父ありきのレビュー・感想・評価
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それでも父を思うこと
1942年。小津安二郎監督。金沢の中学校教師は小学生の息子と二人暮らしだが、修学旅行で生徒が事故死したのをきっかけに教師を辞めて信州上田へ。そこから一念発起して息子を寄宿舎に残し、東京で仕事を探すことに。以来、高校、大学と離れて暮らす父と息子だが、息子は父と一緒に暮らすことを望み続ける。大学を卒業して秋田で教師をする息子が兵役検査に合格したとき、父は肩の荷を下ろした気分でほっとするが、同時に、病に倒れてしまう、という話。 父を思い続ける息子というのは、どうしても、戦後になって父を思い続ける娘(原節子)を描いた「晩春」を想起してしまう。父親が子供の幸せを願いながら、一緒に過ごすことよりも自分とは離れても理想的な幸せを追い求めてほしいと願う様子も同じだ。だから、つれなくされている子どもたちからの父への想いが根拠のない一方的なものに見えてしまう。というかそのような成就されない感情のもつれを描きたいのだろう。 戦後のGHQによる検閲で失われた数分間のうち、ロシアで発見されたプリントから復元したというものを加えた2023年版。まだ削除部分が数か所あるが、だいたいわかる程度にはなっている。笠智衆の詩吟がことのほかうまくて驚く。
人間は誰だって分がある。その分を守らにゃならん。
「生誕120年・没後60年記念 フィルムでよみがえる――白と黒の小津安二郎」で上映の一作。古いので画質が悪いのは仕方がないとしても、どうしてもセリフが聴きづらい。これだって精一杯なのだろうけど、話がみえないは困るなあ。でも、そこを我慢すれば笠智衆の若かりし姿はむしろ眼でさえあるし、昔の風景には癒しさえ感じる。そして、言葉は何割か聞き取れないにしても、この父子の深い愛情が画面から染み出ている。その時間を味わうだけで、十分に満足感があった。
今はなき世代の滑稽さ
早くして鬼籍に入り記憶が少ない父を思い出しながら鑑賞、どこか無器用で取り留めのない印象が強かったように記憶していますがこの映画であの世代に共通する思考が分かった気がした淡白に見える親子関係でも意味を見いだしていたのかな、申し訳ないけど仕事を大人の言い訳にしているようにうつりましたそんな思考はどんなに取り繕うとも出来の悪いお手本に過ぎません、かなり偏見が有る意見とは思いますが実感なのです。
【”礼節ある作品。”父は息子を想い、息子は父を慕い気遣う。教え子は教師を大人になっても敬う。今作には、近年の日本人が忘れつつある”礼節を貴ぶ。”という思想に満ち溢れているのである。】
ー 今から80年以上も前の作品であるが、鑑賞後の気持ち良さは何とも言えない。それは登場する教師であった堀川(笠智衆)が息子良平を幼き時から大人になっても大切に想い、良平も父を慕う姿である。 更に言えば、中学時代の教え子たちが大人になっても堀川や平田を慕い、集い、感謝の言葉を捧げ、二人も大人になった彼らの姿を誇らしく、嬉しそうに見ながら酒を酌み交わす姿も良い。 今作には、近年の日本人が忘れつつある”礼節を貴ぶ”という思想に満ち溢れているのである。ー
戦時中でありながら、密やかな反戦映画だったと思います
1942年4月公開 戦時中の公開作品です 前年12月の真珠湾攻撃、明けて1942年の2月には難攻不落といわれたシンガポール要塞がわずか10日で陥落していました ミッドウェー海戦の大敗北はこの年の6月のことで、まだ2ヶ月先です 本作公開時点では、まだ日本軍は破竹の勢いだったのでした 本作公開時点では、日本が焼け野原になるような、悲惨な結末になるとは誰一人想像もしていなかったでしょう 本作は父と息子の愛情物語です どこをどうみてもそうです しかし、自分には密やかな反戦映画にみえました 「父ありき」 過去形であることに留意したいと思います 本作は戦時中の公開なのに戦争の影はまるでありません おそらく1937年の日華事変以前の記憶を1942年の現在思い返しているという構造の映画なのだと思います