劇場公開日 1951年5月23日

「性器を持たない女性たち」白痴(1951) neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

2.0性器を持たない女性たち

2020年7月2日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル、VOD

『白痴』は、ハッキリ言って「失敗作」だ。しかし、深く掘り下げると、むしろ黒澤明という作家の本質が見えてくる。

黒澤の描く女性はどの作品をみても善良だ。本作でも出てくる女性は、正義感があり、純粋で、汚れていない。裏を返せば、女性の打算・ズルさ・肉体性・欲望といった部分を描くことができない。彼の描く女性には、女性器が存在していないのだ。

ナスターシャ(那須妙子)役の原節子は、愛人としての肉体的魅力、金銭の打算、葛藤、堕落と純粋の狭間で揺れる複雑な女であるはずだ。だが黒澤は、ナスターシャを「高潔に苦しむ清らかな女性」としてしか描けなかった。その結果、彼女の演出も、笑ってごまかすような「たか笑い」に終始してしまっていた。

おそらくは黒澤自身の"童貞的"高潔さがその原因だろう。黒澤はもちろん現実には結婚し子も持ったが、精神構造としては「中学生がそのまま大人になったような純粋さ」を持ち続けた監督だった。その純粋さは彼の最大の長所であり、同時に決定的な限界でもある。

この映画には、悪女が登場しない。もっと言えば、悪女が描けない。彼の女性像は、グラビアアイドル的な「肉体はあるが性は欠如している存在」に近い。『我が青春に悔いなし』の原節子にも、やや肉体的な演出はあったが、依然として「安全な範囲の色気」にとどまっている。AV的エロスではなく、少年漫画的エロスで止まっているのだ。

一方で、もしナスターシャ役に京マチ子(前作『羅生門』に出演)を配していたならば、もっと肉感的で打算的な、黒澤が描ききれない「悪しき女性性」が現れていただろう。しかし黒澤はあえて「永遠の処女」原節子を選んだ。黒澤の持つ武士道的なあるいは儒教的な貞操感がドフトエフスキーの持つ退廃的な魅力を阻害してしまい、その葛藤や矛盾が作品ににじみ出て、(編集での大幅なカットがあったにせよ)混乱した作品となってしまったのではないだろうか?

黒澤作品にある痛快さ、美しさは武士道や彼のもつ哲学性によるものだが、その儒教的道徳観・倫理的潔癖・理想的人間へのこだわりが邪魔して逆にある退廃・肉感的堕落・情欲の生臭さといったものは描くことができないのだ。

U-NEXTで鑑賞 (HDリマスター)
40点

↓2020年6月26日時点のレビューです
なぜか90点つけてしまっています。
「90点 原節子の切れた演技 黒澤の中では低評価か?」

neonrg
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