「病者にも死を、と私は考える」39 刑法第三十九条 きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
病者にも死を、と私は考える
病者にも死を、と私は考える
我が子、あるいは私自身が当事者であったとしても。
「心神喪失」ないし「心神耗弱状態」の者が重大犯罪を犯した場合、
犯人が“病人”として弁護され、検察は法文に従ってそれを飲み、結果無罪で放免される「39条システム」。
しかし我が子、あるいは私自身が当事者であったとしても、それでも敢えて「病者にも死を」、と私は考えるのだ。
病人ではなく“一個の完全な人格”として重んじて私を、また我が子を、死刑に処してもらいたい
・・これが常日頃から私が考えていたこと。
心疾患患者=イコール「罪を償う資格さえない半端者」と、国家が一部の国民をみなすことへの重大な人権蹂躙を、私は受け入れる事は出来ないから。
(↑ここまでが映画鑑賞まえに書いた部分)。
以下は鑑賞後のレビュー↓
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堤真一は39条の欺瞞を暴いた。被害者無視の法制度の欠陥を突いて。
鈴木京香は鑑定人としての立場から詐病を見抜けない精神鑑定の限界を明らかにしようとした。
この二人の挑戦は見ものだった。
図らずして共闘だったと堤は言った。
レビューを書く前の私の意向に沿ってくれていたと思う。
しかし心は揺れる。
じっくり映画を見つめていると自死を選んだ鈴木京香の父親の影や精神を病む母親との同居は 患者と家族の日常生活を割り切れない現実として映すし、
他人になりすまして復讐を果たそうとする堤が“正常”であったかわからなくなってくる。
そしてこの映画には犯人の家族はほとんど登場しない。
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猟奇事件の犯人になってしまった患者=少年=の家族の側から(その苦悩を主題に)この作品が撮られていれば、物語の様相はまたガラリと変わっただろう。
しかしここではそこに触れずに、ぶれずに、監督の森田芳光は徹底して法論議に徹して撮りきったことなのだと思う。
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“病者”だからガス室へ(ドイツ)。
“病者”だから患者にも政治犯にもロボトミー施術を(米ソ、各国)。
国家が“病人認定”することで人間を抹殺してきたこの恐ろしい歴史を人類は背負ってきている。
それを教訓として
疑わしきは罰せずの原則、そして
安易に法の行使を国家に許さないタガとしての役割、
これも基本的人権の遵守に依拠する「刑法39条」の存在意義だろう。
【病人ゆえに赦すか】
【病人ゆえに亡き者にするか】
これがギリギリ裏腹である危険性を思いつつも
【裁く責任】と
【裁かれる権利】について、
鈴木京香と堤真一が法廷で突いた問題提起は「そもそも人間の尊厳とは何なのか」を我々に問うていることは確かだ。
全員が聞き取れないほどの小声。
みんな病者に見える。
裁判官も裸体だ。
法の ひ弱ささが露呈されていた。
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重たい問題提起を見させられた。
そして鑑賞後に私は思うのだ ―
(冒頭述べた)自分自身が裁かれることになったあかつきに、
あるいは我が子が被告として法廷に立たされる日がもしも来てしまったあかつきに、
私は勇ましく理想を主張する自信がなくなってしまった気がする、
そして
「お願いです、病気だったのですから助けて下さい!許して下さい!」
ときっと懇願して叫んでしまうだろうなぁと思うのだ。
裁かれる権利とか
被害者のことは一切忘れて。