は長男しか愛せなかったわけではなく、自分自身が嫌いやからコンラッドのことも受け入れることができなかったんやよね。
修復不可能と悟った母親が家を出て行くシーンも印象的。父とコンラッドは支え合って生きていくけれど、母親はどうなるんやろう。1人で生きていけるんやろうか。カウンセリングに行き、自分の弱さを吐露したコンラッドと父。一方、自分の弱さを認められなかった母は孤立。弱さを認める強さが必要やなと思う。
実は「普通」でなかった普通の人々
<映画のことば>
「平穏だった生活は一つのことで一変した。君は慌て、混乱した。バックだけを愛していた。バックの死とともに、君の愛は葬られてしまったよ。バックではなく、自分を愛していたのか。ともかく君は葬られてしまった。君の正体が、分からない。」
☆ ☆ ☆
直接には一家にかけがえのない長男坊・バックの事故死という不幸を遠因として、少しずつ家族が崩壊していったのは、一見すると一家の中心を占めていた(と、家族の誰にも思われていた)母親であり、妻でもあったベス、その人の、生まれながらにして染み付いていた頑なな人となりそのものに大きな要因があったということでしょう。
本作の「普通の人々」が形作る家族の崩壊は、実はベスの内面に家族が形作られるずっと以前から内包されていて、バックの事故死は、その発露のトリガー(引鉄)に過ぎなかったのだと思います。
(バックが事故死をしなかったとしても、何か他のことを契機として、きっといつかは発現し、本作と同じ結末を迎えていたことは間違いがないと、評論子は思う。)
分析医の力を借りて、コンラッドが過去の桎梏を何とか乗り越えて家族の新たな地平が家族の視野に入ろうとしたとき、このことが白日の下に引き出されてしまった…。
けっきょくベスは、明白に突きつけられてしまった自己の、その人となりの故に、自らのお腹を痛めて産んだわが子であるコンラッドや、最愛の夫であったはずのカルビンの人生から去っていくことになった…そう思えてならないのです、評論子には。
ラストシーンから推すと、コンラッドは、カルビンの真の包容力(父性愛)に包まれながら、自らを取り戻して、ジェニンとは、温かで安定した関係を築いたものと信じて疑いません。。
秀作であったと思います。
まるで一枚の油絵を鑑賞するかのような、重厚な一本として。評論子は。
暗っら! 兄は事故死、その影響か弟は精神科入院。全然普通じゃない。...
いい大人ほど感情を正しく表現するのは難しい。
重たいテーマすぎて2日かけて鑑賞した。
脚本の種類でいうと「人生の節目」、まさに家族にとっての転機の話でしたね。
普通の4人家族、そのうちの兄が死をきっかけに波長とバランスが崩れていく。
ストーリーのテンポ感も原因ではあるけれど、雰囲気が重すぎる。ズドーーーーーン
登場人物が全然素直じゃないので表面的な会話だらけ。
ひたすら病院の待ち時間みたいな苦痛を体験できました(笑)
ストーリー自体は兄が他界したあとの状態から始まるのですが、その時点で気持ちが悪い。
決定的なハプニングが起こるわけでもないのに
家族なのに他人行儀な感じ。
カウンセリングを受け気持ちの整理をすると、堰を切ったように流れ出す感情。
大人になるにつれ”感情の所在地”が分からなくなるのだと思います。
家族だからこそ本音で話せそうなのに
家族だからと見くびって、高を括ったんだろうな。
プライドの高さがお互いを邪魔してる感じが見るに堪えない…
