パリ、テキサスのレビュー・感想・評価
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四半世紀越しの願い
「パリ、テキサス」が劇場公開された1984年当時、私はまだ小学生でこの作品の存在すら知らなかった。
それから10数年後、大人になり一人暮らしを始めた私の元に実家の母から1本のビデオテープが送られてくる。どうやらケーブルテレビの映画専門チャンネルで録画したものらしい。そのビデオテープのラベルには手書きの文字で「パリ、テキサス」と書かれていた。私はそれを小さな14インチのテレビで鑑賞した。その日以来いつか「パリ、テキサス」を劇場の大きなスクリーンでを観てみたいと強く願うようになった。この時すでに時代は1990年代後半に差し掛かっていた。
あれから四半世紀以上が経ち、半世紀以上生きた私は劇場でのリバイバル上映の列に並びようやく願いを叶える事ができた。
主人公が彷徨うパリと言う名のテキサスの荒野をスクリーンの中に観た。そして涙ぐんだ。嬉しかった。
思い出話しをしておきながらこんな事を言うのはなんだが、私はこの映画を観て懐かしがりたくない。懐古する事は悪い事ではない。でも懐かしいと思った瞬間それは過去の物になってしまう。パリ、テキサスは決して古くないのだ。だから配信でこの作品を知った現代の若者か私のようにいつか映画館のスクリーンで観てみたいと1人でも多く願って欲しい。
そうやって願いは時代を超えて「パリ、テキサス」の物語は受け継がれていくのだろうと思う。
顔を合わせる
ヴィム・ヴェンダース監督作品。
名作。みてよかった。
息子がいるにも関わらず4年間も行方をくらまし放浪していたトラヴィス。彼は過去の傷ゆえ容姿に無関心で無口である。彼の弟のウォルトは、兄が倒れたと連絡を受ける。するとわざわざ遠いテキサスまでいって、彼に献身的に尽くす。しかもウォルトの妻のアンは彼の息子ハンターを息子同然に育ててくれていたのだ。彼らのおかげで徐々に口を開くようになり、服装にもこだわり始める。4年ぶりに再会した息子とも関係性を深め、父と呼んでもらえるようになる。ここまではいい話だ。
だがトラヴィスは妻のジェーンに会うために、突然息子をかっさらうように連れ出し、ヒューストンに向かう。献身的に尽くしてくれたウォルトとアンを反故にする行為。この時のウォルトとアンの絶望感はつらい。
ジェーンとの再会もつらいものがある。ジェーンは息子に仕送りするために風俗店で働いている。彼は落ちぶれた彼女を目の当たりにする。またこの店では客がマジックミラー越しに女性と会話するシステムだ。だからトラヴィスとジェーンは目を合わすことができないまま、そしてトラヴィスは反射された自分自身に語りかけるように過去の傷を開示させるのである。
トラヴィスは彼女を愛しているがために彼女に執着し、自由を奪った。それは彼女をモノとして所有し、享受する行為であると言えるだろう。彼女の主体性は抹消され、彼の欲求のままに彼女を味わう行為。それに彼女は苦痛を覚え、夢へと逃避することも分かるだろう。だから彼女が住処に火を放ち、彼を殺そうとしたことや息子を手放し自由を取り戻そうとしたことはとても分かる。
彼も過去の過ちを自覚している。だが彼は過去の過ちをどのように償えばいいか、傷をどのように回復できるか分からないままである。だからハンターとジェーンと共に暮らすことを断念し一人逃避するのである。
彼はハンターに宛てたメッセージでこのように言う。
「僕は一緒に生きられない」
「過去の傷がぬぐえないままだから」
「どうしてもダメだ」
「空白が空白のまま」
「自分が発見するものがこわい」
「それに立ち向かわないことがもっと怖い」
空白とはジェーンへの欲望ではないだろうか。ジェーンを愛するがために、彼女を自分のモノにしようとする欲望。だが彼女はモノではないから絶えず彼の手から逃れてしまう。この欲望は決して充足されないものである。
彼は彼の内なる欲望を発見することが怖い。その欲望に立ち向かうことも怖い。だから火を放たれた時のように、「自分の形跡が完全に消えるまで」逃避するのである。
彼の逃避は欲望と同様決して満たされない行為である。4年前の彼はテキサスのパリスへ逃避していたが、そこの終着地は空地であった。今回の逃避で到達する場所も空白であるはずである。
