風が吹くままのレビュー・感想・評価
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体の中の汚れた血が洗い浄められるような・・
電話がかかれば、岩場の家から急坂を降り、オンボロ車で他の高台まで行かなくちゃ圏外という繰り返しが、何ともはや、のんびりして面白い。
黄金色に輝く景色
なかなか思い通りに行かないイライラとした心情と電話のたびに丘の上まで車で行ったり来たりする様が上手く合っていた。こっちまで何回丘の上行くんだよとちょっと苛立った。
あと、ちょっと淡々と進むから眠くなってしまった(てか寝てしまった)。
黄金色に輝く景色は綺麗だった。
黄金に輝く麦畑が、ひたすら美しい。
期待していたのとチョット違ったかな。
もっと死生観に関する哲学的な台詞や、詩の引用など沢山でてくるのかと勝手に想像していたが、そうでもなかった。
とはいえ、あのラスト近くで黄金に輝く麦畑をバイクで疾走させながら、医者が語った詩は随分と印象に残った。
あの美しいシーンだけでも、この映画を観る価値がある。
観ているこちらも、バイクと一緒に風となるような、あの感覚は、やはり映画館のスクリーンでないと味わえなかったかもしれない。
やはり、美しい。。。
見終わった後の、夫の一言
「やってくれるなあ。」
続いて、「ありがとう、です」
やはり、さすがのアッバス・キアロスタミ監督映画でした。
1時間50分、前半の1時間くらい、実に長い・・・
そのうちだんだん分かってくるのだ。
なるほど、そういうわけで延々行ったり来たり、今日か明日かわからない日が続くわけだ。
物語が朧げながら想像でき始めた辺りから、俄然、この村の美しさが圧倒的な現実味を帯びて迫ってくる。
風になびく一面の黄金色の麦の畑。
その向こうに幾重にも連なる緩やかな起伏。
湿っぽい稲の田圃を見て育つ稲作民族には、あの乾燥した小麦畑で一生を送る民族の、本当のことはわからないはずだ。
まあ監督にとってはそんなことはどうでもよくって、ただただ、美しい1枚1枚の写真の数々を、シーンの中で切り取って見せてくれたのだと思うより他ない、実に、映画ならでは、というしかないかなあ・・・
(渋谷のユーロ・スペースで上映していたはずだ。ご覧になった方は羨ましい限り)
麦の穂
バイクに乗って、天国について話しているときの黄金の穂に包まれた景色の美しさ。
桜桃の味にも繋がる。
テヘランから700キロ、小さくて美しい村。たぶんここに行くことはないだろうわたしの人生の寂しさと、私の周りの美しい景色について考えた。
多くを語らないラストもいいな。
【テヘランから来たTVクルーの男が、クルド人の村で行われる葬送の儀式を撮る前に、”自然に流れに身を委ね”生きる人々の姿から徐々に学び、実践した尊き事を、豊かなイランの自然を背景に描き出した作品。】
ー TVクルーのべーザードは、クルド人が
住む村で行われている葬送を撮りに、都会から、単身乗り込んで来る。
だが、葬送がナカナカ行われない中、都会から来たベーザードは、無垢なる村人たちの自然と共に生きる姿に、徐々に感化されていく。ー
◆感想
・誰が見ても分かる、ベーザードの上司と思われる男から頻繁に携帯にかかって来る電話。
”何時になったら、画が取れるんだ!”
と言っている感じが伝わってくるが、電波が届かないために、電話がかかってくる度に、車でくねくね道を上り、電話を繋げるベーザードの姿。
ー アッバス・キアロスタミ監督の、
”何が本当に幸せなのか、文明の利器とは只、人間を不自由にしているだけではないのか!”
