「「砂漠は清潔だ」と、かのロレンス少尉は言っていたけれど」シェルタリング・スカイ きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
「砂漠は清潔だ」と、かのロレンス少尉は言っていたけれど
2023年、
今年最後の映画鑑賞。
今年の物故者= 坂本龍一を偲んで ―
坂本が音楽を担当した本作品「シェルタリング・スカイ」をチョイス。
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【"理想郷”のイメージと化する砂漠】
前半の男女の絡みがようやく終わり、
ポートの死後から始まる砂漠のシーンが美しい。
ピンクの、薔薇色の砂のうねり。
いつまでも観ていたい、まるでローズクォーツの大海原。
砂漠を舞台とする作品群は、
小説家も映画人も、特段に意を決して取り組むものらしい。
大砂漠という、人間存在のちっぽけさを否が応でも突き付けられる、過酷なシチュエーションだからだろうか。
都会でいつの間にか着ぶくれしていた私たちは、体も精神も素っ裸にされて、あすこでは身ぐるみを剥がされるのかもしれない。
でも、意地悪な言い方をすれば
そこんところが、"意識高い系”には美味しくて、安上がりで、飛び付きたくなる題材なのだろう。
辺境の地「砂漠」への恐怖や畏怖。そして伝聞に知るその存在への憧れは、西欧文学の一ジャンルになっている。商品名もいくらでも思いつく、
・デューン(Diorのパルファム)、
・シロッコ(フォルクスワーゲンの車名、=地中海を渡って来るサハラ砂漠の熱風)、
・トゥアレグ(これもフォルクスワーゲンのRV車、キットを拾ったのはトゥアレグ族)、
・ギブリ(マセラティの車名、=リビア高地から地中海に吹き下ろす砂嵐) 、
・カサブランカ・サハラ(腕時計)等、
香水や車や時計の名前にも。
思えば、確かに、
乾き切った極限の地 =「砂漠」は、
安心で温かく、潤いに満ちていた母の胎の、それは対極にある存在かもしれないのだ。
生み落とされて、乾いた世界に放り出されて、乾ききった世の中を、僕らは数十年さまよう。
行く先を知らずに迷よい子となって生きる我々のこの世界を、「砂漠」は象徴的に表しているのかもしれない。
でも、けれども、
劇中で、キットの、作家としての混乱は、(そして敢えて言えば彼女の正常とは思われぬ様子は)、彼女が砂漠に入る前からすでに始まっていたものだったので、
だから、主役格が「砂漠」そのものなのか、この夫婦のどちらかなのか、
この映画のストーリーの展開は大変に理解が難しくて、複雑だった。
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【結婚の困難さ】
二人で、あるいは三人でいる時のほうが、主人公キットが独りである時よりも彼女の孤独は増幅しているように見える。
また
満ち足らぬ何かを埋めんとして、夫や情夫を激しく求めてみたりもする彼女の様子。また自分を失ってパニックになる彼女の様子。
水とシャンパンと、帰宅と安住を、そんな彼女はずっと旅行中も欲している様子。
「わたしは旅行者でもなく、観光客でもなく、半々よ」とモロッコの港で、確かに彼女は言った。
夫ポートは妻キットを掴まえることが旅の目的だった。だから彼は妻を追いかけ、力尽きて客死したが、
当のキットは、最後の最後まで、自分が何をしたいのかわからずに、ツーリストとして、観光客として、人生の地図を持たずにさまよっていたわけだ。
結婚についても彼女は半々。
夫婦関係においても、作家であることにおいても、そして自分自身であることにおいても。
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【ニーチェもポール・ボールズも女を弱い生き物と見る】
『荷物を背負って砂漠へいそいで行く駱駝のように、精神は彼の砂漠へいそいで行く。しかし、もっとも荒涼たる砂漠の中で第二の変化が起こる。ここで精神は獅子となる ―』
これはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の一節。ドイツのニーチェも かように「砂漠」を語った。