そして彼の逃避への警告はすでにされている。高架での精神に異常をきたしていると思われる男の警告である。
彼は言う。
「安全な地帯などどこにもない」
「私が保証する 安全地帯は抹消されている」
「安楽の地と信じた所には安楽でないものが待っている」
ジェーンとハンターが共に生活するために、自分の形跡を完全に消そうとする逃避。だが彼の逃避はどこにもたどり着けない。身を休める安楽の地はそもそもない。むしろ彼には充足されない空白のみが待たれているのである。
ではどうしたらよかったのか。私は彼らがマジックミラー越しに会話した時、一瞬ジェーンの顔にトラヴィスの顔が重なったことに手掛かりがあると考える。つまり他者の顔に自らの欲望が重ねられていること。そして顔は決して自らと同一化できないこと。それに鏡のように眼差しを向けること。それが大切であると思うのである。
「そこにありながら、ないもの」が生み出す情景。
○作品全体
ロードムービーという前情報のみで見始めた本作。フランス・パリとアメリカ・テキサスを跨ぐスケールの大きな物語なのかなと思っていたけれど、実際には主人公・トラヴィスとそれを取り巻く登場人物の過去に向き合う朴訥なヒューマンドラマだった。
本作にはそこに存在はしているけれど、見えないもの、もしくは存在しなかったものが多い。中盤まではトラヴィスそのものがそうだろう。トラヴィスという登場人物が存在していながら、果たして本当にトラヴィス本人なのか、という疑念から始まり、それが払拭されても今度はトラヴィスの空白の4年間がなかなか見えてこない。
しかし、見えてこないからこそ新たに生み出す情景がある。トラヴィスとハンターの関係性がそれだ。
8ミリフィルムの中では仲良く過ごす親子だが、今そこにいる二人は記憶の断絶という壁を隔てた、単純に「親子」とはいえない状況にある。しかしハンターの中にはトラヴィスとの記憶があって、一緒に帰ろうとしなかった関係性から道路を隔て、そして並んで歩いて帰るところまでやってきた。この過程は記憶があったままでは見られなかった情景だ。そしてこの出来事があったからこそ、2人が、そこにはもういないけれど「話し、動いていると感じることができる(ハンターのセリフ)」という母親の実像を探しという同じ道を進むことになったのだろうと感じた。
終盤ののぞき部屋のシーンは、二人がそこにいながらミラー越しというシチュエーションの演出が素晴らしかった。
最初ののぞき部屋のシーンはトラヴィスの「ついにジェーンを見つけられた」という感情にフォーカスを寄せて、ロードムービーとしての到着を提示し、次ののぞき部屋のシーンではそれぞれがそこにいながら背を向けて「空白の4年間」を話す。そこに二人がいながらも、相手がいなかった4年間について触れる場面。相手へ言葉を向けながら、ただ一人だけで経験したことを独白のように伝える。二人の感情も含めた距離感の演出として、これ以上の構図はないと感じた。
ダイアログが続いたのぞき部屋のシーンから場面転換してハンターのいるホテルのシーンへ。
ジェーンがハンターと抱き合うシーンは無言が続く。前のシーンとのコントラストも素晴らしく、そしてそのコントラストによって二人の感無量な感情が際立つ。
ラストは夕景の中、一人車を走らせるトラヴィス。家族の輪に入らなかったのは、愛の理想に執着してしまった過去があったからだと感じた。そこにジェーンはいるのに、存在しない愛の形に執着をした過去、とも言い換えられるだろうか。それは酔っ払ってハンターに話した、トラヴィスの父の話とも重なる。そして、砂しかないテキサスのパリの土地に未だ想いを馳せるトラヴィスは、その甘美的な情景を拭い去れていないと自覚しているのかもしれない。
なにもない砂漠から始まり、現代的な高速道路とヒューストンの街並みで幕を閉じる本作。居場所や心情は異なれど、その時々にトラヴィスは理想の世界を抱えており、そして失ったものが存在している。その情景はどれも鮮やかでもあり、切ないものでもあった。
○カメラワークとか
・赤や緑、青が印象的な画面が多い。ウォルトの家から見る夜景と赤色の照明、手術室の緑、のぞき部屋の青。どれもビビッドな色だから印象に残る。
・ホームビデオの臨場感が好きだ。ピントの合ってない感じ、ズームが雑な感じ。一つ一つの仕草や表情が身内だけの表情だなと思わせるのも上手い。
見る/見られる、見せる/見せられる
