少年(1969)のレビュー・感想・評価
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当たり屋
四国から北陸、旅館を渡り歩いて車に撥ねられる。痛くないように、ほとんどが車の横に接触するように・・・最初は母親だけだったが、少年はやがて自ら当たり屋の中心に・・・
母親が夫との子を孕んで、仕事(当たり屋)で修理工の男に当たったときから、夫婦のきずなは揺らぎ始める。旅をするにしても、別々の宿をとるようになったのだ。母親が男好き?そんな雰囲気も匂わせながら。
雪の北海道にたどり着いたとき、3歳のチビがふらふらと道路を歩き、それを避けようとした車が横に逸れ、同乗者が死亡。そのときの少年の心は悲しみと自省の念があったのか?時折、挿入される白黒映像が彼の心象風景を表していたが、この終盤にきて、子どもらしい心に戻ったようで、大人には理解できない・・・
低予算のATG作品なので、事故のシーンや、最後の死亡事故なんてのは現実離れしていて残念。そして、実際に起こった事件とも比較するようなナレーションと映像で締めくくるが、高度成長期の中の貧困というものをもっと強調できればいいのに・・・
家族で当たり屋して、示談金で旅館を転々と全国回る映画。しかも母親は...
家族で当たり屋して、示談金で旅館を転々と全国回る映画。しかも母親は妊娠中。親父だけクズ。
長男が買ってもらってた黄色の巨人の帽子がカッコ良かった。
大島渚ってええな。
悲しい家族と昭和の時代
車への当たり屋で金を稼ぎ、高知から北海道まで日本海側を転々とする親子4人。その手口は手馴れたもの。少年とは10歳の男の子で母親の当たりを見て自らもやることに。継母であるが、冷静に甘えることもなく、暴れることもなく、両親に従っている。両親とも離婚経験や親子関係が悪く育っており、貧しい荒れた生活は引き継がれていくのか。
雪の深いある日家族喧嘩の中、少年の弟が道路に飛び出しそれを避けようとした車が横転して事故。乗っていた少女が死亡する。それは少年のみが目撃する。このシーンがそんなに衝撃的に描かれていなくて、横転して止まった様子で事故死になるような状況でないのが、印象を薄くしているが。
この後も夫婦は別れるとか当たり屋はやめるとか、少年をめぐって喧嘩を繰り返す。少年はそこを飛び出し雪の深い道を自分が死んだらいいと歩き出すが、その後を小さな弟が追いかけてくる。二人で雪の中、語るシーンが何とも切ない。アンドロメダとつぶやく弟。
結局、警察に逮捕されてしまう家族であるが、少年はあくまで嘘をつきやっていないという。
2013年11月09日@広島市映像文化ライブラリー
靴について
赤い靴が落ちている.以前に交通事故の現場を目撃したときにも印象的だったのは,そこに落ちている靴だった.正確に言うと交通事故の被害者の体は既に救急車の中にあって,いくつかの痕跡が残っている状態だった.縁石に乗り上げたSUVと道路の真ん中で横倒しになっている郵便局のスーパーカブ.こちら側の歩道には三人組の女性がいて,癇癪を起しているひとりの背中をふたりがしきりにさすっている.その中でひときわ存在感を放っているのは,片方だけ残されたベージュのスニーカーだったことを思い出す.
靴が残されているという事だけで,多くのことを物語っている.交通事故と関係ないところであったとしても,それは想像力に多くのエクスキューズを残す.家であれば靴の数と種類で交友関係が分かるし,通常ではあるはずのない場所に靴が存在していると,それは死のにおいを感じさせる.ビルの屋上に外向きに並べられた靴や,池に浮かぶサンダル.手袋や帽子,上着だったらもっと安全な想像が働くのだけれど,靴の存在による不穏さからは逃げられない.
少年にとって怪獣とは雪だるまだけなのか
10歳くらいの少年を含む当たり屋一家は当たりを続けながら日本列島を北上して行く。
昔はよく当たり屋グループ北上中とかそろそろ入県とか、本当なんだかデマなんだか分からない情報がたまに流れてくる事があった。この映画が元なのか、それともそういう事実が実際にあって映画が作られたのか、前後関係はよく分からんが。これは雑談。
さて、戦後も二十年経ち東京オリンピックも成功裡に終わり、敗戦などどこへやら高度経済成長を行け行けどんどんで突き進む日本社会の様子を映画の背景画像としてこれでもかと見せつける。
画面の主たるオブジェクトを常に中心線からずらし余白を大きくとる撮り方。
高度経済成長に背を向けたのは主体的だったのか風まかせだったのかわからないが、とにかく結果的に高度経済成長から落ちこぼれて犯罪一家になってしまった家族。
そういう大島渚監督の独特な、あるいはニューシネマ風な撮り方によって、その家族が映ると非常に悲しさが浮き彫りになる。その映像表現は逸品である。
少年の身代わりのように一瞬で死んでいった雪国の少女は、もはやぴくりとも動かない。だからこそ静かで美しい。禁断の美しさを見せつける。大島渚監督よ、あなたの映像はすさまじい。
すごい映画なのだが、一家に対する同情を盛り上げるでもなく距離感を持って追い続けるような作風のため、いまいち没入感はなかった。
家族の在り方がテーマの映画のように見えるが、果たしてそうなのだろうか?
