「タイトルなし」飼育(1961) きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
タイトルなし
大江健三郎さんは
うちの実家に寄られたことがあって、
僕は在宅していなかったのでお顔を拝見出来なくて残念でしたが、
母に言わせると「ぜんぜん喋れないお方」で、講演会でもぜんぜん喋れなくて
講演会は大失敗。非難轟々だったそうです。
繊細すぎて、自分で書いた作品で自身を殺してしまう。自傷してしまう作家さんなのかも知れません。
息子さんは作曲家で、いいCDを出しておられますよね。
息子さんのお名前が「光ひかり」さんなので、慰められます。
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この映画化については、
大江の原作と、大島渚の映画ではだいぶん焦点の当て所が違うのだけれど、
原作では、村の少年が語る俘虜と自分の一夏。
映画では、その少年と俘虜をめぐる村人の物語としての、阿鼻叫喚の展開。
「和を以て貴しとなす」の「ムラ社会」でも、一旦部外者がやって来ると均衡が崩れる。
そしてここまで半狂乱になり、
そして我に返って隠蔽を図ろうとする繰り返し。
この日本人のメンタリティ。
大島渚が最も嫌ったであろう日本人の実相をえぐっている。
「福田村」、そしてこの「飼育村」。これはわが町の事なのだ。
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【メモ】
長く巷に伝えられてきたのは「敗戦後、BC級戦犯がたくさんGHQによって処刑をされたが、「処刑されたのは実は日本籍を強要された韓国人軍属だけだった」という風聞だったが、それは違った。
新潟の直江津など、日本各地の捕虜収容所での連合軍捕虜に対する処遇によって、相当数の当地採用の日本人職員も死刑判決を受け、処刑をされていた事実。
町内会の人たちは、身内ゆえ、そして顔見知りゆえ、以来 暗い過去に口をつぐんでいるしかなかった事・・
それをラジオの特集で先般聞いたばかり。
みんな沈黙していたので、事実が大っぴらには外部に漏れて行かなかったのです。
戦争には綺麗事はない。
戦争の暗部には、目も耳も本当に塞ぎたくなる。
ナチの敗戦後、それまでずっと悪の権化=ヒトラーに虐げられてきたポーランドの市民が、国内に残っていたドイツ人たちを襲って家族もろとも惨殺した事実とか
起こりうべき結果だけれど、聞きたくはなかった戦争の本当の姿。
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だからわが国日本でも、
国内外で我々がやらかした罪について、自己免責するまやかしは駄目なのだ。
それを稀釈して自らを放免するような作用のある、何か創られた「片方の美談」は、一切語っては駄目なのだ。
「飼育」は、
わが町長野県での話。
お国から「飼育」されていたのは、まぎれもない自分たちだったのだと、
その事に気づかないといけない。
遺体に土をかける村人の手と、
無かった事にする村人の手打ちと。
この我々の手。この下手人の手。二つの手を重ねて撮るグロテスクさは撮影の技だ。
たとえそれが身内であったとしても、この汚れた手を赦しちゃいけない。
隠してはいけないのだ。