ポール・ボールズも、このニーチェから原作の構想をインスパイアされていたかもしれない。
ニーチェは、神と他人ヒトへの依拠を捨てて、汝こそ意志の主役たれ、という勧めなのだが。
ツァラトゥストラは読み進むと"女には哲学は無理だ”というドン引きの一文に出くわす。
夫を失い、
山程のスーツケースを失い、
単身となったキットの前途や如何に。
映画は後半に突入。
【砂漠万能説の破綻】
そして映画の後半は、キットのその後を追うには、あまりにも丹念さも、尺も足りていない。
ポートが死んだあとの彼女のエピソードは、あまりにも撮影も演出もおざなりで、付け足しのオマケの扱いだ。
「そこから何かが始まる」のではなく、「彼女には何も起こらなかった」というつまらない幕切れだった。
これがこの映画だ。
ラクダの隊商の主人から熱いお茶を勧められ、肉片を与えられ、新しい庇護者を見付けて精気を回復していく(かのように見えた)キットの顔が、見ものだったのだが・・
(「原作」では、オアシスで水浴びをした彼女は、現地の男たちからレイプされて村へと連れ去られる流れとのことだが )。
けれど、
キットは、やはりこの映画では人生の主人公にはなり切れなかった。
隊商の妻になることもせず、新しい夫と折り合うこともせず、
自身の小説の下書きを、部屋のデコレーションにして切り刻んで、まるで物狂いだ。
砂漠に聖いものを探し、そこに偶像を求めたのが「アラビアのロレンス」だったが、
けれどもその砂漠でさえ浄化しきれぬ我々の自我の喪失とか、他者依存とか、そういう「業」と表現できるものが「キットの頭上のシェルタリング・スカイ」には有るのではないかと思えた。
大量のトランクを数え数え、
悪い夢見や過去の様々を引っ提げたまま、
ポートに追従し、オンボロのバスで揺られ、蝿にたかられ、赤毛の親子には付きまとわれ、三角関係の泥々をそのままにしょい込んで
キットの旅は偶然に流されるがまま。
ポートと結婚しようが、砂漠の民の第4夫人になろうが、キットは自分を発見しない。
砂漠の上空には《シェルター=蓋》など、本来は無いはずなのだが、映画の描くこの女性には、自己喪失の、息の詰まる落し蓋が重くのしかかっている。
結局、大使館員に保護されてふる里アメリカへ帰ることになるキット。
何も見つけられずに故郷へ戻るだけの、実りのない旅路を見せつけられた映画の作りだった。
監督ベルトリッチと、相方マルコビッチの組み合わせなら、このようなサイケな映画になることは仕方がないか。
作家キットが、自らの旅を振り返り、後に紀行文として著したのなら印象はガラリと変わる。
彼女がこの小説の原作者であったのならば、だ。
しかし
・人間は、あと何度満月を見ようとも、
・あと幾度幼き日の思い出に浸ろうとも、
人間は、さ迷い続けて、それで結局終わりなのだと、原作者ポール・ボールズは
キットの旅路を睥睨し、カフェに座って、彼女について嘆息するのだ。
この映画からは何かを学ぼうとするのは、無理だと思う。
女からは学ぶものは何も無いという見下した視線を、この映画は示して終わる。
おそらくは、編集や演出や脚本がいけないのだ。
僕がもし監督をやるのなら、男のポートに対してもその都度、女のキットに対してもその都度、「迷ったのかね?」の言葉を双方にイーブンに与えたい。それによって「旅と迷い」という普遍的なテーマが、よりわかりやすくなるはずだ。
これこそ原作を読んで、著者の本意を確かめておかねばなるまい。
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僕はあしたから近場の安い温泉で数泊。お正月の骨休みです。
キットさんは、頼むからもうちょっと踏ん張ってください。ポール・ボールズのおっさんを驚かしてやってください。
よろしくお願いします。
「迷ったのかね」
「Are you lost?」
⇒このポール・ボールズが呟いた【you】が、「君は(=キットは)」と彼女個人を名指しして尋ねる【単数形】なのか、それとも「君たちは」「あなたたちは」と、ポートやキットや、ひいては我々すべてに向けての【複数形】での問いかけなのか、
英単語ではそこが判然としないのがいけない。