「家族の在り方がテーマの映画のように見えるが、果たしてそうなのだろうか?」少年(1969) あき240さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0家族の在り方がテーマの映画のように見えるが、果たしてそうなのだろうか?

2021年7月23日
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鑑賞方法:VOD

時代は、中盤の札幌のクリスマスで1966年のことだと分かる
だからその1966年の春から翌1967年秋にかけての物語
実際の事件を元にしており、その家族は1966年9月大阪で逮捕されている

登場人物の年齢はラストシーンまで分からない

ラストシーンは、南海電車なんば駅の遠景で、四国へのフェリーがある和歌山港行きの南海電車の車中であると分かる

車窓から見える海の光景から、淡輪駅の手前辺りだと思う
刑事らしき男性3名に挟まれているから、高知への移送中なのだろう
そこにナレーションがかぶさって、詳細な家族のプロィールがやっと明かされるのだ

父は大正11年1922年生まれ、45歳
母は昭和14年1939年生まれ、38歳
劇中妊娠するが、どうも結局中絶したようだ

少年は詰襟の学生服を着ているし、城崎駅の切符売場で中学生と名乗る

しかし本当は昭和31年1956年生まれで、まだ9歳でしかない事が分かる
妙に身体が小さく幼い言動や行動でそうではないかという観客の推測が裏付けられる

彼は先妻の子供である
ラストシーンでは10歳になっている

チビは父母との間の子供で3歳とわかる

家族の在り方がテーマの映画のように見えるが、果たしてそうなのだろうか?

鬼畜、家族ゲーム、台風家族、誰も知らない、万引き家族に連なる、日本の家族を考えるそういう映画なのだろうか?

この時代の日本人の家族の在り方、そしてそれがどう変わっていくのか、変わったのか
それをテーマにした映画であったのだろうか?

違うと思う

確かに、特殊な家族でありそれに衝撃を受けて映画化されたのだろうことは分かる
しかし本当のテーマは別にあり、この特殊な家族の事件を借りて、そのテーマを映画にしたものだと思う

本作の本当テーマとは何か?

それは日本人は戦争の加害者であるのに被害者であるかのように振る舞っている
それを認めないと、次の世代が罪悪感で押しつぶされるぞ
もっと下の世代になれば、何も分からないまま大人になってしまう

それを大島渚監督は言いたい
そういう映画だったと思う

タイトルバックには、出征で武運長久を願う日の丸の国旗のようなものが大写しされる
監督始め撮影スタッフの名前が赤く手書きで放射状に記されている
助監督の一人のハングル文字での名前もある
異様なのは白黒の日の丸だということだ
一体これはなんだ?
そう疑問をもって観てくれと冒頭から監督は言っているのだ

劇が始まると春の光景で家々には国旗が掲げられている
説明はないが昭和天皇の天皇誕生日の祝日のようだ

この時代までは祝日に国旗を各戸に掲げることは普通のことだったのだ
70年代になると次第に無くなって行った

小樽での事故で、相手の車の助手席にのっていた少女が死んでしまう

その後、家族が泊まっている旅館は異常だ
家族のいる部屋の奥の部屋の光景はなんだ?
棺桶のような祭壇の上に、骨壺のような白い包みが沢山三角に積まれている
それはアンドロメダの宇宙人だとチビに少年が説明した三角形の雪だるまと似ている
そしてその左横の壁には大きな日の丸が吊されているのだ

少年の作った三角の雪だるまは、真ん中に事故死した少女の赤い長靴があり、日の丸を連想させるものだったのだ

なぜ三角なのか?
それは映画が始まってすぐ、少年は学校にも行けずずっと街をさ迷って時間を潰している
ようやく夕方になった頃に彼がいたのは三角の形に積み重ねなれた墓地の光景と相似形だからだ

白黒の日の丸、三角の墓、三角の雪だるま、三角に積んだ骨壺
日本を呪っているとしか見えない映像だ
戦争の被害者からの、そして朝鮮半島の人々からの視線ということだ

当たり屋とは、加害者と被害者が実は違う犯罪だ

日本には戦争責任があるのに、戦災やこの家族の父のように戦傷をうけて被害者ぶっている
当たり屋と同じように、日本は国家ぐるみで加害者が被害者のように振る舞っていると告発しているのだ
次の世代の少年にまで、そう教えてその欺瞞を続けようとしている
さらに下のチビの世代になれば、もうそれが当たり前になってしまう

そう告発しているのだ

少年は、少女が死んで初めて自分たちは加害者であることに心が押しつぶされる
耐えられなくなったのだ
しかし死ぬことはできなかった
彼は三角の雪だるまを潰して旅館に帰る

戻ってきた旅館が、その骨壺が積み上げられた部屋だ
雪だるまは否定して潰してしまえても、骨壺は積み上げられらている
日本国旗は、戦前と同じようにという意味だ

少年はしょうがないと思うのだ

家族は大阪で定住し普通の生活を営む
新聞で当たり屋家族のことがバレたからだ
やがて刑事が訪れるが、少年は父を逃がそうとする
警察の取り調べでも、当たり屋については知らぬ存ぜぬ
北海道には行ったこともないと供述する

しかしラストシーンで、少年は刑事の言葉で日の丸のような三角の雪だるまと、自分たちのせいで死んだ少女の顔を思いだす
その時、初めて彼の目から涙が一筋流れる
「行った、北海道には行ったよ」と打ち明けるのだ
自分は被害者ではなく、加害者であると戦争責任を認めたのだ

そこで映画は次第に画面が暗くなり、エンドマークとなるのだ

戦後生まれの世代が、このように戦前、戦中世代のように被害者ぶって戦争の悲惨さを述べても、この当たり屋家族の少年と同じことだ
日本人は戦争の加害者であることを忘れるな
これが大島渚監督が本作で描いた本当のストーリーだ

この家族の姿はこのテーマを描くためのよりしろに過ぎない

これが万引き家族に至る日本人の家族の形に連なる系譜の映画だろうか?
自分には似ていても全く異なるとしか思えない

しかし、自分には本作もまた加害者と被害者が逆になっていないのか?とも思うのだ

戦争責任を永久的に日本人の子々孫々まで問うているのではないのか?と

過去の日本の間違いは正しく教えられなければならない
おなじ過ちを次の世代、その下の世代が繰り返さないようにしなければならない
それは当然だ

しかし日本人は未来永劫に、どんなに世代が変わろうが戦争責任があるとを告発されているように観られてしまう危険を感じるのは杞憂だろうか?

当たり屋の「仕事」をするような少年になってはいけないという警告として本作を受け止めるべきだ

そうでなけば、加害者と被害者がまた逆になるのではないか
21世紀の若者達がそうなってはいないのか?と

映画としても、演出力、構成力はさすがというしかない
伝えてくるメッセージをすり替えられないように注意して正しく受け止めるなら、観る価値も意義も意味もある

むしろ21世紀の若者世代が、論理のすり替えの手口を学ぶ意味があると思う

今日は2021年7月23日
東京オリンピックの開会式
呪詛を込めた黒丸の日の丸ではなく、赤い日の丸が高々と掲揚され翻りました
色々な事がおこりまさに呪われたオリンピックなのかと直前まで不安でした
しかし日の丸は天皇陛下ご臨席の会場に翩翻として上がったのです
新しい世代、戦後から4世代目に入ろうという21世紀のオリンピックです
永久の戦犯ということが正しい考え方なのでしょうか?
それを考えさせられた映画でした

あき240