さらば、わが愛 覇王別姫のレビュー・感想・評価
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比類なき誠実さと残酷さで、人を描いた作品。
◯作品全体
凄まじい映画だ。2時間50分という長尺の本作だが、あっという間だった。見終わったあと、感嘆のため息をついてしまった。
違う国、違う時代に生きる登場人物たちだけれど、それぞれの感情と心の根幹にあるものの生々しさに、誇張でなく目が離せなかった。
登場人物が心の奥底に作る「核」を描き、その「核」を再び抱きしめるような作品が好きだ。
他人からすればどうでもいいように思えることも、その人物にとってはとても大切なもので、いろいろなものを手にして、失ったあとに「核」に触れることで自分自身を見つめ直すような、そういった主観的な風景を大切にする作品が好きだ。
本作における主人公・小楼と蝶衣の「核」は、辛く苦しい幼き日々だ。家族もいなければ金もない彼らにあるのは、厳しい環境で励ましあう仲間との日々と京劇役者となって成り上がる未来への渇望しかない。大人になって地位や名誉、家族を手に入れた後はそれらが隠れてしまうが、最後の最後に残るのは「核」の部分。ラストシーンで二人が語る幼き日の思い出と、二人で舞う覇王別姫、そして倒れた蝶衣に対して幼名である「小豆子」と呼びかける小楼の姿こそ、二人が大切に抱えていた「核」と言えよう。
残った「核」を映した刹那、エンドロールが流れるのも素晴らしい。「これ以上残ったものはなにもない」と、エンドロールが非情に、強烈に語る。
二人の絆と、大切に抱えたものを語るラストが、あまりにも、あまりにも素晴らしかった。
「核」の演出と合わせて凄みを感じたのは、主要な登場人物を記号化させない徹底っぷりだ。それぞれの持つ特徴をデフォルメせず、「覇王」でも「妃」でもない、一人の人間であることを感じさせる。
例えば小楼。面倒見の良い兄貴分として、気風の良さが印象に残る人物だ。短気な部分もあるようだが、その勢いの良さは長所でもあるし、人に囲まれたその姿は「覇王」役としてふさわしい。娼妓出身の妻・菊仙のこともとても大切している好漢だ。こういう人物が窮地に陥っても「覇王」たる堂々とした姿を見せるのがセオリーだろう…しかし、本作では違う。彼は「覇王」ではないのだ。それは小楼自身が何度も蝶衣へ話すように、「覇王」は「芝居の話」なのだ。彼は貧困出の一役者に過ぎない。せっかく苦しい時代を生き抜いてきたのに、「自己批判」によって命を落とすなんて選択肢はできないのだ。小楼は菊仙や蝶衣を批判し、秘めた本性をぶちまける。そこに人物の軸のブレはなく、人として当然の弱さを見せただけなのだ。
とても苦しく、小楼からすればみっともない場面だが、これほどまでに人を人として描いている作品はないと感じた。物語としては潔く口を閉ざして死ぬほうが「綺麗なストーリー」だろう。でもそうはさせなかった。その徹底っぷりが、本当にすごい。
この作品はどこまでも誠実に、そして残酷に人を描いている。その情熱に、ただただ感服するほかない。
〇カメラワークとか
・全体的にモチーフを反復させることが多い。京劇の会場を舞台側から広角に映すカットが一番印象に残った。蝶衣がスターだった時の活気ある会場から、日本軍に接収された後の日の丸が広げられた厳粛な空気、秩序のない国民軍が支配する空間、儀式の一つとされてしまった共産党時代。同じようなレイアウトで映すことで時代の移ろいを強調していた。
・モチーフでいうと、小楼の煉瓦割りとか菊仙の飛び降り、口移しで酒を飲むとかも、二度目にその行為をする時には別の意味になっていたりした。
・登場人物のフィルターとなるようにガラスや布、水を最前で映すカットが多かった。画面の不自然さがそのまま精神の不調を示唆する演出になっていた。