時代は、中盤の札幌のクリスマスで1966年のことだと分かる
だからその1966年の春から翌1967年秋にかけての物語
実際の事件を元にしており、その家族は1966年9月大阪で逮捕されている
登場人物の年齢はラストシーンまで分からない
ラストシーンは、南海電車なんば駅の遠景で、四国へのフェリーがある和歌山港行きの南海電車の車中であると分かる
車窓から見える海の光景から、淡輪駅の手前辺りだと思う
刑事らしき男性3名に挟まれているから、高知への移送中なのだろう
そこにナレーションがかぶさって、詳細な家族のプロィールがやっと明かされるのだ
父は大正11年1922年生まれ、45歳
母は昭和14年1939年生まれ、38歳
劇中妊娠するが、どうも結局中絶したようだ
少年は詰襟の学生服を着ているし、城崎駅の切符売場で中学生と名乗る
しかし本当は昭和31年1956年生まれで、まだ9歳でしかない事が分かる
妙に身体が小さく幼い言動や行動でそうではないかという観客の推測が裏付けられる
彼は先妻の子供である
ラストシーンでは10歳になっている
チビは父母との間の子供で3歳とわかる
家族の在り方がテーマの映画のように見えるが、果たしてそうなのだろうか?
鬼畜、家族ゲーム、台風家族、誰も知らない、万引き家族に連なる、日本の家族を考えるそういう映画なのだろうか?
この時代の日本人の家族の在り方、そしてそれがどう変わっていくのか、変わったのか
それをテーマにした映画であったのだろうか?
違うと思う
確かに、特殊な家族でありそれに衝撃を受けて映画化されたのだろうことは分かる
しかし本当のテーマは別にあり、この特殊な家族の事件を借りて、そのテーマを映画にしたものだと思う
本作の本当テーマとは何か?
それは日本人は戦争の加害者であるのに被害者であるかのように振る舞っている
それを認めないと、次の世代が罪悪感で押しつぶされるぞ
もっと下の世代になれば、何も分からないまま大人になってしまう
それを大島渚監督は言いたい
そういう映画だったと思う
タイトルバックには、出征で武運長久を願う日の丸の国旗のようなものが大写しされる
監督始め撮影スタッフの名前が赤く手書きで放射状に記されている
助監督の一人のハングル文字での名前もある
異様なのは白黒の日の丸だということだ
一体これはなんだ?
そう疑問をもって観てくれと冒頭から監督は言っているのだ
劇が始まると春の光景で家々には国旗が掲げられている
説明はないが昭和天皇の天皇誕生日の祝日のようだ
この時代までは祝日に国旗を各戸に掲げることは普通のことだったのだ
70年代になると次第に無くなって行った
小樽での事故で、相手の車の助手席にのっていた少女が死んでしまう
その後、家族が泊まっている旅館は異常だ
家族のいる部屋の奥の部屋の光景はなんだ?
棺桶のような祭壇の上に、骨壺のような白い包みが沢山三角に積まれている
それはアンドロメダの宇宙人だとチビに少年が説明した三角形の雪だるまと似ている
そしてその左横の壁には大きな日の丸が吊されているのだ
少年の作った三角の雪だるまは、真ん中に事故死した少女の赤い長靴があり、日の丸を連想させるものだったのだ
なぜ三角なのか?