お互いのリスペクトさえ見当たらない、単純にコミュニケーション不足による崩壊。
普通の人々こそ迷い込む罠のようですね。
ラストシーンで”答え”を見せてもらいました。
あれこそ正解、あれがコミュニケーション、だけど中々できないんだなあ、みつを。
見ごたえすんごい
とにかく終始暗くて重いんだが、圧巻でした。密度がすごい。見ていてずっと苦しくて心臓をえぐられるような痛みを感じて辛かったけど、本当に素晴らしかった。
「普通の人々」っていうタイトルがどういう意味でつけられたかは分からないけど、どんな人間も生きてりゃ色んな事で悩むし、どうしようも無いくらい苦しいこともあるよねって思った。そしてやっぱり愛って重要。苦しみ抜いて葛藤して、相手や自分を理解しようとして、幸せを感じて明日に希望をもって生きていきたいよ。
演技が上手いなーとか感じる隙も与えられないほどに皆さん素晴らしかった。ふっ切れたあと登場した次男は、なんかさっぱりした顔して別人みたいだった。目付きや姿勢も違う。次男の彼女は非常にキュートだった。感情を自然に表情や言葉に出せる素直さがよく出ていて、そんな彼女だからこそ自分の本当の気持ちをうまく表せない次男が、自殺未遂の話を彼女にはできたり、惹かれていくのに説得力があったと思う。
個人的には、終盤、次男が母親を抱きしめるシーンが一番感動的だった。感動的な名シーンはいくつもあるが、たぶん私にも息子がいて次男と年齢が近いことは無関係ではない。
夫婦が最終的に上手く行かなかったのはリアルで良かった。ウソ臭いうすら寒い終わり方よりずっと良いな。
私は、悩んでたり辛い気持ちの人が周りに居たら、優しい人間でいたいと思った。不器用でも一緒に、同じ人間として。そんなこと言ってる自分が一番ウソ臭いか…でもなんかそう思わずにはいられない。
ボクが死ねば良かった。
兄を事故で亡くした弟は、自分を責める。
そして自殺未遂。
助かったものの抜け殻のようで、自分を取り戻せない。
幸福な4人家族の1人が欠けると家族はバランスを失い、平衡を失っていく様が、
細やかな描写で描かれます。
1980年(アメリカ)
ロバート・レッドフォードの初監督作品。
なんとアカデミー賞4部門(作品、監督、助演男優、脚色賞)に輝いた。
この映画、かなり昔に観たとき、非常に感動した記憶があります。
衝撃的な印象でした。
今回観たところ、丁寧な演出の心理ドラマで、良いことは良いのですが、
そこまでの感動は生まれませんでした。
(感受性が鈍ったんですね。悲しい!)
精神分析医に「心の内奥を委ねる」
とてもアメリカ的です。
精神分析医には「本音を話し、真っ向からぶつかって行く」
父親(ドナルド・サザーランド)は繊細な心遣いで次男のコンラッド(ティモシー・ハットン)に
寄り添う愛情豊かな人柄です。
死んだ長男バックを愛する母親メアリー・タイラー・ムーア)は、コンラッドに冷たくて、
許す言葉、
硬く抱きしめて、
「愛している、立ち直ってね」の
言葉が口を出ないのです。
一番支えてほしい母親が、無力です。
かえって母親の性格の未熟さが露呈します。
肉親を亡くす・・・
誰もが必ず経験する試練。
普遍のテーマを、ほろ苦く描いた秀作です。
でもレッドフォードの監督作品なら「リバー・ランズ・スルー・イット」がより好きですね。
優等生の兄。
放蕩者の弟を演じたブラッド・ピットの美しさカリスマ性。
ロバート・フォードの若い頃の美しさに瓜二つのブラピ。
何度も観るなら、こちらですね。
(これって、楽な方に流されてるだけ?)
