シェルタリング・スカイのレビュー・感想・評価
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不可解な最終ターン
ベルトリッチ監督と坂本龍一音楽、それだけで興味がわく。案の定、砂漠シーンや街のシーンとかとか秀逸。雑踏やほこりっぽい街並みとかドキュメンタリータッチで良かったと思う。
夫婦はこのアフリカの地で結婚10年の倦怠期を少しずつ回復しつつあった。急病という事件で絆は戻ったかに見えて、不幸な死。いやあ、ここはある日奇跡の回復を期待したんだけど、残念。
さて、その後だよね。ヒロインの不可解な行動は想定外で理解もできない。ことばも通じないから、巨匠まで完全に傍観者になって、ドキュメンタリータッチもニュース映像のように興味半分になってしまう。この30分ぐらいのアラブの隊商に加わるシーンはどういう意味があったのか謎を残したまま、何とも切なく終わる。これ、ほんとに巨匠の作戦だったのか?
「砂漠は清潔だ」と、かのロレンス少尉は言っていたけれど
2023年、
今年最後の映画鑑賞。
今年の物故者= 坂本龍一を偲んで ―
坂本が音楽を担当した本作品「シェルタリング・スカイ」をチョイス。
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【"理想郷”のイメージと化する砂漠】
前半の男女の絡みがようやく終わり、
ポートの死後から始まる砂漠のシーンが美しい。
ピンクの、薔薇色の砂のうねり。
いつまでも観ていたい、まるでローズクォーツの大海原。
砂漠を舞台とする作品群は、
小説家も映画人も、特段に意を決して取り組むものらしい。
大砂漠という、人間存在のちっぽけさを否が応でも突き付けられる、過酷なシチュエーションだからだろうか。
都会でいつの間にか着ぶくれしていた私たちは、体も精神も素っ裸にされて、あすこでは身ぐるみを剥がされるのかもしれない。
でも、意地悪な言い方をすれば
そこんところが、"意識高い系”には美味しくて、安上がりで、飛び付きたくなる題材なのだろう。
辺境の地「砂漠」への恐怖や畏怖。そして伝聞に知るその存在への憧れは、西欧文学の一ジャンルになっている。商品名もいくらでも思いつく、
・デューン(Diorのパルファム)、
・シロッコ(フォルクスワーゲンの車名、=地中海を渡って来るサハラ砂漠の熱風)、
・トゥアレグ(これもフォルクスワーゲンのRV車、キットを拾ったのはトゥアレグ族)、
・ギブリ(マセラティの車名、=リビア高地から地中海に吹き下ろす砂嵐) 、
・カサブランカ・サハラ(腕時計)等、
香水や車や時計の名前にも。
思えば、確かに、
乾き切った極限の地 =「砂漠」は、
安心で温かく、潤いに満ちていた母の胎の、それは対極にある存在かもしれないのだ。
生み落とされて、乾いた世界に放り出されて、乾ききった世の中を、僕らは数十年さまよう。
行く先を知らずに迷よい子となって生きる我々のこの世界を、「砂漠」は象徴的に表しているのかもしれない。
でも、けれども、
劇中で、キットの、作家としての混乱は、(そして敢えて言えば彼女の正常とは思われぬ様子は)、彼女が砂漠に入る前からすでに始まっていたものだったので、
だから、主役格が「砂漠」そのものなのか、この夫婦のどちらかなのか、
この映画のストーリーの展開は大変に理解が難しくて、複雑だった。
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【結婚の困難さ】
二人で、あるいは三人でいる時のほうが、主人公キットが独りである時よりも彼女の孤独は増幅しているように見える。
また
満ち足らぬ何かを埋めんとして、夫や情夫を激しく求めてみたりもする彼女の様子。また自分を失ってパニックになる彼女の様子。
水とシャンパンと、帰宅と安住を、そんな彼女はずっと旅行中も欲している様子。
「わたしは旅行者でもなく、観光客でもなく、半々よ」とモロッコの港で、確かに彼女は言った。
夫ポートは妻キットを掴まえることが旅の目的だった。だから彼は妻を追いかけ、力尽きて客死したが、
当のキットは、最後の最後まで、自分が何をしたいのかわからずに、ツーリストとして、観光客として、人生の地図を持たずにさまよっていたわけだ。
結婚についても彼女は半々。
夫婦関係においても、作家であることにおいても、そして自分自身であることにおいても。
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【ニーチェもポール・ボールズも女を弱い生き物と見る】
『荷物を背負って砂漠へいそいで行く駱駝のように、精神は彼の砂漠へいそいで行く。しかし、もっとも荒涼たる砂漠の中で第二の変化が起こる。ここで精神は獅子となる ―』
これはニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の一節。ドイツのニーチェも かように「砂漠」を語った。
ポール・ボールズも、このニーチェから原作の構想をインスパイアされていたかもしれない。
ニーチェは、神と他人ヒトへの依拠を捨てて、汝こそ意志の主役たれ、という勧めなのだが。
ツァラトゥストラは読み進むと"女には哲学は無理だ”というドン引きの一文に出くわす。
夫を失い、
山程のスーツケースを失い、
単身となったキットの前途や如何に。
映画は後半に突入。
【砂漠万能説の破綻】
そして映画の後半は、キットのその後を追うには、あまりにも丹念さも、尺も足りていない。
ポートが死んだあとの彼女のエピソードは、あまりにも撮影も演出もおざなりで、付け足しのオマケの扱いだ。
「そこから何かが始まる」のではなく、「彼女には何も起こらなかった」というつまらない幕切れだった。
これがこの映画だ。
ラクダの隊商の主人から熱いお茶を勧められ、肉片を与えられ、新しい庇護者を見付けて精気を回復していく(かのように見えた)キットの顔が、見ものだったのだが・・
(「原作」では、オアシスで水浴びをした彼女は、現地の男たちからレイプされて村へと連れ去られる流れとのことだが )。
けれど、
キットは、やはりこの映画では人生の主人公にはなり切れなかった。
隊商の妻になることもせず、新しい夫と折り合うこともせず、
自身の小説の下書きを、部屋のデコレーションにして切り刻んで、まるで物狂いだ。
砂漠に聖いものを探し、そこに偶像を求めたのが「アラビアのロレンス」だったが、
けれどもその砂漠でさえ浄化しきれぬ我々の自我の喪失とか、他者依存とか、そういう「業」と表現できるものが「キットの頭上のシェルタリング・スカイ」には有るのではないかと思えた。
大量のトランクを数え数え、
悪い夢見や過去の様々を引っ提げたまま、
ポートに追従し、オンボロのバスで揺られ、蝿にたかられ、赤毛の親子には付きまとわれ、三角関係の泥々をそのままにしょい込んで
キットの旅は偶然に流されるがまま。
ポートと結婚しようが、砂漠の民の第4夫人になろうが、キットは自分を発見しない。
砂漠の上空には《シェルター=蓋》など、本来は無いはずなのだが、映画の描くこの女性には、自己喪失の、息の詰まる落し蓋が重くのしかかっている。
結局、大使館員に保護されてふる里アメリカへ帰ることになるキット。
何も見つけられずに故郷へ戻るだけの、実りのない旅路を見せつけられた映画の作りだった。
監督ベルトリッチと、相方マルコビッチの組み合わせなら、このようなサイケな映画になることは仕方がないか。
作家キットが、自らの旅を振り返り、後に紀行文として著したのなら印象はガラリと変わる。
彼女がこの小説の原作者であったのならば、だ。
しかし
・人間は、あと何度満月を見ようとも、
・あと幾度幼き日の思い出に浸ろうとも、
人間は、さ迷い続けて、それで結局終わりなのだと、原作者ポール・ボールズは
キットの旅路を睥睨し、カフェに座って、彼女について嘆息するのだ。
この映画からは何かを学ぼうとするのは、無理だと思う。
女からは学ぶものは何も無いという見下した視線を、この映画は示して終わる。
おそらくは、編集や演出や脚本がいけないのだ。
僕がもし監督をやるのなら、男のポートに対してもその都度、女のキットに対してもその都度、「迷ったのかね?」の言葉を双方にイーブンに与えたい。それによって「旅と迷い」という普遍的なテーマが、よりわかりやすくなるはずだ。
これこそ原作を読んで、著者の本意を確かめておかねばなるまい。
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僕はあしたから近場の安い温泉で数泊。お正月の骨休みです。
キットさんは、頼むからもうちょっと踏ん張ってください。ポール・ボールズのおっさんを驚かしてやってください。
よろしくお願いします。
90年代のお洒落映画の粋内
途中から見始めたような映画
アメリカ人の夫婦が友達らしき人とアフリカに来て、よくわからないマザコン親子が出てきてどっかに向かう話ですが、夫婦の背景や、他の人たちの正体や、なぜ来たのか、どこに何しに行くのかをまるで説明しないので、途中から見始めたTVドラマ的な消化不良が続きます。そういうのが気になる人にはダメでしょうね。
ただストーリー的には倦怠期の夫婦の感情の出入りが主題なので、ハマる人にはハマります。まあ、この手なら成瀬選手の浮雲の方が肌に合いますが、好みの問題ですね。
文句なしにいいのは映像としての構図と色彩です。カメラマンが上手いのか監督の指示がいいのかはわかりませんがラストエンペラーを彷彿する映像美であることは確かです。
Are you lost?