・ファーストカット、逆光の中歩いてくる二人のカットの演出も巧い。威厳を感じる姿として登場するけど、実は古びた体育館で練習をしようとする二人で、用務員にも腰が低い。シーン終わりで照明により影が小さくなっていくところもそうだけど、「虚像」という言葉を印象付ける演出だった。二人は覇王でも妃でもない、という虚像。
〇その他
・明確な悪役を作らなかったところがすごいな、と思った。主人公二人にとって危害を加える登場人物は何人も出てくるんだけど、その人物たちは明確な悪であったり、「倒すべき相手」ではない。蝶衣を汚す張翁は二人が成り上がるのに必要な悪だし、袁世凱も二人の仲を引き裂こうとする素振りはあれど、逆に救い出す立場にあったりする。蝶衣が拾った小四も蝶衣たちを貶める行為はしたが、最後には恩を感じて涙を流していた。小四をはじめ、共産党の党員たちは時代が作り出した悪であり、個人による悪ではなかった。そうすることで物語の軸を「悪との戦い」ではなく「主人公二人の生きざま」で一貫させていた。ブレない物語だから、心に響くのだと思う。
・日本軍の映し方も印象に残った。それこそ悪として誇張されてもおかしくないけど、京劇の理解を示そうとするような存在だった。でも決して善人ではなくて、中国人を虐殺する姿もしっかりと映す。日本人だからどうこうでなく、その時代の日本軍という異常さを映したかったのではないか、と感じた。
・小楼の妻・菊仙の存在もステレオタイプな要素がほとんどなくて、キャラクターの造型が見事だった。単純に主人公二人の仲を妨害するわけではなく、自身が幸せになることを考え、最良であると判断したうえで行動していることがわかる。菊仙の「核」は「普通の幸せ」であることは作中でも語られていて、その幸せが担保されているのであれば、周りの人をいたわる感情も常に持ち続けている。
小楼と対立するシーンを作れば中盤の山場になったのかもしれないし、小楼の挫折を描けるのかもしれないが、そういった安直な悪女としていないところに、巧さを感じた。
・「女方」とか同性愛という題材は、個人的に正直一歩引いてしまう題材なんだけど、それでもこれだけ刺さったと言うことは、間違いなく傑作なんだな、と思ったりもした。
暴力と芸
紛れもない傑作。
20年ぶりに見ました。その前に一度見ているので三回目です。しかしスクリーンで見たのは今回が初めてです。
20年前はレスリー・チャンの死去に際して、追悼の気持ちで見ました。
蝶衣の小楼の関係や、京劇という伝統芸能を中国の激動の現代史の波の中に置く重厚なストーリーに目を奪われがちですが、久しぶりに見て気づいたのは、これが「芸」とさまざまな暴力にまつわる話だということです。
師匠からの体罰に始まり、戦争や文化大革命へと、暴力が形とスケールを変えながら主人公たちを取り囲み続け、それが「覇王別姫」のストーリーと融合し(ラスト近く、まさに「四面楚歌」という場面に至る)、最終的には自己への暴力に集約されてしまう。
それは同時に蝶衣が虞姫に真に成り切る瞬間でもあり、
いわば彼の「芸」の完成の瞬間でもあるという、なんともやるせなくドラマチックな展開と演出です。
12月にブルーレイも出るということですし、今後も何度でも見直す作品になると思います。
しかし、この映画でも「戸田語」にはげんなりします。どうにかしてほしい。
惜しむらくは
母に捨てられ京劇の養成所で育った小豆子。彼が生き抜けたのは石頭がいたからなのだ。時には庇い時には泣きながら叱咤してくれた彼なくしては、そして京劇なくして小豆子には生きる意味がない。
この覇王別姫を貫いたのは、一振りの剣でこれさえあれば虞美人は自刃せずに済んだかもしれないといういわくのあるもの。この剣が、石頭を想う小豆子の運命を翻弄する。小豆子は女形として心も女にならなければならない。そうして成長した蝶衣は小樓(石頭)を愛しているしかけがえのない存在としてみている。しかし情愛の関係が成立するのは舞台でだけなのだ。蝶衣は自分の恋情を隠しただ指をくわえ見続けることしかできない。なまじ親しい近い存在なだけのほとんど罰を与えられているかのよう。
