「映画愛と郷愁の情感溢れるイタリア映画の名作」ニュー・シネマ・パラダイス Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
映画愛と郷愁の情感溢れるイタリア映画の名作
20世紀も終わろうとしていた時代に、シチリア出身の若きジュゼッペ・トルナトーレ監督が脚本を兼ねて制作した、映画愛と郷愁の情感溢れるイタリア映画。時代背景は第二次世界大戦後間もないシチリアの小さな街で、娯楽の無い生活苦の中で老若男女問わず唯一の楽しみが映画を観ることだった。主役はフランスの名優フィリップ・ノワレの演じるアルフレードと撮影当時8歳のサルバトーレ・カシオ少年が演じたトト。この二人が演じる映写技師と見習い少年の師弟関係が、実の親子のように描かれるイタリア人情劇のクラシックに、題名になる映画館シネマ・パラダイスそのものがもうひとつの主役になっています。この32歳の監督トルナトーレが産まれる10年前の同郷の人たちを懐かしむ視線には、多くの古いイタリア映画を楽しみ学び、リスペクトしているのが分かります。陽気で明るく欲望に正直で情熱的な人たちに変なおじさんまでいると、フェデリコ・フェリーニやピエル・パオロ・パゾリーニの映画タッチを思い出してしまいます。そして映画を観て、泣き、笑い、時に怒り、興奮し、感動するイタリア人の飾らない姿をみて、映画館には国境がないことに気付くのです。映画の素晴らしさと、その虜になった一人の少年のほろ苦い人生を描いた名作でした。
ジャック・ぺランの演じる映画監督として大成した中年期のトトこと、サルヴァトーレ・ディ・ヴィータがアルフレードの訃報を受けて40年前を回想する導入部は、古典的な映画話法です。先ず司祭が管理していた映画館ではひとり最初に試写をして、アメリカ映画やフランス映画は勿論、自国のイタリア映画まで検閲して、男女のキスシーンや女性の肌の露出があるフィルム部分をカットするエピソードが面白く、時代をよく表しています。司祭が鐘を鳴らしアルフレードが巻き付けられたリールのフィルムに紙を挟む。作品はジャン・ルノワールの「どん底」(1936年)で、ジャン・ギャバンとルイ・ジューべの名優二人のゴーリキー原作の文芸映画。貧しい人たちの暗い話でも男の友情物語が熱いルノワール監督の救済の映画、これを最初に持ってきたトルナトーレの映画愛がいい。続いてジョン・フォードの「駅馬車」(1939年)の予告編からレジスタンス活動のニュース映画で時局を表し、ルキノ・ヴィスコンティ監督のネオレアリズモ映画「揺れる大地」(1948年)とサイレントの「チャップリンの拳闘」(1915年)の二本立ての上映会。「揺れる大地」はシチリア島を舞台にした貧しい漁民一家の物語で、本土のイタリア人では理解しにくい方言の台詞で現地の人が出演した厳格なるドキュメンタリー的リアリズム。イタリアには貧富の差の南北問題があり、他のイタリア映画で数多く扱われています。その劇中で印象深いのは、大してお金にならない大量のイワシをきつい塩漬けにするところ。そんな網元に搾取される漁民の貧しさを子供から大人まで真剣に観ているのに、若い男女のラブシーンになるとキスシーンが飛んでしまいブーイングが館内に響きます。映画の楽しみ方は人それぞれですが、チャップリンで館内笑いが止まらないのは世界共通でした。ここまで、ルノワール、フォード、ヴィスコンティ、チャップリンと如何にこのトルナトーレ監督の映画愛が正統派であるかが分かります。映画館の二階席が特権階級専用に隔離されているのも、この時代の特徴として面白可笑しく描くトルナトーレのコメディタッチで楽しめます。