覗き部屋と映画は似ている。映画は観客が一方的にスクリーンを見る。見る主体としての観客と見られる客体としての映画。覗き部屋は、マジックミラーのようになっており、客からは女性が見えるが、女性側は客を視認できない。見る主体としての男性客と見られる客体としての女性。映画研究者ローラ・マルヴィの「視覚的快楽と物語映画」の影響があるんだろう。映画がなぜ魅力的なのか、それは「のぞき見る」快楽があるから、そしてハリウッド映画においては大抵、男が女をのぞき見る構造をしているとローラ・マルヴィは言ったわけだけど、彼女が言ったことがそのまま映画の中で再現されている。
「見る/見られる」という関係において、確かに男が女を見ることの方が多かっただろう。しかし、「見る/見られる」は何かの拍子に「見せる/見せられる」という関係に反転するのではないか。この映画を久しぶりに見てそんなことを思った。主人公の男はかつての妻を覗き部屋の鏡越しに見たくなかったのか、背中を向けて話し始める。しかし、最終的には見なくてはいけなくなる。彼はあの時、主体的に「見た」のか、それとも「見せられた」のか。
失った魂を求めて生きてゆく男の姿
手練れによる珠玉のロードムービー
初めて見たのは10代の頃。
映画学校に通っていた自分は
心象風景の表現にロングショットをどう使うのか?など
技術的な側面で勉強のために見た映画でした。
何十年か経って、世間的にも妻子がいて当たり前となる年齢となり、
改めて視聴する機会があって、今回のレビューとなります。
我ながら歳を取って多少は大人になったと思っていましたが、
弟・ウォルトの献身、弟嫁・アンが寄せる息子・ハンターへの愛情、
ハンターの無垢と、若かったからと思っていたら、
ハンターを想い毎月欠かさず仕送りをしていた元嫁・ジェーン。
それぞれがあまりにも美しすぎて、あまりにも「まとも」過ぎて。心が痛みました。
率先して食器を洗ったり、みんなの靴を磨いてみたり。
理解されないながらも、
家族、父親としての自分の在り方を果たそうとするトラヴィスですが、
不器用が故、彼はまたもや弟夫婦を裏切るような行動を取ってしまいます。
ジェーンを見つけ出したものの、その日は声をかけられないトラヴィス。
「穢れ」を確認するも、それもなく。
飲んだくれたうえ、息子の助けを借りながら自分の過ちを再確認することになります。
母親を助けてあげたかったけどそれができなかった、
父と同じ「トラヴィス」という名の自分。
そして将来、家族と過ごすために父の妄想と同じ「パリ」という土地を買った自分。
ロードムービーなので劇的な事件が起きるわけではなく
映画序盤と同じく黙って他人を拒絶していれば起こることもなかった感情、
喜怒哀楽がただただ2時間、トラヴィスを通して流れ込んできます。
人により解釈は違うのでしょうが、
最後はジェーンやハンターと一緒に暮らせないと判断したトラヴィス。
それはなぜだったのか、、、?
勧善懲悪の娯楽映画も好きですが、
「映画ってこういうもんだったよな」と久しぶりに感じる体験でした。
ストレス発散には向かないと思いますが、
気の合う誰かと一緒に見れば3時間ほど人生についてあーだこーだとお酒を飲める。
手練れによる珠玉のロードムービーです。
自分自身を見つめ直し、さらに旅は続く
4年間失踪していた兄がアメリカの田舎町で見つかり、弟が迎えに行く。
最初は言葉を発さず何も覚えていないという兄。
弟夫婦が引き取り育てていた子どもと会わせたり話をするうちに、少しずつ記憶や過去を遡れるようになっていくというお話。
ハンター役の男の子とナターシャキンスキーが可愛すぎたのでそれだけでも見る価値ありです。
主人公は自分のルーツでスタート地点となる場所に土地を買い、家族で暮らそうと決心するも妻を愛しすぎて心を壊してしまう。
妻もまた夫を愛し、若さゆえに子育てもままならない。
過ちを犯すことは誰にでもある事とはいえ、弟夫婦が2人を強く責めずに受け入れているのが素敵でした。
最後もあぁよかった、と安心して見終えることができ、独特の静かさと余韻が残る作品です。
弱い自分を認めた男の決別
トラヴィスは愛ゆえに自分をコントロールできない自分はいつか人を傷つけることに恐れていて、一方で子供は実の親と暮らすべきという考えも持っている。
ハンターとジェーンと暮らしたいが、2人を引き合わせて、本当は一緒にいたいが、離れる決断を下した。