人の本音を描いたドラマ
兄が事故死したのは自分の責任だと自己嫌悪に陥ってる弟コンラット。母親ベスは、最愛の息子を失った悲しみそして、何か愛し切れないコンラットとの関係。そんな2人に挟まれて本来の家族の形を取り戻そうと努力する父親カルビン。そんな家族3人の関係が危機的に崩壊していく、フィクションだからって、取ってつけたような架空の物語じゃない。あくまでもストレートに観ている私たちにぶつけてくるヒューマンドラマに感じました。
ベスとカルビンの夫婦の関係なんて、生々しく現実味たっぷり。コンラットを育てていく中で、カルビンとベスとの関係が徐々に崩れていってしまう。そんな中で、本来の家族の在り方そして、本来の夫婦の在り方が何なのかを、問いかけてきているような気がしました。
家庭崩壊劇にみるレッドフォード監督の生真面目さ
アメリカの「普通」
1970年代後半から80年代にかけて、米国は世界の中枢に君臨する強いリーダー国家を自負した。
全てが順風満帆。軍事力、経済力、政治力において、米国が世界を正しい方向へ主導する。
国民の生活は豊かでチャンスに満ち溢れ、誰もが休日はゴルフを楽しめる。
少なくとも、当時小学生から中学生になろうとしていた自分には、アメリカ合衆国という国からそんな明るさを感じていた。
ステレオタイプのこうしたイメージを、実は国民も皆信じようとして、暗い闇の部分から敢えて目を背けていたのかもしれない。
そういう人々が集まって形成された家族に、原作者も、映画の製作者たちも、小さな米国の病理を見ていたのかもしれない。
必死になって「普通」を装うことで、破滅的な現実の到来を少しでも遅らせることができると信じたのだ。
長男の死に涙を見せず、葬儀で着る夫のシャツの色に指図する妻のエピソードは、まさに強さに取り憑かれた米国たる振る舞い打。
苦しむコンラッドを両親に預けてゴルフに興じる場面、ジョギングの間中、同僚と株の売買の話題が続く場面など、ところどころに強い米国の普通が描かれ、そのことに耐えられなくなる一見普通ではない父親が描かれる。
観る側は「どっちが普通?」と問われているのだ。
ティモシー・ハットン、ジャレツド・ハーシユら主要キャストがみな好演。
エリザベス・マクガバンのはちきれそうな顔は当時あまり好道ではなかったが、今見直してみると愛嬌があってチャーミングだ。演技も素晴らしい。
この時代の上流家庭の暮らす街並みは美しい。あの時代がよかったと思ってしまうのは、やはり作り物の普通に騙されていたからなのだろうと思うのは少しばかり悲しかった。
【”人生とは予測できない事故、事件の連続を自己抑制出来るかどうかで行く末は変わる”幸せだった4人家族の絆が徐々崩壊していく様を描く切ない作品。】
■ロバート・レッドフォードの監督デビュー作。
ー 冒頭から、コンラッドは頻繁に悪夢に魘される。それは、時化でヨットが転覆する夢だ。一緒にいたのは、観ていると徐々に分かって来るのだが、母、ベスが溺愛していた兄、バックであった。-
◆感想 <Caution! 内容に触れています。>
・鑑賞していて、辛い気分になる映画である。ヨットの事故を自分の責任であると思い、自殺を図るコンラッド。
- カルヴィンはコンラッドを精神科医のバーガーに週2回、通院させるが・・。-
・ベスはコンラッドに対し、普通に振舞おうとするが、どうしても冷たく、素っ気ない態度になってしまう。
- コンラッドが普通に暮らそうと努力すればするほど、精神的に追い詰められていく姿。-
・父・カルヴィンは、コンラッドとべスの関係を解きほぐそうと苦悩するが…
- 在る夜に、カルヴィンがそれまで抑えていた妻ベスに言ってしまった言葉。ー
<幸せだった4人家族が、予測できない事故、事件により関係性が崩壊して行く様を描いた作品。
ラスト、家を出た母ベスのいない幸せの象徴だった大きな白い家の前で、肩を抱き合って泣くカルヴィンとコンラッド。
誰が悪いわけではないのに・・。何とも、切ない作品である。
カルヴィンとコンラッドが立ち直り、新しい生活を始める事を淡く、期待してしまった作品でもある。>
40年前…
もうそんなに経つのか〜
当時は観に行かなかったが、ティモシーハットンの名前を知ったのはこの作品。
