さらば、わが愛 覇王別姫のレビュー・感想・評価
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比類なき誠実さと残酷さで、人を描いた作品。
◯作品全体
凄まじい映画だ。2時間50分という長尺の本作だが、あっという間だった。見終わったあと、感嘆のため息をついてしまった。
違う国、違う時代に生きる登場人物たちだけれど、それぞれの感情と心の根幹にあるものの生々しさに、誇張でなく目が離せなかった。
登場人物が心の奥底に作る「核」を描き、その「核」を再び抱きしめるような作品が好きだ。
他人からすればどうでもいいように思えることも、その人物にとってはとても大切なもので、いろいろなものを手にして、失ったあとに「核」に触れることで自分自身を見つめ直すような、そういった主観的な風景を大切にする作品が好きだ。
本作における主人公・小楼と蝶衣の「核」は、辛く苦しい幼き日々だ。家族もいなければ金もない彼らにあるのは、厳しい環境で励ましあう仲間との日々と京劇役者となって成り上がる未来への渇望しかない。大人になって地位や名誉、家族を手に入れた後はそれらが隠れてしまうが、最後の最後に残るのは「核」の部分。ラストシーンで二人が語る幼き日の思い出と、二人で舞う覇王別姫、そして倒れた蝶衣に対して幼名である「小豆子」と呼びかける小楼の姿こそ、二人が大切に抱えていた「核」と言えよう。
残った「核」を映した刹那、エンドロールが流れるのも素晴らしい。「これ以上残ったものはなにもない」と、エンドロールが非情に、強烈に語る。
二人の絆と、大切に抱えたものを語るラストが、あまりにも、あまりにも素晴らしかった。
「核」の演出と合わせて凄みを感じたのは、主要な登場人物を記号化させない徹底っぷりだ。それぞれの持つ特徴をデフォルメせず、「覇王」でも「妃」でもない、一人の人間であることを感じさせる。
例えば小楼。面倒見の良い兄貴分として、気風の良さが印象に残る人物だ。短気な部分もあるようだが、その勢いの良さは長所でもあるし、人に囲まれたその姿は「覇王」役としてふさわしい。娼妓出身の妻・菊仙のこともとても大切している好漢だ。こういう人物が窮地に陥っても「覇王」たる堂々とした姿を見せるのがセオリーだろう…しかし、本作では違う。彼は「覇王」ではないのだ。それは小楼自身が何度も蝶衣へ話すように、「覇王」は「芝居の話」なのだ。彼は貧困出の一役者に過ぎない。せっかく苦しい時代を生き抜いてきたのに、「自己批判」によって命を落とすなんて選択肢はできないのだ。小楼は菊仙や蝶衣を批判し、秘めた本性をぶちまける。そこに人物の軸のブレはなく、人として当然の弱さを見せただけなのだ。
とても苦しく、小楼からすればみっともない場面だが、これほどまでに人を人として描いている作品はないと感じた。物語としては潔く口を閉ざして死ぬほうが「綺麗なストーリー」だろう。でもそうはさせなかった。その徹底っぷりが、本当にすごい。
この作品はどこまでも誠実に、そして残酷に人を描いている。その情熱に、ただただ感服するほかない。
〇カメラワークとか
・全体的にモチーフを反復させることが多い。京劇の会場を舞台側から広角に映すカットが一番印象に残った。蝶衣がスターだった時の活気ある会場から、日本軍に接収された後の日の丸が広げられた厳粛な空気、秩序のない国民軍が支配する空間、儀式の一つとされてしまった共産党時代。同じようなレイアウトで映すことで時代の移ろいを強調していた。
・モチーフでいうと、小楼の煉瓦割りとか菊仙の飛び降り、口移しで酒を飲むとかも、二度目にその行為をする時には別の意味になっていたりした。
・登場人物のフィルターとなるようにガラスや布、水を最前で映すカットが多かった。画面の不自然さがそのまま精神の不調を示唆する演出になっていた。
・ファーストカット、逆光の中歩いてくる二人のカットの演出も巧い。威厳を感じる姿として登場するけど、実は古びた体育館で練習をしようとする二人で、用務員にも腰が低い。シーン終わりで照明により影が小さくなっていくところもそうだけど、「虚像」という言葉を印象付ける演出だった。二人は覇王でも妃でもない、という虚像。
〇その他
