「本作は60年安保闘争の本質とは何であったのかをえぐり、見たくない、認めたくないだろう現実を直視している」青春残酷物語 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
本作は60年安保闘争の本質とは何であったのかをえぐり、見たくない、認めたくないだろう現実を直視している
本作は1960年6月3日公開
その3週間前の5月19日に60年安保条約が改定され、それに抗議する大規模デモが頻発していた最中のことだ
本作はその本物のデモ隊の様子を捉えている
主人公の真琴は女子高生
冒頭で知り合うことになる清は大学生だ
彼と彼女は政治には関心がない
デモ隊を見ても邪魔そうな視線を投げる
真琴には30歳位の姉がいる
姉は1947年の二・一ゼネスト、1948年の全学連結成、1950年の人民広場事件の時の世代だ
彼女は結局政治的な学生運動よりも安定した生活を望み中年の生活力のある男性を選ぶが結局結婚できないままだ
おそらく不倫関係であり、いまだに続いている
この姉妹の家庭には母はいない
戦争で死んだのかも知れないが、この姉妹を戦前のような女性の生き方の手本を示す存在はいない
父は家父長の威厳はなく、戦争に行き敗れ自信を失っている姿を見せる
つまりこの家庭は戦後日本を投影している
真琴が清との恋愛を熱情に任せて何も振り向かず突き進むことに感化され、生き直したいと姉は中年男と別れて、かって一緒に共産主義活動をした元恋人を訪ねる
彼女のかっての恋人は共産主義の積極的活動家であったが彼女同様、政治運動に夢破れて闇医者をしてなんとか生きている
彼の闇診療所の壁には日本共産党のビラが未だに貼ってあるのだ
闇医者は彼の夢が破れた1948年公開の黒澤明監督のよいどれ天使に憧れてという設定なのだろう
しかし彼のやっているのは本当の闇医者だ
そうするほか無かったに過ぎない
二人の会話はこうだ
社会を変えようという理想に青春を燃やしてきた
でも方法は幼稚だったし、過ちは一杯あった
ぶつけても、ぶつけても壁は壊れない
僕達はイライラして、お互いに傷つけ合うギスギスした関係になった
世の中を変えるんだと力んでいた二人の成れの果て・・・
しようがねぇじゃねえか
世の中の歪みが俺達の愛情を歪めちまったんだよ
お互いの体に手も触れないほど厳しく、世の中の歪みに対立しつつ学生運動という形で青春の怒りをぶつけてきた
でもその中に歪みは入って来て、お互いに傷つけ別れ敗北しなければならなかったんだ
この会話は二人の恋愛のことであり、戦後直ぐの全学連結成当時の学生運動への総括でもある
清には60年安保闘争のデモ隊に関わる友人もいるが、彼はデモのビラ配りの貧乏女学生を捨て金持ちの女学生に乗り換えて安保闘争からも離脱しようとしている
清はいつもイライラとして怒りの捌け口を求めている
女を食い物にして生きていて平気な男だ
結局、彼は犯罪に手を染め逮捕される
取り調べを受け、俺は悪くない、大人の方が悪いと不満を訴えるが刑事にこうなじられる
そのやり場のない怒りは社会への不満ではない
その不満で犯罪を犯したのではなく単に金の為だけなのだ
そうと指摘されると、思わず殴りかかってしまう
そして刑事にこう言われるのだ
これがお前の正体だ
殴りたい、殴りたい、年中そんなことばかり考えている
彼はそれが正鵠を射ていると気付くのだ
つまり60年安保世代の学生運動も、結局は政治闘争というものではなく、単なる欲求不満を暴力で発散させているのだということなのだ
闇医者と姉と清はこのような会話をする
君の妹達はね、俺達とは逆に欲望を全部貫くという形で世の中に怒りをぶつけているよ
でもね、それだって勝てるかどうか
きっと負ける