トトは映画好きの悪戯っ子でアルフレードと口喧嘩が絶えないですが、子供のいないアルフレードは優しく接してくれて、いい相談相手になってくれる。しかも、夫がロシアに出兵して戦争が終わっても音信不通で心配が続く母マリアは、2人の子供を抱え生活に追われ、問題を起こすトトに八つ当たりしている様で切なく、次第にアルフレードが父親代わりになる流れは自然です。トトの友だちペッピーノの家族が新天地を求めドイツに渡るエピソードでは、アルフレードが「越境者」(1950年・未見)と同じと語ります。これは「鉄道員」のピエトロ・ジェルミ監督の出世作となったネオレアリズモ映画で、シチリア島で職を失った坑夫たちがフランスに不法移民する物語でした。アルフレードが教育を受けず10歳から映写技師になった半生を振り返り、トトに故郷シチリアを離れろとしつこく言い聞かせるのは、故郷を舞台にした映画や色んな外国映画を観てきたアルフレードなりの想いでした。そして、ニュース映画を観ていたトトがロシア戦域軍に関する国防省発表の悲報を知って、削除しようとするシーンが泣かせます。これは、ビットリオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」で描かれたと同じく、長い間行方不明としてきた国防省の不手際もあったのでしょう。役所から出てくる母とトトのカットで繋いで、役人の遺族年金の説明の台詞を重ねる基本的な映画表現がいい。気丈に振る舞ってきた母マリアが抑えきれず泣くのを見詰める、トトの無邪気な顔を捉えたカット。おしゃべり好きなイタリア人が言葉を発しない、映画ならではの表現でこの母子の心が伝わります。
この映画のラストの怒涛のクライマックスに匹敵する名シーンが、当時の喜劇スターが主演する人気作品に押し寄せる観客が広場にはじき出されて、アルフレードが機転を利かせて取った野外上映の場面です。フリッツ・ラングの「激怒」(1936年・未見)のスペンサー・トレイシーの台詞“群衆は愚かになる。何も見えない”と言いながら、映写室の小窓にあるガラスを調節して、広場の向かいにある白い家の壁に映し出されてスクリーンが現れる。何て映画愛に溢れた素晴らしいシーンでしょう。アブラカダブラ、(動け写真)、音楽が鳴りゆっくり画面が流れるように移動して収まる。このシーンだけでトルナトーレ監督が大好きになってしまいます。しかし、禍福は糾える縄の如しで、昔の硝酸セルロースのフィルムは燃えやすく、自然発火もありました。妹のベットの下に仕舞ってあったトトのフィルムが燃えてしまう伏線があって、唐突感を感じさせません。燃える映写室の壁にある、バスター・キートンとエリッヒ・フォン・シュトロハイムのポスター。サイレント映画時代のこの巨匠ふたりを選んだのは、全盛期が短く早くに忘れられてしまったことへのトルナトーレ監督の映画愛に思えてきます。この火災事故により失明してしまったアルフレードですが、命の恩人となったトトとの関係は更に深いものになっていきます。
焼け落ちたシネマ・パラダイスを前に絶望の底に落とされるアデルフィオ神父と村人たち。でも捨てる神あれば拾う神ありで事業に成功したスパッカフィーコが新しい支配人になって、新館完成のパーティが開かれる。この雰囲気の何という幸福感でしょう。新しい時代を迎え映画も変わっていく。上映作品はシルヴァーナ・マンガーノ出演の「アンナ」(1951年・未見)。見習い修道尼のマンガーノが恋人ラフ・ヴァローネと情夫ヴィットリオ・ガスマンの間をよろめく三角関係のドラマ。ガスマンがマンガーノの背中にキスをして観客がどよめき、2人のキスで拍手喝采となる。アデルフィオ神父がポルノ映画と怒るのも無理もありません。見所はマンガーノが過去にキャバレーで扇情的に踊っていたシーンで、『El Negro Zumbon/騒めく黒人男性』の曲はアメリカでも大流行したと言います。歌と踊りとエロスは、平和の象徴でもある映画の世界。そこに現れるアルフレードがトトの顔を撫でると青年役のマルコ・レオナルディ(17歳)が現れる。トトが年頃になって上映されるのがロジェ・ヴァディム監督のカラー映画「素直な悪女」(1956年)で、全裸で横たわるブリジット・バルドーの美しい肢体が男たちを魅了する。如何にもイタリア映画らしい率直な表現の可笑しさ。この時期可燃性だったフィルムが安全なフィルムに替わり、アルフレードがもっと早く開発されていればと悔やむシーンを挟み、トトは8ミリ撮影に夢中になって、偶然に運命の人エレナに出会う。