三角関係で始まったが、夫が病気になり、妻が献身的に看病して、夫婦関係が修復して、次はどうなるか楽しみな展開だった。
だが、結局夫は死んでしまう。そこまでは許せるとして、夫の死後、妻のとった行動は理解できない。最後は三角関係の当事者タナーと結ばれるのか否か、よくわからないエンディング。しかも、旅の始まりと同じレストランで座っている老人に声をかけられる。Are you lost?(迷ったのかね?)。老人の哲学的な独白で終わるが、意味不明だ。
撮影がヴィットリオ・ストラーロで、アフリカ、特にサハラ砂漠を非常に綺麗に撮っており、劇場で観なかったことを残念に思うくらいだ。また、坂本龍一の音楽も素晴らしかっただけに、非常に残念なストーリー展開だった。
再生をかけアフリカ大陸とセックスする男女
本作は前半だけなら、倦怠期を迎えた夫婦が異国の地で愛を再確認していくロードムービーで片付けられただろう。しかし、後半になると訳が分からなくなる。
訳の分からなさの最大の理由は、キットがサハラ砂漠の民の中に身を投じ、そこから救出されながらも、友人と会おうともせず現地の町に彷徨い歩いて行ってしまうことだ。
誰もキットの心情をあれこれ想像するが、行きつくところは自暴自棄とか、欧米式生活に嫌気がさしたとか、現地に溶け込みたくなったとかの動機にしか辿り着けないだろう。そしてそれらの説得力、リアリティの希薄さに気づき、作品評価を放棄してしまう。
え、お前はどうなんだって? 小生もだいたいそのような結論に辿り着いたのですが…自分を納得させるために、ここで屁理屈を捏ね回してみましょうか。
キットとポートは自分たちを観光客ではなく旅行者だと規定する。それは、ことによっては旅行先に定住してしまうかもしれないことを意味する。
彼らはアフリカの不思議な色の空の下でセックスするのだが、それはあたかもアフリカ大陸そのものとセックスしているように見えないだろうか。
その時ポートは、「あの空はぼくたちを守っている。しかし、その先は虚無だ。夜があるだけ」と語る。2人を庇護する空(シェルタリング・スカイ)とは何を意味するか。アフリカ世界ではなかろうか。
彼らは2人に倦怠しかもたらさなかった米国の生活を捨て、新たな人生の可能性をアフリカに開こうとしたのである。
そして予想した形とは違っただろうが、2人はアフリカにおいて命懸けで愛と再生の夢を共有する羽目になる。だからポートが病死した後、キットはその夢を貫くために砂漠の民に身を投じていくのだ。
キットはサハラの昼も夜も身をもって体験し、砂漠の民の生活の基底にまで触れていく。シェルタリング・スカイのはるか先まで辿っていくのだが、それでも肌と言語の壁は乗り越えられなかった。
定住したかったのに出来なかった旅行者のキットは、それでも帰国するつもりはない。最後に「道に迷ったの?」「そうなの」という会話で見せる笑顔から、再生の実感を引き出すことはさして的外れとも言えまい。
このわかりにくい映画のテーマをまとめるなら、「キットとポートの文明を股にかけた再生の旅」となろう。
原作者ボウルズはラストで人生の有限さを説教しているが、それが主人公たちを非難しているのか、そのような冒険をしない観客を非難しているのかは、受け止め方次第である。小生は実際にアフリカを歴訪した原作者夫婦のアポロジャイと受け止めた。
完璧な芸術作品
アフリカを彷徨うポートとキット夫婦。彼らは旅をしているただのトラベラーではなく、死までを旅する私達人間の象徴として描かれています。
夫のポートが「汽車で旅しててやがてシーツの山に衝突する。僕は、衝突すると分かっている。だが、もう遅すぎた。」という夢の話をすると、妻のキットは前兆に聞こえる。と怯えて死を恐れます。このシーンは、今後の二人の運命を暗示していますが、これは私達の運命の暗示の様にも聞こえます。つまり、本作は死が本題なのだと。
サハラ砂漠の美しさが圧巻なフィルム。その砂漠で時を刻み続けたトゥアレグ族。絶対に絶対に、ベルトリッチしか撮れない唯一無二の本物の芸術。映像美に酔いしれました。素晴らしかった。
ラストは、P.ボウルズ本人が出演していました。
私は人生に迷ったら、必ず彼の問いかけを思い出します。
『迷ったのかね?