それが「父ありき」と題名が過去形である意味だと思います 冒頭の良平が子供のシーンは1920年頃 息子は10歳、父周平は35歳程にそれぞれみえます 中盤以降の息子が25歳のシーンは1935年頃と思われます 父は50歳になった頃でしょう なので1942年の公開時点で息子は30歳くらいになっていることになります 自分には、本作は1942年の時点で息子良平がこの映画の全編の内容を回想しているというものだと思えるのです そんなシーンは一切無いのですが、1942年の時点では、息子にはもう子供ができており小学校に上がろうかという年になっていると思われます つまり、映画の冒頭のシーンの父と息子と年齢とほぼ近いのです 小津安二郎監督は、1903年東京深川生まれ 1913年、10歳の時に父母の郷里の三重県松阪市に母・兄・妹2人・弟の5人で戻ります 田舎のもっと環境の良いところで子供を育てたいということだったそうです 小津監督の父、小津寅之助は松阪と仕事のある東京で半々の生活になったそうです まだ幼い小津監督にとっては、随分寂しいことだったと思います その父は1934年に64歳でお亡くなりになっています 小津監督が31歳の時です それが本作にそのまま投影されているように感じられるのです とすると本作の終盤のシーンは1934年のことなのだと思います 本作劇中の息子は25歳の設定ですが小津監督の31歳の時の自身の投影なのでしょう こうして小津監督は10歳から松阪市で青年に成長するのですが、映画にかぶれてしまい受験に2度も失敗していまいます 致し方なく、友人の紹介もあり1922年19歳のころ尋常高等小学校の代用教員を1年勤めました 5年生48人の組を受け持ったそうです つまり父の教員の姿は小津監督自身の記憶が反映されているのだと思います もうひとつ 小津監督の軍歴です 当時の日本は徴兵制です 20歳から当時は3年間の兵役がありました ただ小津監督が20歳の当時は戦争の無い平時だったので、徴兵検査を受けた2割程しか実際に現役兵として徴兵されることはなかったそうです なので小津監督も幸いに徴兵されていません しかし1924年12月に21歳になった小津監督は一年志願制度を利用して東京青山の近衛連隊に入営します 一年志願兵制度とは、軍隊在営中の食費・被服費・演習消耗品費等を入営者が負担することによって, 現役としての在営期間3年間が1年に短縮され、現役期間が終ると予備役の将校または下士官に任命される制度のことです この一年志願兵制度は、結構お金がかかりそうですが、これを利用すれば かなり有利な条件で兵役の実績を残こすことができるのです しかしこの制度は1927年に徴兵制の制度変更がなされ廃止されてしまいます 徴兵制の法律の大きな変更ですから、一年志願兵制度の廃止は多分早くから国民に周知されていたのだと思います なので廃止される前にと駆け込みで志願したのだと思います なので実家が裕福な小津監督は廃止されるまえに駆け込み志願したのだと思います ところがこれが裏目にでます 1925年12月に22歳で除隊になり、松竹蒲田撮影所に戻ります 1927年23歳で監督に昇格して初めての作品を撮影中、なんと予備役の演習召集を受け郷里の三重県津市の陸軍歩兵第33連隊に入営させられてしまったのです そのため初作品は他人が引き継いで完成させることとなり、本当は自分の初作品だった映画を入営中に一般人として映画館で見る羽目になっています 演習召集ですから1ヵ月程度の事だったようですので随分悔しい思いをしたと思います さらに29歳の1933年秋にも1ヵ月ほど歩兵第33連隊に予備役で入営しています それも恐ろしい毒ガスを扱う訓練だったようです こうした小津監督自身の軍歴が本作に反映されているように思えるのです つまり、自分のように予備役下士官としてではなく、20歳で兵隊に取られ一兵卒として戦地に送られる、かっての教え子達が監督の脳裏にイメージされていたと思うのです 代用教員だったのは20年前 あの時の教え子たちは1942年の今は31歳になっているでしょう 宴会でのシーンで、父は結婚している人?