映写室で8ミリ上映するトトの様子から、何が映っているか気付いて、恋の指南役になるアルフレードは、まるで映画を語るようにトトにある昔話を教えます。眼が不自由になったアルフレードは、脳裏に焼き付いた映像を思い浮かべていたのでしょう。その結末を語らないのがいい。ここで紹介される「Catene/絆・Chains」(1949年)のエピソードもまた面白く感動的でした。この映画はイタリア人の8人に1人にあたる600万人が観たメロドラマの大ヒット作の様です。二つの映画館をフィルム缶が何度も往復して上映するほど観客に求められ、イタリア人の琴線に触れるお涙頂戴映画。子供たちはつまらなそうでも、大人たちは涙が止まらず真剣に見入り、アルフレードも妻から解説を聴きながら観ています。可笑しいのは、もう何度も観て全ての台詞を覚えたオジサンが登場人物が言う前に話しながら涙を流すところ。そしてトトがアルフレードから聴いたアプローチを実際に真似てエレナの家の前に何日も通い、100日目の大晦日の夜、反応が無く諦めて家路につくシーンの花火の美しさが、よりトトの落胆を印象付けます。そこから紆余曲折あって、夏の熱さから臨時に野外で上映される一本が、カーク・ダグラス主演マリオ・カメリーニ監督の「ユリシーズ」(1954年)。雷雨の中パレルモ大学から帰って来たエレナが突然トトに覆い被さるサプライズシーンも、余りにも映画的です。しかし、エレナの両親の反対があってか、2人は結ばれず、故郷を去りローマに行くことになる別れのシーン。ありふれて同じようなシーンをいくらでも観ているのに、こんなところにも映画の良さがあると実感してしまいました。
30年振りに故郷に帰り、アルフレードの棺と共に教会に向かう途中の広場で、想いでのニュー・シネマ・パラダイスが朽ち果てた姿を見る辛さ、主人公でなくとも胸が詰まる思いに掻き立てられてしまいます。映画館と共に懐かしい人たち。スパッカフィーコ支配人の言葉、“テレビにビデオ、映画は過去の遺物です”が更に胸を締めつけます。それは今振り返ると、この時代の1980年代に古い映画が終わり、映画の形が変わったことを意味しています。実際映画は今も私たちに新しい映画を提供していますが、映画以外の娯楽が増え、その中の一つになってしまいました。皆が見守る中で壊されるニュー・シネマ・パラダイス。
アルフレードの妻から預かった遺品の一缶のフィルムを持ってローマに帰ったトトが、試写室でひとり観るラストシーン。それはシネマ・パラダイスでカットされたキスシーンをまとめて編集したトトの為の特別版でした。キスのワンカットで走馬灯のようにその映画が蘇る興奮と懐かしさ。トトが微笑みながら感無量になるのを見て、観客は全ての作品を知らなくても感情移入してしまいます。それは映画をこよなく愛する人なら分る、この共鳴性こそ映画の素晴らしさだからです。映画を好きでいて本当に良かったと思わせてくれる名ラストシーン。
そして、イタリア映画界を支えたエンニオ・モリコーネの音楽が、この名作を更に感動的にしたことは間違いありません。ニーノ・ロータ、カルロ・ルスティケッリと名匠の多いイタリア映画の作曲家の中で長きに渡り、数多く手掛けた巨人でした。鑑賞した作品では「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」などのマカロニウエスタン、「シシリアン」「殺人捜査」「わが青春のフロレンス」「死刑台のメロディ」「アラビアンナイト」などが印象に残ります。好きで選ぶと、この作品と「わが青春のフロレンス」「死刑台のメロディ」勝利への讃歌の三作品です。
Gustavさん、なんて素晴らしいレビューを書いてくださったのでしょう。普通の人達にとって唯一の楽しみで笑いで興奮で幸せのもとだった映画。映画を愛し映画のプロでもある映画監督と、映画史も個別の映画にも詳しくないけれど映画が大好きな観客=私達を結びつけてくれたGustavさんのあたたかい文章で、幸せな気持ちになりました