蝶衣の叶わぬ恋情の50年ではすまないのがこの作品の深さだと思う。世が世なら切ない恋の物語で済んだかもしれないが、時代が彼らにそれを許さない。日中戦争、国共内戦、共産政権樹立、文化大革命と時代と権力に翻弄され、裏切り、憎しみ、怒りを抱きあい、そして京劇すら奪われていくことになる。
この映画は、覇王別姫という王と愛妃の悲恋という劇を演じる蝶衣と小樓が描かれるが、それを演じるのはレスリー・チャンとチャン・フォンイーという俳優なわけで、ここがちょっと個人的には思うところがあって。レスリー・チャンのチャン・フォンイーについての発言を聞くと、香港と中国の俳優という価値観や演技スタイルの差もあったのかもしれないが、レスリー・チャンにとって小樓を愛する演技に微塵の影響もなかったのだろうかと。レスリー・チャンが雑念なく蝶衣になれるキャスティングで観たかった気がしてしまう。濃密な原作を踏まえた素晴らしい映画なことは言うまでもないので、そうであればもっとすごいものになったかもしれないなと。
二人の年月を大雑把に語る小樓と訂正する蝶衣が切なかった。最後の舞台のために、蝶衣は十分生きたとも言えるのかもしれない。
愛憎の50年史
第46回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作。
Amazon Prime Videoで鑑賞(4K修復版,字幕,レンタル)。
原作は未読。
レスリー・チャンの存在感に惹きつけられっぱなしの濃密な2時間51分。時代の流れに翻弄された愛と憎しみの50年の物語は、壮大な叙事詩的感動を齎してくれました。
背景となっている中国の歴史の知識が殆ど無かったので(特に文化大革命の部分)、もし知っていたらより深く物語を理解出来たかもしれないのにと思うと悔やまれます。
[余談]
小楼役の俳優、どこかで見た覚えがあるなと思ったら、「レッドクリフ」の曹操でした。今もあまり変わらないなぁ…
※修正(2024/04/13)
儚くも、たくましい。
学校で習った四面楚歌の漢文は、あくまで「漢文」であった。京劇の特徴的な賑々しい楽器の音色、甲高い流れるような歌声、中国語のリズムと響きで語られるセリフ、煌びやかな赤、赤い、世界観。それはやがて共産党の赤に変わっていく。これは中国の近代史を描いた映画だ。
レスリーチャンの息を呑むほどの美貌と切ない恋心は、紛れもなくこの作品の大きな魅力であり成功した理由の一つだが、中国という国の歴史を知ることなくしてはその魅力を十分に味わい尽くすことは難しいだろう。私は中国の近代史はサッパリで、紅青が京劇を目の敵にしていたから余計に弾圧されたとか、自己批判のシーンで小楼がもし黙っていたら拷問されて殺されるというのは分かる程度。四人組ってなに?て感じである。詳しければもっと違う感想になったかもしれない。
そんな中国史をよく知らない人間が精いっぱい想像するに、中国の歴史はいわばクーデターの繰り返しだ。数千年の間、王朝が変わる度に動乱に翻弄されてきたこの国の人々には、一種の諦念のようなものを感じる。作中でも「人にはそれぞれ運命がある」というセリフが出てくる。ただでさえ、あの広大な大地と厳しい自然環境下である。民が生き抜くことは想像以上に過酷だったと思われる。しかしその一方で、だからこそ、何が起ころうと、何としても生き抜こうとする力強さを感じずにはいられない。若い可愛いらしいコン・リー演じる菊仙が自死した時、こんなに悲しいのは、彼女が生命力に溢れ、強くて逞しい女性だったからだと思う。
思い出すのは、昔、もう数十年前になるがとある中国人から聞いた話だ。「日本人は桜が好きだが、中国人は梅を好む。梅は2月の最も寒い雪の降る最中に真っ先に咲き春を知らせる、その香りは素晴らしく、簡単には散らない。いつまでも枝にこびりついて、最後は全て地面に散った後も、その香りが周囲に漂う。中国人の美意識は日本人とは全く違いますよ」と。(監督のチェンカイコーは北京生まれである)