・明確な悪役を作らなかったところがすごいな、と思った。主人公二人にとって危害を加える登場人物は何人も出てくるんだけど、その人物たちは明確な悪であったり、「倒すべき相手」ではない。蝶衣を汚す張翁は二人が成り上がるのに必要な悪だし、袁世凱も二人の仲を引き裂こうとする素振りはあれど、逆に救い出す立場にあったりする。蝶衣が拾った小四も蝶衣たちを貶める行為はしたが、最後には恩を感じて涙を流していた。小四をはじめ、共産党の党員たちは時代が作り出した悪であり、個人による悪ではなかった。そうすることで物語の軸を「悪との戦い」ではなく「主人公二人の生きざま」で一貫させていた。ブレない物語だから、心に響くのだと思う。
・日本軍の映し方も印象に残った。それこそ悪として誇張されてもおかしくないけど、京劇の理解を示そうとするような存在だった。でも決して善人ではなくて、中国人を虐殺する姿もしっかりと映す。日本人だからどうこうでなく、その時代の日本軍という異常さを映したかったのではないか、と感じた。
・小楼の妻・菊仙の存在もステレオタイプな要素がほとんどなくて、キャラクターの造型が見事だった。単純に主人公二人の仲を妨害するわけではなく、自身が幸せになることを考え、最良であると判断したうえで行動していることがわかる。菊仙の「核」は「普通の幸せ」であることは作中でも語られていて、その幸せが担保されているのであれば、周りの人をいたわる感情も常に持ち続けている。
小楼と対立するシーンを作れば中盤の山場になったのかもしれないし、小楼の挫折を描けるのかもしれないが、そういった安直な悪女としていないところに、巧さを感じた。
・「女方」とか同性愛という題材は、個人的に正直一歩引いてしまう題材なんだけど、それでもこれだけ刺さったと言うことは、間違いなく傑作なんだな、と思ったりもした。
チェン・カイコー監督の抵抗‼️
中国激動の時代に生きた、京劇俳優の程蝶衣と段小樓。女形の蝶衣は段小樓を愛していたが、彼は娼婦と結婚してしまう・・・‼️今作はチェン・カイコー監督の、と言うよりは中国映画を代表する傑作ですね‼️京劇という芸術の世界が、戦争によって破壊されようとした時代を背景にしたストーリーなんですけど、前半は京劇の学校で厳しい訓練に耐える主人公二人の友情、後半は時代の波に飲まれながらも自らの京劇への愛を貫く二人の姿が描かれます‼️歴史映画の場合、ひとりの生涯を描くだけでも大変なのに、二人分の人生をまとめて描ききり、加えて日中戦争や文化大革命といった中国近代史の激動ぶりも取り入れてるんだからホントに神業‼️まぁ、日本軍の描き方は史実だけに観ていてツラいですけど・・・‼️京劇の耽美な世界と、「繊細」な中国文化を堪能出来る映画ですね‼️チャン・フォンイーやコン・リーもそれぞれの役に完璧になりきった名演なんですけど、やはりレスリー・チャンですね‼️段小樓を愛しながらも、その愛が報われる事はなく苦悩する程蝶衣を圧倒的な存在感とそして「美しさ」で見事に体現していて文句なしに素晴らしい‼️
突出した真紅
『さらば、わが愛 覇王別姫』を4Kリマスター版で鑑賞しました。
菊仙が端正な顔立ちで、立ち居振る舞いも堂々としていて自分で稼いだお金で遊郭を足抜けする精神力と「責任とってね」と段の前で演じて結婚にこじつける強かさ、作中ずっと芯のある女を貫いていて善い。
蝶衣の、自分の感情に正直すぎて譲れず駆引きに向かない未熟さが観てて胸がヒリヒリして目頭を熱くさせられた。観ながら胸がつまる。そんな蝶衣を嫌わず献身的に接する菊仙がやっぱり懐の広い女性で、それに比べて段は、一番裏切っちゃいけない場面で保身に走って愛してくれた相手を裏切ってしまう男でその点が浅ましく愚かでありつつも人間味があって嫌いになりきれない。
蝶衣にとって人生の目的=京劇であって、段にとっては京劇は食い扶持の手段でしかなくて、だから段には別の選択肢(劇中以外の人生)もあったけど蝶衣にはそれがない、だから段(覇王)が必要で段を失うのは別姫である自分を失うことで、蝶衣には菊仙と段を取り合う選択肢しか存在しなかった。
「悲劇とは何か?」という問いに対する答えがいっぱい詰まっているような 儚くも美しい正真正銘の悲劇にして映画史に残る傑作