それは映画が始まってすぐ、少年は学校にも行けずずっと街をさ迷って時間を潰している
ようやく夕方になった頃に彼がいたのは三角の形に積み重ねなれた墓地の光景と相似形だからだ
白黒の日の丸、三角の墓、三角の雪だるま、三角に積んだ骨壺
日本を呪っているとしか見えない映像だ
戦争の被害者からの、そして朝鮮半島の人々からの視線ということだ
当たり屋とは、加害者と被害者が実は違う犯罪だ
日本には戦争責任があるのに、戦災やこの家族の父のように戦傷をうけて被害者ぶっている
当たり屋と同じように、日本は国家ぐるみで加害者が被害者のように振る舞っていると告発しているのだ
次の世代の少年にまで、そう教えてその欺瞞を続けようとしている
さらに下のチビの世代になれば、もうそれが当たり前になってしまう
そう告発しているのだ
少年は、少女が死んで初めて自分たちは加害者であることに心が押しつぶされる
耐えられなくなったのだ
しかし死ぬことはできなかった
彼は三角の雪だるまを潰して旅館に帰る
戻ってきた旅館が、その骨壺が積み上げられた部屋だ
雪だるまは否定して潰してしまえても、骨壺は積み上げられらている
日本国旗は、戦前と同じようにという意味だ
少年はしょうがないと思うのだ
家族は大阪で定住し普通の生活を営む
新聞で当たり屋家族のことがバレたからだ
やがて刑事が訪れるが、少年は父を逃がそうとする
警察の取り調べでも、当たり屋については知らぬ存ぜぬ
北海道には行ったこともないと供述する
しかしラストシーンで、少年は刑事の言葉で日の丸のような三角の雪だるまと、自分たちのせいで死んだ少女の顔を思いだす
その時、初めて彼の目から涙が一筋流れる
「行った、北海道には行ったよ」と打ち明けるのだ
自分は被害者ではなく、加害者であると戦争責任を認めたのだ
そこで映画は次第に画面が暗くなり、エンドマークとなるのだ
戦後生まれの世代が、このように戦前、戦中世代のように被害者ぶって戦争の悲惨さを述べても、この当たり屋家族の少年と同じことだ
日本人は戦争の加害者であることを忘れるな
これが大島渚監督が本作で描いた本当のストーリーだ
この家族の姿はこのテーマを描くためのよりしろに過ぎない
これが万引き家族に至る日本人の家族の形に連なる系譜の映画だろうか?
自分には似ていても全く異なるとしか思えない
しかし、自分には本作もまた加害者と被害者が逆になっていないのか?とも思うのだ
戦争責任を永久的に日本人の子々孫々まで問うているのではないのか?と
過去の日本の間違いは正しく教えられなければならない
おなじ過ちを次の世代、その下の世代が繰り返さないようにしなければならない
それは当然だ
しかし日本人は未来永劫に、どんなに世代が変わろうが戦争責任があるとを告発されているように観られてしまう危険を感じるのは杞憂だろうか?
当たり屋の「仕事」をするような少年になってはいけないという警告として本作を受け止めるべきだ
そうでなけば、加害者と被害者がまた逆になるのではないか
21世紀の若者達がそうなってはいないのか?と
映画としても、演出力、構成力はさすがというしかない
伝えてくるメッセージをすり替えられないように注意して正しく受け止めるなら、観る価値も意義も意味もある
むしろ21世紀の若者世代が、論理のすり替えの手口を学ぶ意味があると思う
今日は2021年7月23日
東京オリンピックの開会式
呪詛を込めた黒丸の日の丸ではなく、赤い日の丸が高々と掲揚され翻りました
色々な事がおこりまさに呪われたオリンピックなのかと直前まで不安でした
しかし日の丸は天皇陛下ご臨席の会場に翩翻として上がったのです
新しい世代、戦後から4世代目に入ろうという21世紀のオリンピックです
永久の戦犯ということが正しい考え方なのでしょうか?
それを考えさせられた映画でした
大島渚監督が提示する日本の一家族、そしてそこから脱出しきれない少年の物語
実話に基づく話らしい。雪だるま登場まで含めて、是枝監督の万引き家族と似ているのは、偶然なのか?、それとも是枝監督がこの映画を一つのモチーフにしている?
いずれにしても、車への当たり屋を仕事とする一家族の日本縦断の旅は、興味深かった。後半崩れてしまうが、小山明子妻、渡辺文雄夫、そして少年、各々の役割分担ができていて、お見事。そして、母とは血が繋がっていない少年の揺れる心が、素直な演技の良さもあってか、心に響く。
中学生の少年は思い立って家出までするものの、寂しさで帰って来てしまう。後半は、秘密を共有した母と二人三脚で犯罪を重ねる。死んでやると思って外に出たが、母違いの可愛がっている弟に追いかけられて、本当の事故が起きてしまう。
家族が憎くも恋しくもある一少年の複雑な心の揺れ動きを、南国高知から北海道の北の果てまでの旅情をバックに、愛と希望の街の様な声高の主張は控えて、淡々と描いている。それができる監督の大島渚に好感と強い興味を覚えた。
巧みな手口
今は無い名画座のオールナイトで随分と昔に観て以来の再見。
あまり好きでない印象変わらず。加害者を被害者にすり替えているよう。それも社会が悪い的な感じで。あなたがきちんと生きてこなかったツケではないですかと思う。子供には罪はないけど。
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