劇場公開日 1970年10月31日

「壊れたままでも回り続ける人々」どですかでん neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0壊れたままでも回り続ける人々

2016年2月22日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

『どですかでん』は黒澤明にとっての転換点であり、それまでの作家性に対する決別でもあったように思います。

白黒にこだわっていた映像表現を捨て、初のカラー作品として挑んだ本作には、「執着を手放す」という意思が感じられます。『赤ひげ』では特に顕著だったのですが、これまでの作品で見られた“こう生きるべきだ”というメッセージを捨て去り、明確な答えを提示しない「問いの映画」へと移行したのではないでしょうか。

さらに、本作で黒澤は、これまで自身が最も得意としていた「多重構造」をすべて捨て去りました。娯楽性(チャンバラ、サスペンス)、社会性(倫理、体制批判、人間関係の階層)、哲学性(存在とは何か、死とは何か、正義とは何か)の三層構造は剥ぎ取られ、残ったのはコアそのもの──剥き出しの「生」だけです。これまでは観客に届くために幾層もの構造を積み上げてきた黒澤が、その全てを一度捨て去り、裸のまま「私自身とは何か」という剥き出し問いに挑んだのです。

黒澤は自分自身を解き放つために、再構築するために、自分の“お得意”を全部捨てたのです。そして、その結果、多重構造をやめ、「問いの映画」に徹したからこそ、観客は何を見ればよいのかわからなくなり、置いていかれてしまいました。

この映画には、明確なプロットもなければ、登場人物の成長もない。あるのは、壊れたまま回り続ける人々の姿と、そこに漂う虚無を埋めるための自己欺瞞、そして、それでもなお生きるという意思です。とくに、伴淳三郎演じるシマさんとその妻との関係性は、まさに「壊れてなお止まらない関係」を体現しており、愛と呼ばれているものの実態が、すでに終わった過去を支え続ける行為にすぎないという、人間存在の残酷さ、自己欺瞞を突きつけてきます。

黒澤明は“秩序”や“論理”の中で進められてきた作家人生の果てに、本作でようやく今まで描けなかった「無秩序そのもの」を描くことができたのではないでしょうか。どうやっても整然としてしまう、きちんと見せてしまうという能力のために一度自分自身を放棄する必要があったのだと思います。そこで描かれるのは、混沌(カオス)とは違う。もっと静かで、透明で、冷たく、それでいて深く沁みてくる“虚無の秩序”です。

しかし、その結果、興行的にも失敗し、「よくわからない作品」「難解」として距離を置かれてしまいました。その結果、自殺未遂まで起こしてしまいます。ここまで自分をさらけ出して、自分の持っていたすべてを捨てて、勝負したのに評価されなかった黒澤監督の心中を考えると、その絶望は、想像を絶するものだったはずです。

この作品は「黒澤明にとっての回心」であったと思います。『天国と地獄』で映画としての完成形を作ってしまい、『赤ひげ』で“答え”を提示し尽くしてしまった彼は、もはや進むべき道を失っていたのではないでしょうか。だからこそ、この作品では答えを提示するのをやめ、問いだけで構成するという形式へと踏み出したのだと思います。そこには観客に媚びる姿勢は一切ありません。ただ、全ての執着を手放し、委ねるという姿勢だけがあるのです。

頂点に立ち尽くした男が、なお創作を続けるために、一度すべての執着を捨て、委ねることを選んだ。その選択があったからこそ、彼はのちに『影武者』や『乱』といった作品で、再び巨大な構造物を築くことができたのでしょう。いったん壊すことでしか、真に構築し直すことはできない。

『どですかでん』の登場人物たちは、全員が“壊れた現実”の中で、どうにか形だけでも回し続けるために、今日を生きています。彼らの“壊れたままでも回し続けなければならない人生”と黒澤明の"生き方"にどこか重なるものがあるのではないでしょうか?

U-NEXTで鑑賞 (HDリマスター)

96点

neonrg
PR U-NEXTで本編を観る