この作品、私にとっては生涯ベストテンには確実に入ってくる作品で、DVDを持っていることもあり、何度も何度も鑑賞してまいりました。この数週間で「現象」とも言えるようなヒットをした日本映画『国宝』の李相日監督がこの作品に言及したこともあり(学生時代に観て衝撃を受け、いつかこんな作品を撮ってみたいと思った旨を上海国際映画祭にて発言)、映画ファンの注目を集めるようになっています。不肖わたくしもその『国宝』のレビューで『さらば、わが愛 覇王別姫』との差を感じたなどと偉そうに書いてしまいましたので、こちらのほうのレビューもアップせねばと思っていたのですが、自宅で寝転がってDVD鑑賞して感想を書くのもなんだかなと先延ばしにしておりました。ところが、一昨年の公開30周年、レスリー•チャン没後20年4K版公開のおまけと言いますか、ひょっとしたら「国宝現象」のおかげかもしれませんが、小規模、短期間ながらも公開されているじゃありませんか。「よしっ、レビューを書くぞっ」の気合いのもと、チケットを握りしめ、劇場にて鑑賞してまいりました。鑑賞から、レビューをアップするまで時間がかかってしまいましたが…… (ちなみにレスリー•チャンは私と同い年です。だから何なの? といった話なんですが、彼のフィルモグラフィをみると彼が何歳のときの作品かすぐにわかりますし、その頃の空気感みたいなものを彼も私と同年齢で感じていたかもしれないと考えると感無量です)
今回の鑑賞で改めて感じたのはやはりこれは正統派の悲劇なのではないか、ということです。かのシェークスピアが400年近く遅く中国に生まれていたら、書いていたかもしれない普遍的で本格的な悲劇です。『国宝』が歌舞伎の女形である主人公の喜久雄が「悪魔と取り引きして」周囲の人々の不幸をも芸の肥やしにして芸道に精進し、誰も見たことのない景色を見る境地にまで至る芸道映画である種の成功譚であるのに対し、こちらの主人公の京劇の女形である蝶衣(演:レスリー•チャン)は自分の芸には高いプライドを持ってはいますが、喜久雄のように良くも悪くも大人の狡さを身につけてそれを自身の芸にも生かすという方向には進まず、心は芸を始めた頃の純粋なままで、結局、彼は芸と一体化して殉死します。それも生まれてこのかた、まったくもって恵まれなかった愛を渇望しながら…… 私はこれほどまでに儚く美しい悲劇を他には知りません。この蝶衣の悲劇が1920年代から1970年あたりまでの中国の近現代史と絡めて語られてゆきます。
さて、この物語の中心にいる人物は3人。主人公で、幼い頃に娼婦である母親に足手まとい扱いされ捨てられ、北京の京劇少年団(名称が分からないので便宜的にこう呼びます)で暮らし、役者になるための厳しい訓練を受けることになる蝶衣(幼名:小豆子)。彼は容姿の美しさもあり、京劇の女形を演じることにその才能を開花させますが、その美しさゆえ、贔屓すじの性接待に駆り出されたりもし、やがて同性愛者の自分を自覚してゆきます。次に、蝶衣と1920年代に京劇少年団で出会い、ともに厳しい訓練を受け、京劇役者として成功してゆく小樓(幼名:石頭 演:チャン•フォンイー)。彼が覇王(項羽)を、蝶衣が虞姫を演じる《覇王別姫》は北京の劇場の呼び物になります。そして、小樓に娼館で見初められ、彼と結婚する菊仙(演:コン•リー)。菊仙は幸福になるため娼婦であった過去と決別します。蝶衣は少年団時代からずっと思いを寄せていた小樓を奪われたことと、恐らくは自分を捨てて去っていった憎い母親と同じ娼婦という共通点があることで菊仙を激しく憎むこととなります。この物語は小樓を巡っての蝶衣、菊仙の三角関係の愛憎劇を中心に話は進みます。3人の中でまあ比較的まともな大人と言えるのは小樓だけだと思います。彼は少年団の頃から明るくてリーダーの資質もあり、面倒見もよいです。ただし、俗物で、覇王を演じていますので豪放磊落な性格のようにも見えるのですが、実は気が弱く守勢にまわると脆かったりもします。菊仙、蝶衣のふたりはどちらも愛に飢えている感じで大人になりきれていません。菊仙は小樓への愛、小樓からの愛が生きてゆくための心の拠り所になります。子供が出来れば彼女の運命が変化した可能性もありましたが、流産もあり、子を持つ願いはかないませんでした。