最近観た作品に彼の名前を見つけ、懐かしくなりじっくり観てみた。
色褪せない作品だと思う。
着ているものは時代を感じるけど(笑)
恐らく普通の人々が抱えている心の問題が、丁寧に描かれている。
なかなか自分を許せないコンラッド。
病院で知り合ったカレンが亡くなったことをきっかけに、ようやく全てを吐き出すことが出来たのかな。切ないが。
母方の祖母を見ていると、母親の持つ心の闇が見えてくる気がした。
当時アダルトチルドレンという言葉があったかわからないけど。そんなものも見え隠れ。
母親は認めないと思うが、溺愛していた長男を亡くす前からコンラッドをするりするりと避けていたこと。そしてコンラッドはそれをずっと感じていたこと。
子供を同じように愛せない母親はそんなに珍しくないのかもしれないが、それに気づいてしまったら、子供は辛いよね。
そしてそこを突かれそうになると瞬時にキレる母親。演じた人もうまかった。
そうそう、こういう返し方するよね、という感じ。
母親がバーガー医師と会わなかったのは残念。
カウンセリングを受けていたらまた違ったかもしれない。
最初と最後のカノンいいね〜
考えさせられる
オスカーはバーガー医師に
◆レビューがとても少ないですね。
これだけ有名な作品なのに、感想を上げている人が異様に少ない。
それはたぶん2つの理由から ―
①【作品自体が重たい】
駄作やB級娯楽作品の対極にこのヘビーな作品があって、未だ想いを言葉化できない=手をつける時期がまだ来ていないと感じている鑑賞者が潜在的に多くいるからだと想像します。
(僕もいくつかの作品、そうですから)。
そしてもうひとつの理由としては ―
②【未体験の世界がテーマ】
つまり、日本には精神科、精神分析医、カウンセラー等を普段の生活の中で、時宜に応じて あるいは定期的に、自己メンテナンスのツールとして“利用する”という習慣がほぼ皆無だからでしょうね。
・・かかりつけの歯医者がいるように、個々がかかりつけのカウンセラーを持っているアメリカでは、この映画を制作する側の前提も、もちろん観る側の前提も、日本とは共通体験が全く違っているから。
僕は学校で心理学やカウンセリングを学びました。施療する立場も受診する立場も体験しています。
優れたカウンセラーも、力量のない分析医も知っています。
だからこの作品が、腰の座ったカウンセラーを中心にして回るように構成されていること、その骨格が好ましく、僕としては非常に興味深くて 面白かったです。
☆満点です。
・・・・・・・・・・・・
◆登場人物たち
「父親」は、長男の事故死と次男のリストカットが一体のものであり、因果関係があることを知っている。
弁護士ゆえ なおさらである。
「次男」は、兄を死なせたのは自分なのだと激しい自責の念を抱えているし、そのことで母親が自分に憎しみを向けていることに気づいている。
家庭崩壊は自分のせいだと思っている。
そして「母親」は、
そのお母さんから《強く生きられない人間はダメだ》と言い含められて育ってきた。
親の代から続く強迫観念の桎梏の中に彼女はある。
(親にも自分自身にも弱みは見せられない)。
だから秘して長男に対しては最高得点の評価と追想に生きているし、次男に向かっては断罪の視線に生きる。ただし彼女は中立で取り乱さないパーフェクトな自分であろうとするから、悼みの気持ちも断罪の思いも、心の奥底にしまって隠そうとしている。
彼女は、本当は、喉元まで出てきている言葉と本心
「私は悲しい、泣きたい」
「コンラッド、お前が死ねば良かったのに」
このキーワードを吐くことが出来れば、堰を切って、彼女にも新しい転機が生まれるだろう。
家族三人が黙して仮面をかぶり「普通の家族」を演じることの無理を、監督レッドフォードはよくここまで真摯に撮ったと思います。
大丈夫。母親はこれからです。ゴルフ仲間に悪態をついたから、彼女の解放は始まっている。
オスカーはバーガー医師に献じたかった。
全員、その葛藤は理解できる
普通は盤石ではなく、ひとつの出来事で崩れていく
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