「名もなき、無力な、弱き庶民を見つめる「目」を忘れないシドニールメット監督の矜持」評決(1982) ウィルさんの映画レビュー(感想・評価)
名もなき、無力な、弱き庶民を見つめる「目」を忘れないシドニールメット監督の矜持
この作品は「男の生きざま」を描いている。
裁判でも、法廷でも、弁護士でもない。
唯一、定義づけできるとすれば「正義」だ。
しかし、ここでの「正義」は善悪の概念とは隔てられている。
「正義」それは如何なる在りようであろうが、主人公(ポール・ニューマン)の「生きざま」であり「矜持」である。
――由緒あるキリスト教カソリック系大病院で起きた医療過誤事件
それに立ち向かう現在は酒浸りで落ちぶれた主人公の弁護士
大病院側が用意した一流法律事務所の敏腕弁護士チーム――
実情は、こういう綺麗事ではない。
当初、主人公は金銭が欲しい。大病院側と示談とし、そこから収入を得たい。
しかし、「何か」が主人公を動かす。示談を拒み、裁判に持ち込む。
それは正義感というべき直截なものではない。
それは「再起」であり「自己実現」ともいうべき「存在証明」なのかもしれない。
けれども、私はそれには異を唱える。
主人公が示談を拒むことは依頼人の意思の背き、更に裁判をも望まない彼らを裏切る。
主人公は身勝手でさえある。
依頼人は言葉を荒げる。「あんたら(弁護士や医師たち)はいつもそうだ。ベストを尽くしたというだけだ。ツケを払わされるのはいつも俺たち(庶民)だ」
この名もなき者、無力な者を見つめる「目」が欠ける法廷映画はごまんとある。・・・弁護士、検事、裁判官、ミステリー、どんでん返し・・・これ見よがしに観客を興奮させる。
しかし、この作品にも上記のものは見事に揃っているのである。
そして、この作品の底流を成すのは、
あくまでも「人間」、どこまでも「人間」、いつまでも「人間」、、、
主人公は、品行方正で「正義こそが勝つ」というような人物ではない。
敢えて表現するならば「負け犬」であり、その己を知るからこそに、どん底から這い上がろうとあがく不屈の努力を尽くす「人間」である。嘘もつく、汚い手も使う、それでも立ち上がろうともがく「人間」である。
これは、主人公という「男の生きざま」を描く作品と述べることしか、
私にはできない。
そして、ラスト・シークエンス、観客は問われる。
いままで観てきた作品を通して。
主人公の「正義」とは、何ですか?
苦いエンド・シーンを提示しながらでさえ。