「絶望的な神話を抱えて」ドッグヴィル おたけさんの映画レビュー(感想・評価)
絶望的な神話を抱えて
映画のつくりがおもしろく、消して心地良い気分にはならないものの、数年置きに見てしまう作品。
今回は三度目。
舞台はある一室の中で展開するが、ムラ社会の閉塞感が描かれる。
これまでは映画のつくり自体やムラ社会的な描写に注目していたが、見終わった後にパートナーと映画についてあれこれ話す中で、この物語の神話的な側面に気づく。
グレースがドッグヴィルに来てはじめに犬の骨を盗むシーン、荷台に転がるりんごを口にするシーンからは、アダムの肋骨や禁断の果実を口にするイヴなどがイメージされる。
村人たちに無理な労働を求められ、レイプされ、首輪と重りを付けられても抵抗しないグレースは、キリストの受難を思い起こさせる。
グレースとギャングのボスである父の会話は、ドッグヴィルの村人たちの会話とは異なる奇妙な雰囲気で、どこか人間離れした内容にも思える。
グレース一家を人間を超える存在として捉えると、物語は神話のようにも思えてくる。
また光の描写が興味深い。
村人の中に障碍がある人物(肢体不自由、盲者、知的障碍、おそらく発達障碍)が何人か描かれるが、この中でも盲である男性との関わりは印象的だった。
あまり外出せず、村人たちに盲であることを隠そうと振る舞う男性は(しかし村人たちは彼が盲であることを知っている)、グレースとの会話の中で見えていた物について語る。
初め村人と同様に盲であることを隠そうとしていた男性は、グレースとの関わりの中で、自ら盲であることを口にする。
この印象的なシーンには、いつも締め切られていた男性の家のカーテンが開けられ、夕陽が差し込む。
そして物語の最終章節の、グレースが父の車から降り、いま一度ドッグヴィルを見渡す時、月明かりが村全体を照らす。
これまでドッグヴィルの村人たちを許し父の元でなく再びドッグヴィルに帰ろうとしていたグレースは、月の光に照らされた村を見て、グーズベリー木は棘だらけで実ることなど想像できないとナレーションが入り、村への希望を失ったグレースは、村を焼き尽くす。
盲者やグレースが、これまでのあり方から変化する時のきっかけには、光がある。
思い込みや偽りから、真実を暴く光。
光の持つ意味がとても興味深い。
物語は人間の罪深さが神的な存在によって裁かれる展開を迎えたが、この映画は人間への絶望では終わらせてはくれない。
エンドロールの写真たちは、一見映画とどのような関係が?と思ったが、ここには神話ではなく、現実の世界で苦しみ、生きる人々が写される。
絶望的な神話を抱えたまま、現実世界に帰される。