トリコロール 青の愛のレビュー・感想・評価
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作曲家の夫との間に幼い娘を持つジュリー(ジュリエット・ビノシュ)。...
作曲家の夫との間に幼い娘を持つジュリー(ジュリエット・ビノシュ)。
ある日、三人が乗った自動車が事故を起こし、彼女は一命をとりとめたが、夫と娘は死んでしまった。
失意の中、田園地帯の広大な邸宅を処分し、パリのアパルトマンでの新しい生活をはじめることにする。
が、亡くなった夫のパトリスは著名な作曲家であり、欧州統合の祝うための協奏曲を作曲中だった。
パトリスの協力者であったオリヴィエ(ブノワ・レジャン)は、作曲中の協奏曲のことが気になり、処分前の邸宅でパトリスの机を漁り、創作メモを記したノートや写真などを持ち去ったが、肝心の協奏曲の譜面がない。
ジュリーが予め処分していたのだが、破棄したはずの協奏曲の譜面は写譜技師が密かにコピーを取っており、それがオリヴィエの手に渡る。
未完の協奏曲の後半は、創作メモに基づき、オリヴィエが完成させるとテレビで公表するが、その際、映し出された写真のなかには、パトリスが見知らぬ女性とともに撮られた写真があり、映し出された笑顔から、ジュリーは彼女がパトリスの愛人だと気づく。
会ってみると、彼女は彼の子どもを身ごもっている・・・
といった内容で、ひとびとの思いがそれぞれに交差する物語は、キエシロフスキー版『愛と哀しみのボレロ』といった趣でもある。
ま、舞踏がなく、協奏曲に「祈り」のような合唱が盛り込まれているので、こちらの方が辛気臭いといえば辛気臭いが。
キエシロフスキー監督作品では時折びっくりするような映像表現が用いられるのだが、本作でも登場し、ジュリーが引っ越した先のアパルトマン近くのカフェで時間を過ごすシーンは、カップの影が長く伸びるのをワンカットで撮っていたりする。
加えて、主人公の心の変容を描くのに、協奏曲の一節も持って来、同じカットで溶暗・溶明するという技法も使われ、かなりの効果をあげている。
(心の変容だけでなく、彼女が夫の作曲に大いに関わっていたという暗喩でもあろう)
また、よぼよぼの老婆がガラス瓶の分別箱に瓶を捨てるショットは、老婆の動きが遅く、その上、捨て口が老婆の背丈以上のところにあってなかなか投入できないシーンがある。これはコミックリリーフの役割なのだけれど、人生のもどかしさの象徴でもあろう。
(このエピソードは三部作でかならず挿入されている)
ジュリエット・ビノシュが得意とする、無表情で辛気臭い演技は、おそらく本作で確立されたのではありますまいか。
合唱が圧巻
トリコロール一作目なのに、赤、白、の後、最後に観てしまった。個々の作品は独立しているので、順番は関係ないが、登場人物が他の作品にちょこっとゲストのように出演する。白の時も、離婚裁判中に突然入ってきた女性が、なんで入ってきたかわからなかったが、青の主人公でありちゃんと理由があった、と後になってわかった。逆に、青から観たら、離婚裁判が次につながると後でわかる仕組み。ただ、赤の登場人物の関わりは、どこだったか、よくわからない。裁判の判決?
ジュリーは高名な音楽家の妻だが、交通事故で夫と娘を亡くしてしまう。体も心もボロボロに傷つき、それでもひとりアパートを借りて生活を始める。夫が完成させられなかった交響曲の一節が、時たまジュリーの頭の中で鳴る。どうやらジュリーも音楽に造詣が深く、作曲ができるようだ。そして、夫には恋人がいた…。
ジュリーと夫の友達で、曲を完成させるところが、なんかすごい。音楽家の仕事を垣間見る感じで、お得な気分。ラストからエンドロールでその曲が流れるが、合唱のパワーがすごく強い。エンドロールで交響曲の演奏が、シンフォニア・ヴァルソヴィアとあり、調べたらポーランドの交響楽団だった。なるほど、監督がポーランド人だもんね。なんか聞いたことあるな、と思ってたら、ラ・フォル・ジュルネで来日したことがあったので、その時に耳にしたみたい。演奏を聴いたかどうかは…記憶にない。とりあえず、主人公より、ストーリーより、一番雄弁だったのは、音楽だった。芸術は長く、人生は短い。
BS松竹東急の放送を録画で鑑賞。
十字架のネックレス
喪失感に苦悩し、もがいて生きる作曲家の妻ジュリーをジュリエット・ビノシュが演じる。シックな映像が美しい。
雨の夜ジュリーがとった行動は、どうしようもない寂しさを埋める為か…。
授かった小さな命が、ジュリーの心の支えとなりますように。
BS松竹東急を録画にて鑑賞 (字幕)
「蜘蛛は哀しみを編むもの」。
「蜘蛛は哀しみを編むもの」。あるおとぎ話の一節だ。哀しみを編んでくれる蜘蛛がいないと、その家の子供が泣き虫になる。本作を見て、この物語を思い出した。本作の哀しみを編むものは蜘蛛ではなく「音楽」。偉大な現代作曲家の夫と娘を事故で失ったヒロインの身体の中には、夫の遺作となった未完の交響曲が凝っている。しかし、彼女は哀しみと向き合うことを恐れ、その曲を封印してしまう。何もかも忘れるため、パリで新生活を始めた彼女だが、ふとした瞬間に体内に流れるあのフレーズ。どんなに封じこめようとしても溢れ出す哀しみ・・・。キェシロフスキ監督作品の根底に漂う「静かな哀しみ」。特に本作ではその悲しみが青という色で視覚的にも見事に表現されていて、とても切ない。しかしその切なさが妙に心地よく、泣き叫ぶ絶望ではなく、音もなく静かに流れる涙のように、泣くことによって心が優しくなる癒しの哀しみなのだ。哀しみを抱えた者には、同じく哀しみを抱えた者が寄ってくる。それは一般的な友人とは違うかもしれない、真夜中に電話で起こされて理由もいわず「すぐ来て」というムチャな要望に黙って応えられる(そして決してその理由を自分からは問わない)同じ「哀しみ」を持つ同士のようなものだ。人とのコミュニケーションを拒絶したはずが、知らず知らずのうちに新しいコミュニケーションが生まれ、彼女はついに自分の心の中の哀しみを解放する。その美しい音楽は、彼女の新しい希望ある人生を祝福するかのように溢れ出す。哀しみを編む音楽を解放してあげなければ、泣くこともできず苦しいばかり。つまり哀しい時にはその哀しみに素直に向き合わなければ、次の新しい人生(ステップ)に踏み出せない。家に住む蜘蛛を殺してはいけないように、心にある音楽は封じ込めてはいけないのだ。
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