「「見えないもの」を宿らせる器」カリスマ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
「見えないもの」を宿らせる器
ロベール・ブレッソンというフランスの監督がいる。役者に演技を禁じるという特異な方法論によって広く知られる監督だ。なぜ彼は演技を禁じるのか。演技には、演じる者の個人的な経験が否応なく反映されてしまうからだ。
彼は個人的な経験に縛られた役者のことを「俳優」と呼んで嫌厭した。一方で自我を忘却し、機械のように自動運動automatismeすることができるようになった役者を「モデル」と呼んだ。
なぜ「俳優」ではなく「モデル」であるべきなのか?
ブレッソンが目指したのは、映画それ自体を「受肉incarnation」の媒体とすることだった。ここでいう「受肉」とは「見えないもの」が「見えるもの」に宿ることだ。ブレッソンは敬虔なキリスト者としても知られる。彼は映画という「見えるもの」に神という「見えないもの」を宿らせようと試みた。
要するに映画は神の宿る器だということだ。そして映画に誰かの個人的な経験、つまり「自己」が混入している状態というのは、要するに器が汚れている状態であるといえる。
したがってブレッソンは「自己」によって「受肉」の可能性を絶ってしまう「俳優」を拒絶し、自動運動に徹することのできる「モデル」を歓迎する。これらが実践の水準において「役者に演技を禁じる」という指示として表れているというわけだ。
ブレッソン論はこの辺に留めておくとして、本稿で着目したいのは、彼が映画を「見えないもの」の宿る器であると考えている点だ。
ここでようやく本作の話に入ろう。
本作の特徴を一つ挙げろと問われたならば、それは決定的に動機が欠如していることだ、と答えたい。
なぜ彼は森の中にやってきたのか?なぜ彼らは木を切ろうとするのか?なぜ街は崩壊したのか?それらの動機が示されることは終ぞない。
論理的で一貫性のある物語を紡ぐことが映画の絶対条件である、と信奉している者にとって、本作は駄作以外の何物でもないだろう。
さて、それでは黒沢清は本作で(というか自分自身の作家人生の中で)何をしたかったのか?おそらくそれは「見えないもの」を映画という「見えるもの」の中に宿らせることなのではないか。つまりブレッソンと同じである。
ぶっきらぼうな棒読みでうつらうつらと画面を漂っていく本作の登場人物たちは、思えばどこかブレッソン映画の自動運動する「モデル」たちとオーバーラップする。
つまり器だ。何らかの「見えないもの」を宿らせるための器。ブレッソンの場合、それは神であったが、黒沢の場合はどうだろう。思うにそれは、悪意や怨念といったものだ。
悪意や怨念は目に見えない。かといってそれを役者の演技の水準で具現化させようとしても、所詮は小手先の偽装工作にしかならない。そこで黒沢は空っぽの器としての役者を用意する。そこに悪意や怨念を呼び込む。
さて、彼のこうした試みは成功を果たしているといえるだろうか。劇中の暴力描写を見ていけば答えは明らかだ。引き金を引くとき、木を切り倒すとき、ハンマーを振り下ろすとき、役者たちは一切の個人的経験(=「自己」)を担っていない。そこには純粋な暴力だけが剥き出しに発露している。
そしてこの視覚化された暴力こそが、悪意や怨念と呼ばれるべきものであることは言うまでもない。
一応は映画の資本商品としての側面との折り合いを模索しているように思える『CURE』や『回路』のような作品に比べ、本作はマジでやりたいことをやりたいだけやったという感じがして清々しい。
一方、こんなもん撮った人間に今なお次から次へと仕事が回ってくる映画業界というのはやはり今なお権威主義を克服する気が一切ないのだな…とも。