一方、蝶衣は恐らく実の父親のことなどまったく知らないでしょうから、まずはこの世で唯一の身内だった母親に捨てられたわけです。彼にはちょっとした畸形があって最初は京劇少年団への入団を拒否されたのですが、母親は委細かまわず残酷にそれを処置して入団させて去ってゆきました。その京劇少年団はとても恐ろしいところでちょっとしたことで体罰を受けます。また、小豆子(後の蝶衣)は淫売の子ということで団内でもイジメを受けます。そんな彼を実の弟のようにかばってくれたのが石頭(後の小樓)だったわけです。でも結局、菊仙の登場もあり、蝶衣の愛の飢餓状態は続きます。京劇界の大立者で同性愛者である男性が彼のパトロンめいた存在になったりもしますが、やがてはアヘンに溺れていきます。彼の人生は本当に悲劇の連続で、幸福を感じられるのは舞台で京劇を演じている瞬間だけだったことでしょう。
やがて日本軍が中国大陸に侵攻してきて、蝶衣は日本軍将校たちの前で京劇の踊りを舞ったりもします。我々日本人からの観点でこの作品のいいところは、確かに「日本軍」の蛮行は描くが、「日本人」を悪くは描いていないところで、日本軍将校(の一部)は京劇の良さに理解を示す文化的な水準の高い人たちみたいな感じで描かれています。
そして戦争も終わり、共産中国が誕生します。蝶衣たちも社会が大きく変化したことに気づきます。京劇も保守反動的で古臭いものとされてゆきます。私も少し調べてみたのですが、1960年代のいわゆる「文化大革命」の指導的立場にあった4人の政治家、いわゆる「四人組」のうちのひとりで毛沢東の4番目の妻だった江青はもともとは現代劇の女優で、京劇のことをよく思っていなかったらしいんですね。そういったこともあり、’60年代のある日、小樓と蝶衣は文芸界の化け物にして反革命分子として大群衆の前に引きずり出され、「自己批判」を迫られることになります。ここがハイライトとなるシーンで二人の人間の業(ごう)が剥き出しになります。小樓と蝶衣は大群衆の圧力に押され、互いに相手を痛罵します。蝶衣は菊仙も巻き込んでしまい、小樓が堕落したのはこの女のせいだ、彼女は淫売だと大群衆の前でばらしてしまいます。そして、彼女のことを愛しているのかと問われた小樓は圧力に屈し、愛してなどいないと答えます。菊仙はその後、自ら命を絶ちます。なんと悲劇的な「自己批判」だったのでしょう。なお、チェン•カイコー監督はいわゆる「文革世代」で大衆の面前で自分の父親を批判したことがあるそうです。
でも、何はともあれ、江青を始めとする四人組の天下は続かず、毛沢東の死後、彼らは失脚し、逮捕され、罪に問われることになります。京劇は中国の伝統芸能としてまた盛んに興行を打てるようになりました。1970年代のある日、小樓と蝶衣は11年ぶりに顔を合わせ、《覇王別姫》の稽古をします。小樓は稽古の途中で息があがったりもします。もはやこれまでと思ったでしょう、蝶衣は虞姫がそうしたように覇王の小樓の刀を使って自刃します。何か矛盾する言い方になりますが、私は「悲劇のハッピーエンド」だと思いました。シェークスピアの『ハムレット』ではハムレットの友人ホレイショーはハムレットの死に際して「おやすみなさい、ハムレット様」と言いますが、ここでは蝶衣が演じていた虞姫も含めて「おやすみなさい、虞姫」「おやすみなさい、蝶衣」と言うほかはないと思います。さらにこの作品が公開されてから10年後にはそれにもう一つ加わることになります。
「おやすみなさい、レスリー」
なぜだろう
すごく泣ける…と聞いていたが、そうでもなかった。
観終わった後に、ずっと疑問が…
蝶衣はなぜ、あのタイミングで亡くなったのか?
子供の頃から苦労して、阿片に走って苦しんだり歴史に翻弄されつつも、それでも芸を究めたのに。
あの金魚鉢のシーンは印象的だった。
「国宝」の喜久雄が芸のために家族を不幸にしたのに対し、蝶衣は巻き込む家族はいないけど、とても孤独で、胸を締め付けられた。
小楼役のチャン・フォンイー氏は、凄くいい俳優だと思うけど、この役には合ってなかったように思う。
小楼は、あんなに蝶衣に思われるほどのいい男だとは感じられなかった。
レスリー・チャン氏は、何だろう…大人の男でこんなにも繊細で脆く見える人って珍しいのでは?