予想通りのエンディングでも、気付けば自然と目頭を熱くしている自分を発見する。蝶衣たちの人生が、血潮が、その熱をまだ帯びて、確かな存在感を私たちにいつまでも残すのである。
中国人のDNAが覇王別姫で泣けてくるのだとしたら、日本人なら何だろう?平家物語?忠臣蔵か??京劇は若い頃に孫悟空しか見たことがなく、アクロバット楽しいなくらいしか思わなかった。今ならもう少し京劇の面白さを感じる自分になっているだろうか。
菊仙が一番好き。
高校の時、何この映画〜ってノリで観て本当に感動しました。 そして今、大学生になって、有楽町で4kで観てきました。
菊仙、最初の方は嫌な奴なんです。だけど、最後の方は母のような優しさが滲み出てて、それが大好きです。阿片で寒い寒いと苦しんだ蝶衣を抱きしめた菊仙は、失った赤子の影を蝶衣に見ていたのかな。母性のようなものがあの時あったのかなと思います。
そして蝶衣も、母と同じ遊女だった菊仙に、母親を見てる。自分を捨てた母をずっと恋しく思っていたんだろうなと思います。
そして文化大革命の時、「春を売っていた、この女を殺せ!」って言ったのは、菊仙をよく思っていなかったのもそうだろうけど、やっぱり、自分を捨てた母への怒りだったのかな…と思う。本当に切ない物語です。
実らぬ愛の儚さ
映画『さらば我が愛/覇王別記』そのスケール、激動の中国近代史中で、京劇役者として必死に生きる主人公。そして、決してみのることのない愛。すべてが悲しいのだけど、ひたむきに生きる人間だけが到達できる境地をみせてくれる。人間のはかなさ、弱さを見せつけられる。
芸人という哀れさ
職業で、差別してはいけないという。
確かに、今の時代は、そうなのですが。
そうなったのは、ほんの僅か前のこと。
それまでは、あきらかに職業による上下関係は、存在していた。
いまだって、なくなったわけではない。
建前として、なくなっただけのことに過ぎない。
おおよそ、芸で身を立てるとは、どんなことか。
それは、この映画を見れば、すべてがわかる。
つまり、他に売るものがないという、最下層の人の従事するもの。
『覇王別記』は、親に捨てられた子供は、どうやって生きてゆくか。
そこに、芸能というものが存在する。
彼らは、最も弱い立場にいる。
芸も売れば、体も売る。
これが、芸能というものの長い歴史。
ジャニーズを見れば、一目瞭然
いま、世を騒がす、ジャニーズ問題。
少年にたいする、性的加害。
彼らは、被害者だと、盛んに声をあげている。
そうだろうか、彼らは、その場に進んで加わったはずだ。
そんなことがあるなんて知らなかったと、彼らは皆口を揃える。
ホントだろうか、噂にしろ、暴露本にしろ出ていたはずだ。
親たちだって、うすうす知っていたはずだ。
スターになる夢と引き換えに、受け入れていたはずだ。
いやなら、なぜ拒否したり、逃げ出さなかったのか。
スターになっていたら、今回のような暴露をしただろうか。
例えば、養護学校の先生だとか、相手が逃げられない状況にいる者に対する行為は、大いに問題だ。
でも、彼らの場合は違う。
芸能人として生きてゆくというのは、そのような危険が、あるということ。
それは、今も昔も本質的には、変わらない。
ただ、現代では、青少年に対する性的加害が、国際的に厳しく糾弾されるという流れが、あるということに過ぎない。
京劇の役者になる以外、生きる道がなかった。
この映画の素晴らしいところは、いくつもあるが、あえてあげれば、オープニングとラスト。
まるで、計算されたかのように、出だしで、一気に聴衆を引き込んでおいて、ラストまで突き抜けてゆく。
映画とは、こうあるべきとでも言いたげな、見事な流れ。
親に捨てられた少年が、役者としての生きる道しかない。
それも、自らの性とは、反対の女形として。
やがて、彼の人生の長い戦いが、描かれてゆく。
決して実ることのない愛が、じつに悲しい。
そして、激動の中国近代史。
まさに、一人の人間が、歴史に翻弄されながらも、自らの歩みを結実させようとする。
そんな、ひたむきさと現実の残酷さが、見事に、物語になっている。