子供のいる人?二人いる人? と挙手させています 彼らが戦地にいくのだ それを小津監督は恐れているのです そして本作撮影時は39歳でした 小津監督は生涯未婚でしたから、子供はいません しかし、代用教員の時に受け持った子供達がまるで自分の子供のように感じられていたことでしょう しかも劇中父周平の死を1934年と仮定したなら本作の8年前であり、小津監督が31歳の時だったのです 成長した息子良平には、39歳の小津監督自身も投影されているのだと思います この代用教員と予備役召集の二つの記憶が本作の父と息子双方に投影されていると思うのです 序盤の修学旅行先の湖は芦ノ湖 そこでの生徒の事故死に責任を感じて父は教師を辞めます 同僚の平田先生は、あなたに落ち度は無かったのだからと慰留しますが、父は辞職の本当の理由を怖くなったからだと語るのです 大勢の子供達の命や将来を預かることのが怖くなったのだと この言葉にこそ、本作が戦時中に撮られた意味が潜められていると思いました かっての教え子達を兵隊にとり、戦場に送り出す それが怖い、自分にはとてもできないと言っているように聞こえるのです 耐えられないことだと聞こえるのです 1942年の現在において、過去の回想をしている息子良平のシーンは一切ありません 自分が考え過ぎなだけかも知れません しかし、本作をすべて良平の8年後の1942年時点の回想だと捉えるならば、召集令状を受けて次々と戦地に送り出されていく教え子達を見ていられないのだという意図で撮影された作品のように見えてくるのです 自分には本作の構造はそのような反戦の意図で作られていると思えてなりません その後、小津監督は本作公開1年後の昭和18年1943年6月に陸報道部映画班員としてシンガポールに空路向かいます 戦意高揚映画を現地で撮る為でした しかし戦況悪化で撮影できず、結局当地で一番の高級ホテルに滞在して英国人が残していった沢山の洋画を終戦まで観て過ごす日々を送りました 戦後は収容所に入れられ帰国できたのは1946年2月でした 戦後第一作「長屋紳士録」は1947年5月の公開でした カメラマンは厚田雄治 本作の2作前の1937年の「淑女は何を忘れたか」から、小津監督の作品のすべてを撮影した名カメラマンです ただ一作大映で小津監督が撮った「浮草」だけが例外です それは宮川一夫が担当しました 茶の間の風景をローアングルのカメラで撮影する映像が確立されています 背景は左右に障子て切り分けられていてそこを登場人物が出たりはいったりします ちゃぶ台の高さか障子の桟の下から一段目とピッタリ一致させてあります しかもその天板のしたの台の縦の線がまた障子の縦の桟とピッタリと一致させてあるのです さらにちゃぶ台の足は障子の外枠の線と完全に一致しているのです これだけでなく、気になって注意して見つけようとするといくつも高さが一致するような映像がごろごろしています 口悪くいうと偏執的といいましょうか、ものすごいこだわりです しかし、それが美をもたらすのです 美しいと感じる快感をもたらしているのです もちろん小津監督の指示によるものでしょう この監督のこだわりの意図を的確に理解して、フィルムに残せたのは厚田雄治のカメラの腕なのだと思います 美術品と覚しき香炉を前景に配して独特の間を作る映像を挟む様式も確立されています 戦後の作品に何度も登場する東京の丸の内のビルの映像も登場します 構図も全く同じです 蛇足 劇中の父と二人で行った温泉は塩原温泉だそうです
日本人の美しい感情
Amazon Primeで鑑賞 小津安二郎監督の映画は、何て美しいのでしょう。 そして、小津安二郎監督の映画は笠智衆さん、佐分利信さんをはじめ、俳優の純粋な演技がヒシヒシと伝わってくる。 繊細であり美しい、日本人の日常。好きだ。 日本人で良かった。
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