…それは演技なのだろうと思うけど、だとしたら凄い俳優だと思った。
あと、子役の演技もすごく心打たれた。
「国宝」でも思ったけど、あれくらいの年頃って、すごいエネルギーとパワーが人を惹きつけるのかもしれない。
暴力と芸
紛れもない傑作。
20年ぶりに見ました。その前に一度見ているので三回目です。しかしスクリーンで見たのは今回が初めてです。
20年前はレスリー・チャンの死去に際して、追悼の気持ちで見ました。
蝶衣の小楼の関係や、京劇という伝統芸能を中国の激動の現代史の波の中に置く重厚なストーリーに目を奪われがちですが、久しぶりに見て気づいたのは、これが「芸」とさまざまな暴力にまつわる話だということです。
師匠からの体罰に始まり、戦争や文化大革命へと、暴力が形とスケールを変えながら主人公たちを取り囲み続け、それが「覇王別姫」のストーリーと融合し(ラスト近く、まさに「四面楚歌」という場面に至る)、最終的には自己への暴力に集約されてしまう。
それは同時に蝶衣が虞姫に真に成り切る瞬間でもあり、
いわば彼の「芸」の完成の瞬間でもあるという、なんともやるせなくドラマチックな展開と演出です。
12月にブルーレイも出るということですし、今後も何度でも見直す作品になると思います。
しかし、この映画でも「戸田語」にはげんなりします。どうにかしてほしい。
惜しむらくは
母に捨てられ京劇の養成所で育った小豆子。彼が生き抜けたのは石頭がいたからなのだ。時には庇い時には泣きながら叱咤してくれた彼なくしては、そして京劇なくして小豆子には生きる意味がない。
この覇王別姫を貫いたのは、一振りの剣でこれさえあれば虞美人は自刃せずに済んだかもしれないといういわくのあるもの。この剣が、石頭を想う小豆子の運命を翻弄する。小豆子は女形として心も女にならなければならない。そうして成長した蝶衣は小樓(石頭)を愛しているしかけがえのない存在としてみている。しかし情愛の関係が成立するのは舞台でだけなのだ。蝶衣は自分の恋情を隠しただ指をくわえ見続けることしかできない。なまじ親しい近い存在なだけのほとんど罰を与えられているかのよう。
蝶衣の叶わぬ恋情の50年ではすまないのがこの作品の深さだと思う。世が世なら切ない恋の物語で済んだかもしれないが、時代が彼らにそれを許さない。日中戦争、国共内戦、共産政権樹立、文化大革命と時代と権力に翻弄され、裏切り、憎しみ、怒りを抱きあい、そして京劇すら奪われていくことになる。
この映画は、覇王別姫という王と愛妃の悲恋という劇を演じる蝶衣と小樓が描かれるが、それを演じるのはレスリー・チャンとチャン・フォンイーという俳優なわけで、ここがちょっと個人的には思うところがあって。レスリー・チャンのチャン・フォンイーについての発言を聞くと、香港と中国の俳優という価値観や演技スタイルの差もあったのかもしれないが、レスリー・チャンにとって小樓を愛する演技に微塵の影響もなかったのだろうかと。レスリー・チャンが雑念なく蝶衣になれるキャスティングで観たかった気がしてしまう。濃密な原作を踏まえた素晴らしい映画なことは言うまでもないので、そうであればもっとすごいものになったかもしれないなと。
二人の年月を大雑把に語る小樓と訂正する蝶衣が切なかった。最後の舞台のために、蝶衣は十分生きたとも言えるのかもしれない。
愛憎の50年史
第46回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作。
Amazon Prime Videoで鑑賞(4K修復版,字幕,レンタル)。
原作は未読。
レスリー・チャンの存在感に惹きつけられっぱなしの濃密な2時間51分。時代の流れに翻弄された愛と憎しみの50年の物語は、壮大な叙事詩的感動を齎してくれました。
背景となっている中国の歴史の知識が殆ど無かったので(特に文化大革命の部分)、もし知っていたらより深く物語を理解出来たかもしれないのにと思うと悔やまれます。
[余談]
小楼役の俳優、どこかで見た覚えがあるなと思ったら、「レッドクリフ」の曹操でした。今もあまり変わらないなぁ…
※修正(2024/04/13)
儚くも、たくましい。
学校で習った四面楚歌の漢文は、あくまで「漢文」だった。京劇の特徴的な賑々しい楽器の音色、甲高い流れるような歌声、中国語のリズムと響きで語られるセリフを体感し、生き生きとした躍動感溢れる中国を感じることは、授業の漢文を読むのとは違う魅力がある。煌びやかな赤、赤い、世界観は、やがて共産党の赤に変わっていく。中国の近代史と切っても切れない作品になっている。
レスリーチャンの息を呑むほどの美貌と切ない恋心は、紛れもなくこの作品の大きな魅力であり成功した理由の一つだが、中国という国の歴史を知ることなくしてはその魅力を十分に味わい尽くすことは難しいだろう。私は中国の近代史はサッパリなので、詳しければもっと違う感想になったかもしれない。
