日本沈没 : 映画評論・批評
2006年7月11日更新
2006年7月15日より有楽座ほか全国東宝系にてロードショー
滅亡願望に後ろ髪を引かれた偽りのスペクタクル
1973年のオリジナル版は、高度成長を終えて閉塞する時代の終末観を決定づける国民的大作だった。自然災害で国土を失い、流浪の民となる日本民族を生き延びさせようと奮闘する政治家や科学者の情念は、噴き出る溶岩に拮抗するほど熱かった。重厚な群像劇が、科学的説得力に裏打ちされた崩壊の地獄絵に勝っていたのだ。
大震災やテロの悲劇に打ちひしがれ、秩序さえも失われ、あらゆる意味で日本が壊れてしまった今、リメイク版は為政者が早々と犠牲者になり、国家の舵取りさえ覚束なくなる展開はリアルだ。精緻な特撮はハリウッドに引けをとらない。しかし「衝撃のディザスター」と「感動を狙ったドラマ」という2つの画づらは一向に交わっていかない。
これは虚無の時代に希望を灯す心象風景を目指したのに、滅亡願望に後ろ髪を引かれた、煮え切らぬ偽りのスペクタクルだ。興行的要請から客層を意識しすぎたことが敗因か。「ローレライ」で虚構の世代の総括を試みた監督が目指すべきは、「海猿」的な大量消費型商品の製造マンでも、「ALWAYS 三丁目の夕日」的な本編も撮れる画像処理マンでもないはずだ。樋口真嗣よ、同世代が共有する感情を視覚的大作に昇華できる作家になってくれ!
(清水節)