例えばこうして子供を堕ろさないとならないような積み重ねが彼らを歪めてそして結び付きを壊していくんだ
清は壊れないと抗弁するが、闇医者は妹は絶望的な顔だったと応える
姉はこう話す
あなたは私の一つだけ残っていた夢を壊しちゃって、その上あの子達の夢まで壊そうというの
清は言い返す
夢なんか持ってないよ、俺達
だから、あんた達のように惨めなことにならないよ
闇医者がいう
今夜はね、俺達の二度目の敗北の夜なんだ、と
そして彼は姉にもう会うこともないといい、看護婦のような下品なくたびれた女を紹介する
この女はね、俺が今の女房みたいにしている女なんだ
俺はこの女を一生引きずってな
釈放された清は彼の自供によって逮捕されてきた闇医者と警察署の前ですれ違う
彼はこう言葉をかける
俺達の青春の敗北が、君達の歪んだ在り方の原因となっていると思うから恨みはしないがね
つまり戦後の左翼活動の出発点から間違っていたと懺悔するのだ
60年安保闘争の敗北はそこから既に始まっていたと
ラストシーンはそれぞれに残酷なことになる
釈放されても二人は行く宛もなく、何をするという目的すらない
清は彼女を守る力もないのを知ったのだ
俺達は自分を道具や売り物にして生きていくしかないんだ、世の中そうなんだと言うのだ
俺達が頑張ったってちっとも変わりはしないよ
お互いに傷つけあうばっかりさ
行き場を失い追い詰められた末路がそのラストシーンだ
姉の世代も、妹の世代も結局は大人達に敗北をするのだ
本作公開の僅か12日後、国会突入での機動隊とデモ隊との大規模な衝突で活動家の女学生樺美智子が死亡する事件が発生する
その一週間後には60年安保は自然成立し、闘争は敗北し消滅していった
本作はまるで予言そのものだったのだ
本作は60年安保闘争の本質とは何であったのかをえぐり、見たくない、認めたくないであろう現実を直視している
だから青春残酷物語なのだ
若者は若いが故に熱情に突っ走る
それは真琴のいうようにちっとも悪くはない
若さの特権なのだ
しかしその向ける方向を間違うと、このような残酷な結末が訪れるのだ
大人としての力を身につけなければ、単なる暴走にすぎないのだ
それ故に大人達は車に乗り、清と真琴は2人乗りでバイクで走っているのだ
これが大島監督が語りたかったテーマなのだろう
果たして70年安保闘争と学園紛争は同じように崩壊した
そこから40年経ち、こんどは老人となった若者達が民主党政権を樹立してリベンジを図った
が、その結末も本作の言わんとする結果に終わったのだ
姉の世代と60年安保の世代は間違っていたことを自覚し認めた
そしてそれを直視している
1932年生まれの大島渚監督は、姉の世代と妹の世代に挟まれている
本作には監督がこの二つの世代を直接見た視線が投影されているのだ
しかし、70年安保闘争と学園紛争を起こした次の世代、団塊の世代の人々にこのような自覚と自省と直視の視線は、今に至るまであったのだろうか?
本作のように総括されないまま、成仏できずにいるのではないか?
だから70年安保闘争から50年もの年月が過ぎ、老人に成り果てても、未だに彼らはジタバタするのだ
彼等には姉とその元恋人がしたように、喪われた青春に乾杯をしていないのだ
その自覚を持っていないのだろう
死んでいるのにその自覚がなければそれは亡霊だ
21世紀の現代の若者が本作を観る意義と意味はなんだろう
日本のヌーベルバーグ映画とも言われている
単にそれだけの視線でみるのも良いだろう
確かに観れば観るほど味がでてくる作品だ
しかし、この世代の老人達の凝り固まった妄執の背景を知ることによって、彼等の魂胆を見抜き、利用されないように用心して、このような残酷な結末を21世紀にまた繰り返さないようにすることではないだろうか