「微笑みは誰のものか」うつせみ よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
微笑みは誰のものか
主人公の青年は、他人の留守宅に侵入して、そこで食事、洗濯、壊れ物の修理を行う。まるでその家の住人であるかのように悠然と時間を過ごす彼に罪の意識はないように見える。
実際、侵入先で何かを盗むわけではないし、くすねる物と言えば、冷蔵庫の中のありあわせの食材と電気や水くらいのものか。
そして彼が去ったあとに帰ってきた家主は大抵の場合、誰かが侵入したことには気付かずに生活を送る。
彼には気配というものがない。映画の中でもこの男は言葉を発することはない。まるでこの世に存在することを拒むかのような人間である。誰にも見られたくないし、誰ともかかわり合いを持ちたくない。
何らかの理由で、このような気持ちで生きている人びとのことを、我々は引きこもりと呼んでいる。ただし、この映画の主人公は、チラシ配りの仕事で自活しているのだが。
このような彼がいつものように、とある豪邸に侵入して入浴や洗濯をしていると、家の中に先ほどからずっと住人がいたことに気付く。それはこの家の主人の妻であった。彼女の顔は夫から受けるDVの痕が生々しく残り、その表情は怯えて生気を失っている。
ここで観客が気付かなければならないことは、気配を消していたのが侵入した男ではなく、この家に住む女の方であるということだ。そのことが、女の受けている暴力が陰惨で、逃れる術を知らない彼女がその存在を消してしまいたいと思っていることを強く印象付ける。キム・ギドク作品ではしばしば見られる、登場人物の優れた心理表現である。
この二人は留守宅に侵入を繰り返す逃避行に出るのだが、ある時ついに侵入先の住人に見つかってしまう。男は収監され、女のほうは夫の元に連れ戻される。
そして、続く収監中のシークエンスからキム・ギドク節は加速する。
収監された男は、気配を消し相手の視角からも消える技術を研くのだ。
観客はこのあたりから、自らの視覚に不安を覚えるのではなかろうか。自分が見ていると自覚しているもの以外にも存在している可能性に気付くのだ。
視認されない存在から自らは見られているという不自由で気味の悪い状況は、思想家ミシェル・フーコーによる監獄での監視の、看守と囚人の関係をそっくり逆転したものではないか。
刑期を終えた彼は再び女の家に侵入するのだが、その姿は女には見えるが夫には見えない。
面白いのは、この夫が男の気配を感じながらもその姿を認めないところである。このような存在を我々はいくつもの物語で知っている。これはまさしく幽霊そのものではないだろうか。幽霊がいるかもしれないと感じたものは、怖いものを見たいような見たくないような気分である。
女の微笑みは夫ではなくその後ろに立つ男へ向けられている。観客はここでまたしても不安にかられる。自分に向けられた顔に浮かぶ笑みは、果たして自分への微笑みなのだろうか。
よくあるコメディのワンシーンに、通りの向こうから美女が微笑みながら手を振っている。いい気分になって、こちらからも手を振り返そうとすると、美女のお相手は自分の後ろにいたというパターンがある。
この作品の最後のシークエンスはこれと同じ構図を持ちながら、笑い種ではなく、社会の片隅でひっそりと愛し合う二人の切なさと、その目には見えない存在を感じる男の焦燥感を表している。