誰でも、自らの人生において、この作品はどうしても外せないというものがある。
まさに、『覇王別記』は、そんな作品の内の一つである。
さんざしの砂糖漬け
レスリー・チャンの程蝶衣の子役時代の名前は小豆子。遊郭で働くシングルマザーが子供をどうにか引き取ってもらおうとする冒頭のシーン。その子役の子はどう観ても女の子。手の指が一本多くて、母親(ジァン・ウェンリー)に料理包丁で切り落とされるあの子です。あの子のややつり上がった強い眼差しがとてもよかった。石頭が淫売の子といじめられる小豆を庇うシーンになると、すっとした顔の細身の華奢な中性的な男の子になるので、あれっさっきの娘は?ってなってしまいました。コン・リーの演じる菊仙の子供時代だったのかな?としばらく混乱してしまいました。この映画のコン・リーは百恵ちゃんに似た雰囲気でちょっとたまりません。
石頭の機転で脱走してしまうもう一人の子供(小癩)はさんざしの砂糖漬けを頬張れるだけ頬張って首を吊って自殺してしまいます。うんと悲しいです。1920年代の中国の京劇学校は雑技団やサーカスのよう。親が手放した子供やストリートチルドレンを訓練させていたんでしょうね。たくさんのエキストラを使った前半から、芸術的な映像とテンポのいいカットでどんどん引き込まれました。レスリー・チャン死後20年での4Kレストア版を劇場で鑑賞しました。
京劇のセリフを間違え体罰を受けるシーン。尼僧が緑の黒髪を・・・男として生を受け・・・のくだり。女の子なのに男子と偽ってもぐりこんだから、わざと間違えるのかな?と思ったりしました。
ブエノスアイレスが公開された1997年にカミングアウトしたレスリー・チャン。歌手でデビューして、吉川晃司のモニカや百恵ちゃんのさよならの向こう側のカバー曲がヒットしたんですね。折しもジャーニー喜多川問題が国連で取り上げられることになったこともあり、国民党の有力者で京劇界の重鎮(袁)などと幼い時からそっちの関係に引き込まれたことがダブってしまいます。ジャーニーのおかげでまるで日本が○○天国みたいに思われるのは嫌ですね。フォーリーブス(おりも政夫、北公次)のことはは私はかなり衝撃を受けたのですが、当時のマスコミは腫れ物をさわるようにスルーしてしまったような記憶があります。
戦前戦後の内乱から文化大革命を経て50年にわたる程蝶衣と段小楼の生涯を菊仙を交えて描いた作品ですが、単なる三角関係というよりも、アヘンからの離脱に苦しむ蝶衣を母親のように抱擁する菊仙を観ていると、なおさらこの三人の関係は悲し過ぎます。個人的には後半は政権の移り変わりや文化大革命前後の時間経過がとても早いので、前半の部分のほうが好き。
見るたび視点と感想が変わる秀作
覇王別姫は、何回観ても色褪せない。
初見は大学2年生のとき。当時は【蝶衣の嫉妬】という限られた視点でしかこの映画を味わえてなかったことに気づく。
アラフォーになった今、あらゆる人物に感情移入しながらの鑑賞で心が忙しい。
人生を賭けて打ち込んできたものへのプライド、守るべきもの、憎き相手が実は自分を投影した瓜二つの存在と気づいたときの引き返せなさ。大切な物を裏切らないと生きていけない世界。
嗚咽しました。
何より、美しいレスリー・チャンをもっともっとたくさんの映画で観たかった。息を呑みました。
天才は早くに天国に呼ばれてしまう…。
今このタイミングで観劇できて本当に幸せでした。また10年後に観たい映画です。
ジャニー問題を感じさせるなぁ
狭い芸能の世界で起こる愛憎劇は、所々ジャニー問題を思い出した。
レスリー・チャンの演技が艶めかしくて良かった。
何で小楼は最後奥さんを裏切ったのか分からなかった。
京劇の歴史 または中国の近代史
一番悲しかったのは一生を決められた主人公は最後まで自分の運を受け入れなく 自分は本物の姫 如何せん前の覇王は偽の覇王。
京劇の歴史から見ると 二人主人公の感情を表した。それをと共に中国の満州時期→中日戦争→政府と国民の内輪もめ→文化大革命という悲しい背景が同情し 新たな観点が出来られた。
