劇場公開日 1997年5月10日

「“トレンディ”な心中もの? それがすべて、の一点突破にズッコケる」失楽園 いたりきたりさんの映画レビュー(感想・評価)

2.5 “トレンディ”な心中もの? それがすべて、の一点突破にズッコケる

2025年10月24日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

今さら初見の『失楽園』。冒頭から何度も映し出される「駅ホームで電車を待つ二人」を見てズッコケた。不倫カップルは、誰に見られるか分からない公の場で、あれほど大っぴらに手をつないだりはしないだろう。トロフィーガールに浮かれるアホな男はさておき、少なくとも女性の方はもっと用心深いものだ。ましてや既婚女性なら。原宿駅の愛ちゃんと錦織クンじゃないんだから(古い話でスミマセン)。

次におやっ?と思ったのは、序盤に描かれるホテルでの情事の撮り方。白黒映像やハンディ撮影などのショットで細かく刻んだシーンは、まるで監視カメラか盗撮ビデオのよう。これって何目線なのかと引っかかった。観客の眼差しを覗き趣味にとどめるというか、二人の関係性にまっすぐ向き合わせたくないのかと勘ぐりたくなった。

そうこうするうちに、この監督はもしや「列車」や「女性」を魅力的に撮れないのでは、と疑念まで湧いてきた。これは映画として致命的。森田監督は鉄道マニアだったらしいが、御茶ノ水駅付近の聖橋から撮ったらしきショットはぱっとしないし、黒木瞳さんのアップも映えない。

そこでキモチを切り替えて、物語を見ていくと、肝心の「二人が最初に惹かれたきっかけ」がきわめて曖昧にしか描かれない点に疑問を抱く。ヒロインの後ろ姿に見惚れて相合傘でトキメイタ、とか小学生の初恋物語でもあるまいし。

本作の製作サイドは当初、成瀬巳喜男監督の『浮雲』をイメージしていたらしいが、「究極の腐れ縁」を扱った傑作と本作の主人公たちとでは大きな隔たりがある。むしろ、1950年代のダグラス・サーク作品や溝口健二監督の『近松物語』などから「社会通念を逸脱する人間行動の不可解さ」に意味を与えるような眼差しを学び、本作に反映してほしかった。
そもそも、この「きっかけ」のシーンも含め、やたらと時制を入れ替える脚本構成が腑に落ちない。もしや話自体の凡庸さをごまかすためだったのではないか。

腑に落ちないといえば、自死に至る動機もナゾだ。心中を考えるほど精神的あるいは社会的、経済的に追い詰められた気配もない。劇中、役所広司たちは「阿部定」の名を口にするが、『愛のコリーダ』の時代と平成の泰平とは社会の閉塞感の「質」がまるで違う。あるいは制作当時の「トレンド」にのっかって、あっちの相性がピッタリなこの時この瞬間を永遠に封じ込めたかった、とか? しかし、その果てに鈴木清順の浪漫三部作みたいな対面座位のショットを見せられてもね…。たとえば、成瀬作品や近松の浄瑠璃のように、カネと情に振り回され社会からはじかれていくとか、もう少し納得できる展開を目ざせなかったものか。

仕事で干された途端、不倫に走ろうとする。ソレが火遊びであれ本気であれ、ほがらかに溺れる男のバカさ加減といったら。結局のところ、通夜の晩にカラダを求めてくるような男の身勝手さに終始つき合わされたという「腐れ縁」みたいな後味と、伊丹十三テイストな、あざとい「鴨とクレソン鍋」シーンのマズさが尾を引く作品であった。

なお、貶すばかりでは申し訳ないので、イイネと感じたところも加えておく。黒木瞳が、突きつけられた興信所の調査報告書に目もくれず、階段を上っていく夫に「今日はなにか洗濯物ありますか?」と下から声がけするところ。このセリフはそう易々と出てくるものではない。なかなかヨカッタ。

以上、国立映画アーカイブの特集上映「映画監督 森田芳光」にて鑑賞。

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いたりきたり
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