と言うメッセージが良く伝わって来る。
このシーンは、今作で何度も描かれる。ー
・村の多産な女性達の生き生きとした姿。
・牛乳を求めたべーザードに対し、お金を受け取らない村人たちの姿。
ー 互助精神ではないが、困った人にモノを与える事は当たり前という、文化度の高さが、垣間見える。ー
<そんな中、画を撮るよりも大切な事があると悟った、べーザードが行った、尊崇な行為。
アッバス・キアロスタミ監督の人間性の善性を基にしたドキュメンタリータッチの映画構成が素晴しい作品。
ラスト、自らの車を村人に貸し与え、医者が運転するボロッチイバイクに二人乗りしながら、交わす会話も素晴らしき作品である。>
珍しい儀式を待つディレクター
お葬式の取材クルーが田舎の村に滞在するが
死にそうなお婆さんがなかなか死なないで
暇を持て余すディレクターと地元民との
ほのぼのひなが一日中的風景
もちろん埃のたつジグザグ道や麦畑に
簡単な立て付けの住宅や地下の牛小屋
そして宿題にはげむ子供たち
とにかく一生行けないだろうこの国の
風景をこの目に焼き付ける貴重な映画
この価値観をどう理解するかで好きになる作品
テヘランから約700キロ離れたクルド人の田舎の村Siah Dareh(シアダレ)へ入って、珍しいといわれている弔いを取材するためクルーと来たベーザード。
村の老婆が亡くなりそうだということを聞き駆けつけてきて彼女がなくなるのを待っているが、いっこうに亡くならない。周りの住人はこの老婆のお世話が上手で、なかなか思うようにベーザード(人は彼のことをエンジニアと呼んでいる)は取材に持ち込めない。テヘランからはまだかまだかと催促の電話連絡が入るが、電話のコネクションが悪く、村の山のてっぺんまで、車を走らせていって、経過報告。何も進展していない経過報告。砂埃を立てて何度も車を走らせるシーンは滑稽でもある。道中で会う人々との会話はエンジニアのストレスが溜まっている心に安らぎを与える。どの人たちとのその会話は『人間味』を呼び起こす会話である
テヘランの取材班と一緒に弔いを取材するわけだし、それに、マスコミで働いているエンジニアにとってはクルドの村の人間の生活はまだるっこいかもしれない。でも、村の人々との親睦により彼が、ここの住人のようになっていくといったらいいか、人の死を待ってそれをネタにして作品をつくろうとしている自分に罪の意識が出てくると言ったほうがいいかも。
途中、エンジニアが車に乗せたある男のひととの会話が好きだった。母親の最初の傷は(多分深いシワ)姉亡くした時、その次の傷は伴侶に見せた愛で、仕事のボスのいとこが死んで、工場で誰か辞めなければならないとなった時。。。。。。。。。車を降りる時、かれは松葉杖をついていた。この車の中での会話の理解を私はまちがえているかもしれないが、人間は弱い面があり、それを人生として生きていることをそのまま見せる。一見どうでもいいようにきこえる話だが、我々の人生において遭遇するかもしれないし、大事な言葉になっている。(他の人のレビューを読んだ方がいい)
キアロスタミ監督は大事そうでないことが大事なんだといっているようだ。
最後の方に井戸を掘っている男が土砂崩れにあって、土に埋まってしまったのを助けるという皮肉な展開。医者も来てくれ、無事に穴から救い出したが、エンジニアは死ぬのを待っている老女のところに寄ってくれと医者に請う。それに、薬もとりにいくが不幸にもこの老女はかれが帰ろうとしている時、朝なくなる。カメラ一つだけを持っているエンジニア。すでに取材班は痺れを切らしてテヘランに帰ってしまっている。弔いにいく女の人たちの写真を何枚か撮って、その場を車でさる。
キアロスタミ監督は日本で映画を撮影しているが、その映画についてニューヨークで講演をしているのを聞いたことがる。詳しくは覚えていないが、日本では稀に見る体験をしたと。日本の人々が気に入ったようだ。主役の日本人俳優にまた、自分の作品に出て欲しいと頼んだら、その主役の男性は、脇役にならと、へりくだった言い方をしたらしい。それも、褒めていたし、謙譲の文化が好きなようだ。日本の伝統文化はちょっとイランのと似ている文化。乗せてくれてありがとうの代わりに、邪魔して悪いですねという文化が好きなようだ。
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