そんな中国史をよく知らない人間が精いっぱい想像するに、中国の歴史はいわばクーデターの繰り返しだ。数千年の間、王朝が変わる度に動乱に翻弄されてきたこの国の人々には、一種の諦念のようなものを感じる。作中でも「人にはそれぞれ運命がある」というセリフが出てくる。ただでさえ、あの広大な大地と厳しい自然環境下である。民が生き抜くことは想像以上に過酷だったと思われる。しかしその一方で、だからこそ、何が起ころうと、何としても生き抜こうとする力強さを感じずにはいられない。
思い出すのは、昔、もう数十年前になるが、とある中国人から聞いた話だ。「日本人は桜が好きだが、中国人は梅を好む。梅は2月の最も寒い雪の降る最中に真っ先に咲いて春を知らせる、その香りは生命の逞しさ。花はいつまでも枝にこびりついて、簡単には散らない。最後は全て地面に散った後も、その香りが周囲に漂う。中国人の美意識は日本人とは全く違う」と。(監督のチェンカイコーは北京生まれである)
予想通りのエンディングでも、気付けば自然と目頭を熱くしている自分を発見する。蝶衣たちの人生が、血潮が、その熱をまだ帯びて、確かな存在感を私たちにいつまでも残すのである。
中国人のDNAが覇王別姫で泣けてくるのだとしたら、日本人なら何だろう?平家物語?忠臣蔵か??京劇は高校生の頃に孫悟空しか見たことがなく、アクロバット楽しいな〜くらいしか思わなかった。今ならもう少し京劇の面白さを感じる自分になっているだろうか。
菊仙が一番好き。
高校の時、何この映画〜ってノリで観て本当に感動しました。 そして今、大学生になって、有楽町で4kで観てきました。
菊仙、最初の方は嫌な奴なんです。だけど、最後の方は母のような優しさが滲み出てて、それが大好きです。阿片で寒い寒いと苦しんだ蝶衣を抱きしめた菊仙は、失った赤子の影を蝶衣に見ていたのかな。母性のようなものがあの時あったのかなと思います。
そして蝶衣も、母と同じ遊女だった菊仙に、母親を見てる。自分を捨てた母をずっと恋しく思っていたんだろうなと思います。
そして文化大革命の時、「春を売っていた、この女を殺せ!」って言ったのは、菊仙をよく思っていなかったのもそうだろうけど、やっぱり、自分を捨てた母への怒りだったのかな…と思う。本当に切ない物語です。
実らぬ愛の儚さ
映画『さらば我が愛/覇王別記』そのスケール、激動の中国近代史中で、京劇役者として必死に生きる主人公。そして、決してみのることのない愛。すべてが悲しいのだけど、ひたむきに生きる人間だけが到達できる境地をみせてくれる。人間のはかなさ、弱さを見せつけられる。
芸人という哀れさ
職業で、差別してはいけないという。
確かに、今の時代は、そうなのですが。
そうなったのは、ほんの僅か前のこと。
それまでは、あきらかに職業による上下関係は、存在していた。
いまだって、なくなったわけではない。
建前として、なくなっただけのことに過ぎない。
おおよそ、芸で身を立てるとは、どんなことか。
それは、この映画を見れば、すべてがわかる。
つまり、他に売るものがないという、最下層の人の従事するもの。
『覇王別記』は、親に捨てられた子供は、どうやって生きてゆくか。
そこに、芸能というものが存在する。
彼らは、最も弱い立場にいる。
芸も売れば、体も売る。
これが、芸能というものの長い歴史。
ジャニーズを見れば、一目瞭然
いま、世を騒がす、ジャニーズ問題。
少年にたいする、性的加害。
彼らは、被害者だと、盛んに声をあげている。
そうだろうか、彼らは、その場に進んで加わったはずだ。
そんなことがあるなんて知らなかったと、彼らは皆口を揃える。
ホントだろうか、噂にしろ、暴露本にしろ出ていたはずだ。
親たちだって、うすうす知っていたはずだ。
スターになる夢と引き換えに、受け入れていたはずだ。
いやなら、なぜ拒否したり、逃げ出さなかったのか。
スターになっていたら、今回のような暴露をしただろうか。
例えば、養護学校の先生だとか、相手が逃げられない状況にいる者に対する行為は、大いに問題だ。
でも、彼らの場合は違う。
芸能人として生きてゆくというのは、そのような危険が、あるということ。
それは、今も昔も本質的には、変わらない。
ただ、現代では、青少年に対する性的加害が、国際的に厳しく糾弾されるという流れが、あるということに過ぎない。
京劇の役者になる以外、生きる道がなかった。
この映画の素晴らしいところは、いくつもあるが、あえてあげれば、オープニングとラスト。
まるで、計算されたかのように、出だしで、一気に聴衆を引き込んでおいて、ラストまで突き抜けてゆく。