自分勝手な行動に思えるかもしれないけど、自分の思い通りにならない自分のことも理解した上で2人のためを思ったその決断を支持はできないけど、そうゆう考えもあると思った。
何かと決別する話や決別する人の話をヴィムヴェンダースは描くけど、トラヴィスのような決別をした人が平山になるのかなぁとか思った
人は視覚的に制限された環境や不特定の人間相手だと正直になれたり上手く喋れたりするのは何故だろう。古くは懺悔室、今作の覗き部屋、今だとライブ配信アプリとか?社会的に関わりがある相手とは家族や友人であっても本当の話はできないのだろうか。
トラヴィスの悩みである人に期待しない無償の愛を与えるのは人には難しいのかもなと考えた。
ライクーダの音楽が最初は不安定さを演出する感じに聞こえたが、最後は決断した男を印象付けるブルースとして響いてきた。
ライ・クーダーの哀愁漂う音楽が善き
ロード・ムービーらしくないロード・ムービー。
そして、フランスのパリは全く出て来ない。ちなみに、題名になっているテキサス州のパリも全然出て来ない。
映画全体の雰囲気は、「ロート29」に似ている感じがするけれど、話しの内容が似ている訳ではなく。
淡々と始まり、淡々と進み、淡々と終わる。
あの結末で、母と子どもは幸せになるのだろうか。
継父と継母も(途中で完全に物語から消えちゃうけれど)幸せになるのだろうか。
ライ・クーダーの哀愁漂う音楽は善き。
主人公の妻役のナスターシャ・キンスキーがとってもキュートです。
面白い
タイトルなし
男と女、ままならない愛の果て
フランスのパリではなく、アメリカのテキサスのパリ。
荒野を彷徨い倒れた男が、元妻を探して旅に出る・・・。
ヴィム・ヴェンダースが撮ったロードムービーの名作・・・。
映画をジャンルで分類するなら、確かにこれはロードムービーだ。
大人と子供。男同士。果てしなく続く道路。車中で語り合い、ときに疲れて眠り、ときに荒れて酒を飲む。分かれ道。来た道を一旦引き返す。どこかで観たような画がでてくる。
しかし、どうやら、この旅路の果てにハッピーエンドは用意されていないらしい。8ミリフィルムの家族達をみて、そう確信した。
彼らにとって、幸せの頂点は、この8ミリ映画を撮ったときだったのだろう。もうそこには戻れない彼らがいた。
トラヴィスが彷徨い続けた闇から出て正気を取り戻し、ハンターと親子の絆を取り戻していく過程が淡々と描かれていく。道路の両側を歩調を合わせて歩く親子の姿は、微笑ましいシーンだ。
しかし、トラヴィスの心の闇はなかなか明かされない。彼は何を抱え、何を考えているのか。それは、「覗き小屋」という意外な仕掛けの中で一気に明らかにされた。
板で区切られた閉鎖的な小部屋の中で、1枚のマジックミラーを隔て、電話で会話する。今までの開放的な空間とは真逆の空間の中で語られる2人の過去。
この場面設定には、痺れた。お互いが心の内を語り合うのに、触れあうことはない。この空間は彼らのために用意された空間のようにすら思えた。
愛情というのは、やっかいなものだ。
相手にわかって欲しいと思ってもわかってもらえない。わかってもらえないと徐々に歪んでいく。一旦歪んでズレていった愛情はもう元には戻らない。
ハンターはどうなるのだろう。実の父と母に再会できた彼は幸せになるのだろうか。
赤いセーターのナスターシャ・キンスキーがとびきり美しい。まるで彼女は幻のよう。
ままならない愛は、ままならないまま終わり、男はまたどこかへ消える。
ライ・クーダーのギターのせいだろう。湿っぽさはない。
今も何処かにこんな男と女がいる。ただ、その想いだけが心に残った。
子どもが大人
おそらく、当時に観たほうが、
断然面白く感じたんだろうと思いました。
今の自分の年齢や進化した社会だと、
ストーリー的にうーん…て感じでした。
トラヴィスという困ったちゃんの大人の男と
ジェーンという若い女が結婚して、
男は女の若さと美しさに、いろいろ不安になって情緒不安定、
女は若すぎたからか、子どもを仲の良かった男の弟夫婦に預け去る。
まぁ、あるあると言えばあるあるなんだけど…。
なんだかなぁ…。
弟夫婦が良い人過ぎて、
後半は、ないがしろかいっ!てツッコミました 笑
ただ、音楽や全体の雰囲気や演出、ロードムービーなところ、
ところどころのセリフ(忘れたけど 笑)は良かったです。
でも、一番は、ジェーン役のナスターシャ・キンスキー!