人も芸術も本来の姿を失う中、彼は本物の姫になった
出だしから中国の貧困というものを見せつけられ、金のない者、女、子供の生きて行く手段が限られていく中、レスリーチャン演じる小豆子が京劇という芸術に心身、全てを捧げて生きて行く決心をする。
反対に兄の石頭は石頭は現実というものを分かっているのか遊郭にも足を運んで舞台と私生活を割り切っている、二人の姿が対照的です。
女郎と結婚した石頭ですが、そのことで弟と決別してしまい、京劇、舞台からは離れられない。
「俺は役者だ」という男は大人になって別れても弟のことが大事なのはわかる、けれど、それが蝶衣とってどれくらい残酷なことかわかっていないのではと思うのだ。
蝶衣が行き場のない小四を引き取って、かっての師匠と同じように折檻、いや、修行して罵られる姿に似ていると思ったのだが。
でも同じではない、蝶衣には誇りがあった、別姫を演じ、京劇に対する自分に。
世の中が変わり、妻は自殺、一人になった段小楼、そして再び、二人で舞台に立つ日が来る。
でも、昔と同じではない、衰えを感じる小楼とは反対に蝶衣は美しい。
軍に捕まり、酷い目に遭い、アヘンで身を滅ぼしかけても立ち直って再び舞台に。
もしかしたら蝶衣は小楼の衰えを、これ以上、見たくないと思ったのかもしれない。
いや、自分の気持ちが変わっていくことを恐れたのかもしれない。
だから自分だけで逝くことにしたのかもしれない、そこには小楼がいる、現実ではないが、自分の記憶の中の彼が舞台の上で待っている。
彼は本物の姫になったのかもしれない。
【謝罪、センシティブです】※(おそらく)ニッチに向けて書きます
努力なんか馬鹿馬鹿しい。
天才だからできるんだ。
どうせ自分はできないから、何もしないでいいや。
そう思っている方々に聞いて欲しい、
いや、
観てほしい映画。
主人公の同期の子が首つり自○してしまうシーンあると思いますが、
あの子が生前、言っていた言葉を、
とにかく、
頭の中に刷り込ませて聴いていただけたら、と思います。
……主人公に肩車されて、涙をたくさんこぼしながら
『あの人は、どれだけ多くの、鞭を食らって、今、ここに立っているんだろう……』
今。
現在、陽の目を浴びている、同い年くらいの人がいて。
嫉妬したとします。
でも。
でも、
その裏には、冗談ではなく、
血反吐を吐くような努力をした…
その、結果を披露してくれている事が、
往々にあるかもしれません。
この時点で認めることが困難な人がいるかもしれませんが、事実です。
結局、努力、努力なんです。
なにかしようとしたら……。
『は? 今更、なに当たり前のこと言ってんの?』
そういう声もたくさん聞こえてきそうですが、
それが出来ない人も一定数、います。
います。
その人たちに言いたい。
陽の目を浴びるとは、こういう事です…。
結局、努力しかないんです…。
天才だからラクに物事をそつなく出来ている、
訳ではないんす…。
おかしな道に進もうかどうしようか
悩んでいる方々がいたら、
一度、
この映画を観て欲しい。
そして、
自分と、大変だけど
向き合って欲しいです。
(目標、選択、戦略、といったことも大事ですし、
努力していく中で失敗していくこともあります。
それらを、踏まえた上で
)
がんばれ。
おかしな道に、
進まないで。
この映画は、あなたを追い詰める最悪の映画じゃない。
【倫理や人の道にはずれない、最良の道】
を教えてくれる映画、のはず。
エグい
久々に鑑賞
京劇の覇王と虞姫を演劇の世界に身を投じた男2人が演じる
弟は男を捨て女と化した。もう片方は夜の世界の女と結婚する。ただ弟はそれを許せない。兄とずっといたい
最後の方に文化大革命が起こった際に、弟が夜の世界の女の過去を言ってしまう。その時に結婚していた兄が、このそこを認めてしまうのは裏切りと感じた。最後まで守るべきであろう。大きな力にびびってしまったか、、、
これこそ『四面楚歌』だ
『師匠、時代が違うんだ』
さて、今の中国はどんな時代なのか?