映画とは、こうあるべきとでも言いたげな、見事な流れ。
親に捨てられた少年が、役者としての生きる道しかない。
それも、自らの性とは、反対の女形として。
やがて、彼の人生の長い戦いが、描かれてゆく。
決して実ることのない愛が、じつに悲しい。
そして、激動の中国近代史。
まさに、一人の人間が、歴史に翻弄されながらも、自らの歩みを結実させようとする。
そんな、ひたむきさと現実の残酷さが、見事に、物語になっている。
誰でも、自らの人生において、この作品はどうしても外せないというものがある。
まさに、『覇王別記』は、そんな作品の内の一つである。
さんざしの砂糖漬け
レスリー・チャンの程蝶衣の子役時代の名前は小豆子。遊郭で働くシングルマザーが子供をどうにか引き取ってもらおうとする冒頭のシーン。その子役の子はどう観ても女の子。手の指が一本多くて、母親(ジァン・ウェンリー)に料理包丁で切り落とされるあの子です。あの子のややつり上がった強い眼差しがとてもよかった。石頭が淫売の子といじめられる小豆を庇うシーンになると、すっとした顔の細身の華奢な中性的な男の子になるので、あれっさっきの娘は?ってなってしまいました。コン・リーの演じる菊仙の子供時代だったのかな?としばらく混乱してしまいました。この映画のコン・リーは百恵ちゃんに似た雰囲気でちょっとたまりません。
石頭の機転で脱走してしまうもう一人の子供(小癩)はさんざしの砂糖漬けを頬張れるだけ頬張って首を吊って自殺してしまいます。うんと悲しいです。1920年代の中国の京劇学校は雑技団やサーカスのよう。親が手放した子供やストリートチルドレンを訓練させていたんでしょうね。たくさんのエキストラを使った前半から、芸術的な映像とテンポのいいカットでどんどん引き込まれました。レスリー・チャン死後20年での4Kレストア版を劇場で鑑賞しました。
京劇のセリフを間違え体罰を受けるシーン。尼僧が緑の黒髪を・・・男として生を受け・・・のくだり。女の子なのに男子と偽ってもぐりこんだから、わざと間違えるのかな?と思ったりしました。
ブエノスアイレスが公開された1997年にカミングアウトしたレスリー・チャン。歌手でデビューして、吉川晃司のモニカや百恵ちゃんのさよならの向こう側のカバー曲がヒットしたんですね。折しもジャーニー喜多川問題が国連で取り上げられることになったこともあり、国民党の有力者で京劇界の重鎮(袁)などと幼い時からそっちの関係に引き込まれたことがダブってしまいます。ジャーニーのおかげでまるで日本が○○天国みたいに思われるのは嫌ですね。フォーリーブス(おりも政夫、北公次)のことはは私はかなり衝撃を受けたのですが、当時のマスコミは腫れ物をさわるようにスルーしてしまったような記憶があります。
戦前戦後の内乱から文化大革命を経て50年にわたる程蝶衣と段小楼の生涯を菊仙を交えて描いた作品ですが、単なる三角関係というよりも、アヘンからの離脱に苦しむ蝶衣を母親のように抱擁する菊仙を観ていると、なおさらこの三人の関係は悲し過ぎます。個人的には後半は政権の移り変わりや文化大革命前後の時間経過がとても早いので、前半の部分のほうが好き。
見るたび視点と感想が変わる秀作
覇王別姫は、何回観ても色褪せない。
初見は大学2年生のとき。当時は【蝶衣の嫉妬】という限られた視点でしかこの映画を味わえてなかったことに気づく。
アラフォーになった今、あらゆる人物に感情移入しながらの鑑賞で心が忙しい。
人生を賭けて打ち込んできたものへのプライド、守るべきもの、憎き相手が実は自分を投影した瓜二つの存在と気づいたときの引き返せなさ。大切な物を裏切らないと生きていけない世界。
嗚咽しました。
何より、美しいレスリー・チャンをもっともっとたくさんの映画で観たかった。息を呑みました。
天才は早くに天国に呼ばれてしまう…。
今このタイミングで観劇できて本当に幸せでした。また10年後に観たい映画です。
ジャニー問題を感じさせるなぁ
狭い芸能の世界で起こる愛憎劇は、所々ジャニー問題を思い出した。
レスリー・チャンの演技が艶めかしくて良かった。
何で小楼は最後奥さんを裏切ったのか分からなかった。
京劇の歴史 または中国の近代史
一番悲しかったのは一生を決められた主人公は最後まで自分の運を受け入れなく 自分は本物の姫 如何せん前の覇王は偽の覇王。
京劇の歴史から見ると 二人主人公の感情を表した。それをと共に中国の満州時期→中日戦争→政府と国民の内輪もめ→文化大革命という悲しい背景が同情し 新たな観点が出来られた。
人も芸術も本来の姿を失う中、彼は本物の姫になった
出だしから中国の貧困というものを見せつけられ、金のない者、女、子供の生きて行く手段が限られていく中、レスリーチャン演じる小豆子が京劇という芸術に心身、全てを捧げて生きて行く決心をする。
