劇場公開日 2000年4月22日

「惨憺たる出来のデビュー作」ヴァージン・スーサイズ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

1.5惨憺たる出来のデビュー作

2023年9月15日
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ソフィア・コッポラは『ロスト・イン・トランスレーション』や『SOMEWHERE』が割と気に入っていたので初期作品も見ておこうと思い鑑賞。同じ監督が撮ったとは思えないほど不快だった。

とにかく映像が酷い。当時のアメリカ映画にお決まりの文法をバカ正直にそのまま流用しているだけな印象を受ける。ショットはポップネスのためだけに好き勝手切り刻まれ、並べ立てられているため、余韻が生じる余地すらない。物語のほうは明らかにある程度の余韻を必要としているにもかかわらず、だ。かといってジョン・ウォーターズが『シリアル・ママ』でやったような、当時のアメリカ映画のポップな文法を愚直に模倣することで物語の奇形性を逆説的に強調するといった策略性や批評性も感じられない。単に映像と物語の波長が合っていないだけ。

監督の父親でありアメリカ映画界の大巨匠であるフランシス・フォード・コッポラは叙事詩的な(つまり第三者視点からの「観察」に徹した)大作を数多く撮り上げている。そこではロングショット/長回しが基調を成していた。一方でソフィア・コッポラはきわめて個人的な(登場人物の内面の「生成」に徹した)どちらかといえば地味な作風を得意とする。彼女は父親の作風とその文法との単純な対比関係から、さして考えもせずにクローズアップ/モンタージュという安易な対立軸を採用しただけなのではないか、と邪推してしまう。

本作のちぐはぐさ(映像と物語の乖離)についてソフィア・コッポラ自身も自覚的であったようで、以後の作品からは本作のような軽率なアメリカ映画っぽさは消えている。その結果、父親と同じようなロングショット/長回しの文法に寄ってしまったことはある種の因果というか運命というか。

物語そのものに関していえばいつも通りのソフィア・コッポラという感じ。生死の境界線上をうつらうつらと彷徨う少女たちの姿は『ロスト~』のシャーロットや『SOMEWHERE』のジョニーに重なり合う。それゆえ映像とのミスマッチが一層腹立たしい。

死にたい理由を周囲に種明かしすることなく死んでいった少女たちを「男に消費されない女」の象徴としてウーマンリブの文脈で称揚することもできなくはないが、それにしては男たちの身勝手なエモーショナリズムに対する批判が足りない。「オレたちバカだったよな・・・」と思い出に浸る男たちを眼差すカメラはむしろ同情的でさえある。

ラストのパーティーシーンでプールに飛び込んだ青年が「俺は悩める10代なんだ!」と喚き散らしたことからもわかるように、やはり本作の主眼も『ロスト~』や『SOMEWHERE』と同じく「内面の空虚さに悩む個々人の描出」なんじゃないか。少女たちは死にたい理由を周囲に言いふらさなかったのではなく、言いふらすほどの理由がなかったのだと思う。

因果