人は自分の死を予知できず、人生は尽きぬ泉だと思っている。だが全て物事は数回起こるか起こらないか。
自分の人生を左右したと思えるほど、大切な子供の頃の思い出もあと何回心に浮かべるだろう。4〜5回思い出すのがせいぜいだ。
あと、何回満月を眺めるか。せいぜい20回。
だか人は無限の機会があると思う。』
私はあと、何回子供の頃を思い出すのだろう。
私はあと、何回満月を見られるのだろう。
私はあと、何回映画を観られるのだろう。
死を実感させてくれたら、迷ってる暇なんかありませんね。哲学的にも感銘を受けました。
愛と夫婦について。大人のための濃い傑作
公開当時観て、また何十年ぶりかに観賞。古びない美しさに、圧倒された。本物。ベルトルッチ監督の哲学と美学が凝縮されて、また坂本龍一の忘れられない旋律、切ないくらい美しい。砂漠の波紋、そこを行くキャラバン。圧倒的自然美。全ての相乗効果で出来上がった傑作。大人の映画。
夫婦といえども、男女の愛情の真実というものを濃く深く求めていくところが、切なすぎて辛過ぎて、もう一度観るのはきっと耐えられないだろう...
「男女の愛」と夫婦という制度は、本当は全く別物。それを一つにしていこうというのは、人間の理想というか、幻想信仰。でも現実と思いたい気持ちは、西洋文化の方が色濃いのかもしれない。人間の中にある性愛。野性的部分と知性的部分は、現実の世の中にも交錯している、本当は怖い部分。この映画に出てくる砂漠、通りすがりのキャラバンは、心象風景でもある。
有限の、脆い命。共に生き抜いていく連れ合いがいたら、どれだけ心強いことだろう。夫婦とはそうであってくれと思う。しかしその二人が信じ合うことが、いかに難しいか。変わらぬ愛、など本当にあるのか。いや本当の相手は他にいるかも。見つけなくては。と、なんか本物の愛を見つけ「なくてはならない」と無意識の強迫観念が、映画を通して、じわりと覆いかぶさる。
主人公たちは相手の愛を試すかのように、壊してしまいかねないことをして、強度を確かめている。
でもそんなお試しも、疫病というまさに今に通じるような予期せぬ事態に、本当の危機に晒され、うろたえる。
死を前にしてはじめて、人は本当の姿を現す。
でもたとえ、信じ合えるとわかったとしても、守り合えるシェルターの、動かぬ平和の下で、ずっと生きていけるだろうか。どこからともなく生まれる閉塞感。ありがたいシェルターさえ、檻になる。檻の鍵が開いていれば、ふらふらと出ていくだろう。それが、自然なことだから。
一緒にいたいと思える相手と、一緒にいられる時間を大切にする以外に、できることはない。ずっとは続かない。諸行無常。
本当に辛い映画だけれど、今の時代は、このような濃い作品は作られなくなった気がする。これを真正面で受け止めるには、精神力と体力が要る。ますます減っていくだろうか。
今回ギリギリだった...
極上の美しき冒険譚
久しぶりに最高の映画と出会う事ができた。
圧倒的な映像美。
色使い、カメラワーク、アフリカの大地の妖しくリアルな描写、僕はまさにこの映画のような色彩が世の中で一番好きかもしれない。
2012年にマラケシュのリゾートホテルに長期滞在したことがある。
連日気温40度を越える圧倒的な暑さ、時折起こる砂嵐、新日を装いながら中身はモラルも教養も宗教的敬虔さもなくぼんやりとした薄っぺらな愛しかないモロッコ人達、モロッコは腐った救いようのない国だったという記憶が、この映画の描写と共にリアルに蘇るようだった。念のため言うが、もちろん愛に溢れた人間もいて、旅行はとても最高な思い出である。あの退廃的で過酷な環境がアフリカの魅力でもあるのだと思う。
夫婦関係を新鮮なものにするために、環境をガラッと変えることにより、愛が新鮮化することを求めた2人。お互い愛しあいたいという感情を確かに持っていたのだ。
男は直ぐに現地の女を買い、女は周期的にくる生物学的性衝動にマッチするタイミングでモテ男と関係を持ってしまう。腸チフスでの死の直後、ラクダの民の権力者に寝取られ、性の奴隷化されるがその男に刹那的な愛を持つこともできる。
男の愛はフォルダー分け、女の愛は上書き保存。この男女差をリアルに描写したように感じた。
ナチス思想の奇しいイギリス人親子もこの冒険にスパイスを与えてくれる。旅行中ってこういう白人いるいる感が半端ない。
例えば一人暮らしの皆さん、実家の親と話すこと、永遠に続くことができると思うが、人生であと何回あるのだろう、せいぜい100回くらいじゃないか。満月を見るのはせいぜいあと20回くらいじゃないか。日々当たり前にある事象を享受し、感謝し、過去や未来に囚われるばかりでなく、今を大切に生きる。グランドホテルの老人はそんなことを教えてくれる、ベルトリッチの分身であることは明らかである。
ベルトルッチと階段Ⅱ
シェルタリングスカイ
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