反対に兄の石頭は石頭は現実というものを分かっているのか遊郭にも足を運んで舞台と私生活を割り切っている、二人の姿が対照的です。
女郎と結婚した石頭ですが、そのことで弟と決別してしまい、京劇、舞台からは離れられない。
「俺は役者だ」という男は大人になって別れても弟のことが大事なのはわかる、けれど、それが蝶衣とってどれくらい残酷なことかわかっていないのではと思うのだ。
蝶衣が行き場のない小四を引き取って、かっての師匠と同じように折檻、いや、修行して罵られる姿に似ていると思ったのだが。
でも同じではない、蝶衣には誇りがあった、別姫を演じ、京劇に対する自分に。
世の中が変わり、妻は自殺、一人になった段小楼、そして再び、二人で舞台に立つ日が来る。
でも、昔と同じではない、衰えを感じる小楼とは反対に蝶衣は美しい。
軍に捕まり、酷い目に遭い、アヘンで身を滅ぼしかけても立ち直って再び舞台に。
もしかしたら蝶衣は小楼の衰えを、これ以上、見たくないと思ったのかもしれない。
いや、自分の気持ちが変わっていくことを恐れたのかもしれない。
だから自分だけで逝くことにしたのかもしれない、そこには小楼がいる、現実ではないが、自分の記憶の中の彼が舞台の上で待っている。
彼は本物の姫になったのかもしれない。
【謝罪、センシティブです】※(おそらく)ニッチに向けて書きます
努力なんか馬鹿馬鹿しい。
天才だからできるんだ。
どうせ自分はできないから、何もしないでいいや。
そう思っている方々に聞いて欲しい、
いや、
観てほしい映画。
主人公の同期の子が首つり自○してしまうシーンあると思いますが、
あの子が生前、言っていた言葉を、
とにかく、
頭の中に刷り込ませて聴いていただけたら、と思います。
……主人公に肩車されて、涙をたくさんこぼしながら
『あの人は、どれだけ多くの、鞭を食らって、今、ここに立っているんだろう……』
今。
現在、陽の目を浴びている、同い年くらいの人がいて。
嫉妬したとします。
でも。
でも、
その裏には、冗談ではなく、
血反吐を吐くような努力をした…
その、結果を披露してくれている事が、
往々にあるかもしれません。
この時点で認めることが困難な人がいるかもしれませんが、事実です。
結局、努力、努力なんです。
なにかしようとしたら……。
『は? 今更、なに当たり前のこと言ってんの?』
そういう声もたくさん聞こえてきそうですが、
それが出来ない人も一定数、います。
います。
その人たちに言いたい。
陽の目を浴びるとは、こういう事です…。
結局、努力しかないんです…。
天才だからラクに物事をそつなく出来ている、
訳ではないんす…。
おかしな道に進もうかどうしようか
悩んでいる方々がいたら、
一度、
この映画を観て欲しい。
そして、
自分と、大変だけど
向き合って欲しいです。
(目標、選択、戦略、といったことも大事ですし、
努力していく中で失敗していくこともあります。
それらを、踏まえた上で
)
がんばれ。
おかしな道に、
進まないで。
この映画は、あなたを追い詰める最悪の映画じゃない。
【倫理や人の道にはずれない、最良の道】
を教えてくれる映画、のはず。
エグい
久々に鑑賞
京劇の覇王と虞姫を演劇の世界に身を投じた男2人が演じる
弟は男を捨て女と化した。もう片方は夜の世界の女と結婚する。ただ弟はそれを許せない。兄とずっといたい
最後の方に文化大革命が起こった際に、弟が夜の世界の女の過去を言ってしまう。その時に結婚していた兄が、このそこを認めてしまうのは裏切りと感じた。最後まで守るべきであろう。大きな力にびびってしまったか、、、
これこそ『四面楚歌』だ
『師匠、時代が違うんだ』
さて、今の中国はどんな時代なのか?
文化大革命を打倒したからと言って、今の中国が民主的な国とは言えない。
無骨で融通の利かない男の話と言うよりも、やはり、3人の愛の形の話なのだと思う。毒々しくも純愛だ。
政治的な話を語っているのだと思うが、それをあえて指摘するのは、無粋かなぁって思った。兎に角、
凄い愛憎のストーリー展開だ。思い出すと泣けてくる。
大傑作。
言うなら、これこそ『四面楚歌』だ
歴史に翻弄される芸術と友情
日本占領、国民党国家、共産党革命、そして文革。強大な国土を翻弄してきた歴史の中で、主人公たちの人生が大きく揺れ動く。なかでも、ヒステリックな文革は、人間性とか信頼を妬みや密告といった人間の弱さによってさらに増長する。妻を告発しなければならない状況は悲しく辛い。
物語は、覇王別姫のラストシーンでようやくホッとする。ただ、友情を超えた愛情関係は、やや同性愛的でもあり、どうも苦手だ。
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