小悪魔的なセクシー&キュートさの破壊力がハンパなく、
こりゃ、トラヴィスも不安になるわなぁ…でした。
男はつらいな
テキサス州のパリとの情報だけで、この映画を見た。
テーマは、孤独な人間の交差点。夫、トラヴィスは4年前に失踪し、妻はやむなく子供を夫の弟夫婦に委ねざるを得なかった。ところが夫がほぼ言葉を喪った状態で、テキサス州の荒野で見出される。
トラヴィスの妻だったジェーンをナスターシャ・キンスキーが演じ、20歳以上も歳の離れた夫トラヴィスが4年間の記憶を失っていた段階で、心の襞に触れてゆくような心理ドラマではなく、人間の存在そのものが問われる、これ以上ない厳しい映画と知れた。ましてや、日本のように、子供中心の家族劇ではない。舞台は米国だが、それぞれが孤独な魂を抱え、個人で生きているヨーロッパを思わせる映画。ロードムービーとは言え、米国映画のそれとは違い、旅に出ても、何かが変わるわけではない。
驚いたことに、映画の撮り方には、フランシス・フォード・コッポラの影響がある。仕切りのガラスが、マジックミラーにも、向こうが透けて見えるガラスにも、鏡にもなるところ(黒澤の影響もあるのかも)など。街の撮り方も、perfect daysを見た時、ソフィア・コッポラの映画と似ていると思ったけど、これも親父コッポラの影響か。
ナスターシャ・キンスキーは、マジックミラー越しのテレクラでは、この世のものとは思えないくらい美しかった。息子のハンターの面倒を見てくれているトラヴィスの弟ウォルトは、面倒見のよい米国人を象徴しているのか。不思議だったこと、フランスのことは何度も出てくる。表題も、ハンターの面倒を見てくれるウォルトの優しい妻アンは、フランス語なまりの英語を話すフランス人。ハンターが、ヒューストンで泊まっていた高層ホテルはメリディアン、おそらく独仏合作で、スポンサーのこともあったのか、ところがベルリンの壁、崩壊前のドイツのことは何も出てこない。ここに、ヴェンダースの葛藤があることが予期された。
記憶を喪ったトラヴィスが、ウォルト、アン、ハンターと共に暮らすようになってから、アンの靴を磨いて並べたり、自分で皿洗いを始めたりするところに、何とも言えないrealityがあった。彼の4年間の身過ぎ世すぎが伺われた。おそらく、救ってくれたドクターが予想していたように、交通事故か何かに遭って、高次脳機能障害を負ったのだろうけれど。
傑作である。ヴェンダースが若い頃作った他の映画も是非、観たい。
ロードムービーの原点ともいえる作品か
今年13本目(合計1,555本目/今月(2025年1月度)13本目)。
近くの映画館で復刻上映をやっていたので見に行ってきました。
今でこそロードムービーといえば色々な種類がありますが、黎明期であったのであろうこの作品のころは、本当にロードムービーをする「だけ」の映画か、それに一ひねりしている程度の映画というのが多いですが(過去作品をVODでみても)、本映画は基本的には単純なロードムービーを前提にしつつも、家族の愛について考える後半パートとの塩梅の良さが良かったといったところでしょうか。
実際、ロードムービーの映画は「純粋に」それだけだと本当に見るところがなくなるので(別にそれなら、グランツーリスモなりの映画でも見てればいいってことになる)、「なぜ車(なり、バイクなり、趣旨が似ても旅行するために一般的に用いられる乗り物含む)なのか」ということに加えて「その車などによる旅行で、主人公たちがどのような経験をするか」というのは大きなファクターで、この点が詳しく描かれていたので良かったところです。
採点に関しては特段差し引く要素まで見当たらないのでフルスコア扱いです。
かなりVODでも見られるようななのであまりネタバレはよくないな、ということでネタバレ回避で動いた部分もままあります。
幸福で美しく
全122件中、1~20件目を表示