文化大革命を打倒したからと言って、今の中国が民主的な国とは言えない。
無骨で融通の利かない男の話と言うよりも、やはり、3人の愛の形の話なのだと思う。毒々しくも純愛だ。
政治的な話を語っているのだと思うが、それをあえて指摘するのは、無粋かなぁって思った。兎に角、
凄い愛憎のストーリー展開だ。思い出すと泣けてくる。
大傑作。
言うなら、これこそ『四面楚歌』だ
歴史に翻弄される芸術と友情
日本占領、国民党国家、共産党革命、そして文革。強大な国土を翻弄してきた歴史の中で、主人公たちの人生が大きく揺れ動く。なかでも、ヒステリックな文革は、人間性とか信頼を妬みや密告といった人間の弱さによってさらに増長する。妻を告発しなければならない状況は悲しく辛い。
物語は、覇王別姫のラストシーンでようやくホッとする。ただ、友情を超えた愛情関係は、やや同性愛的でもあり、どうも苦手だ。
激しく、切なく、美しい愛の物語
久々に心底、「観てよかった」と思った傑作。
京劇「覇王別姫」を軸に、蝶衣・小楼・菊仙の愛憎劇と近現代の中国を壮大に描き、しかも見事にバランスが取れている。
レスリー・チャンが演じる蝶衣の性別を越えた美しさは奇跡的!「美しい」という形容詞では足りないほどの存在感‼
蝶衣の演劇でのパートナー・小楼への叶わぬ愛と憎しみ、小楼の妻・菊仙への激しい嫉妬、そんな自らへの絶望と苦悩。
そして時代や体制が変わっても失う事のない京劇への矜恃。
まるで人生や魂が「覇王別姫」の虞姫とリンクしていくようで圧倒される。
単純に、同性愛やボーイズラブと言う言葉では括ることができない格調高く、哀しい男たちの物語です。
愛憎劇
歴史的背景を理解していれば素晴らしい作品であろうが、私の頭では歴史についていけてない。
淫売女が子供を無理やり劇団に置いていく。
子供は厳しい修行という名の虐待を日々受けながら成長し、見事に主役を射止める。
京劇の女形。身も心も女になりきるうちに、兄と慕う覇王役に依存する。
見ているうちに男である事を忘れるほど美しい。
嫉妬に狂い、戦争に巻き込まれ、阿片中毒になり、まさに時代に翻弄させられ続けた人生。
京劇のラストシーンと同じ末路を辿ったであろうラストは見事です。
見ごたえのある長編
大好きな映画です。
小さな時に一度見ましたが、その時はストーリーがよくわからず
大学生になってからもう一度見ました。
レスリーチャンの美しいこと…!
当時レスリーチャンがすごく好きになり、調べ、もうこの世の人ではないことを知って
大変ショックを受けたことを覚えています。
京劇のシーンがしょっちゅう出てくるのもおもしろい。
ラストシーンも衝撃的です。
とても長い映画なので、根気はいりますが見て損はない作品かと思います。
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