「「悲劇とは何か?」という問いに対する答えがいっぱい詰まっているような 儚くも美しい正真正銘の悲劇にして映画史に残る傑作」さらば、わが愛 覇王別姫 Freddie3vさんの映画レビュー(感想・評価)
「悲劇とは何か?」という問いに対する答えがいっぱい詰まっているような 儚くも美しい正真正銘の悲劇にして映画史に残る傑作
この作品、私にとっては生涯ベストテンには確実に入ってくる作品で、DVDを持っていることもあり、何度も何度も鑑賞してまいりました。この数週間で「現象」とも言えるようなヒットをした日本映画『国宝』の李相日監督がこの作品に言及したこともあり(学生時代に観て衝撃を受け、いつかこんな作品を撮ってみたいと思った旨を上海国際映画祭にて発言)、映画ファンの注目を集めるようになっています。不肖わたくしもその『国宝』のレビューで『さらば、わが愛 覇王別姫』との差を感じたなどと偉そうに書いてしまいましたので、こちらのほうのレビューもアップせねばと思っていたのですが、自宅で寝転がってDVD鑑賞して感想を書くのもなんだかなと先延ばしにしておりました。ところが、一昨年の公開30周年、レスリー•チャン没後20年4K版公開のおまけと言いますか、ひょっとしたら「国宝現象」のおかげかもしれませんが、小規模、短期間ながらも公開されているじゃありませんか。「よしっ、レビューを書くぞっ」の気合いのもと、チケットを握りしめ、劇場にて鑑賞してまいりました。鑑賞から、レビューをアップするまで時間がかかってしまいましたが…… (ちなみにレスリー•チャンは私と同い年です。だから何なの? といった話なんですが、彼のフィルモグラフィをみると彼が何歳のときの作品かすぐにわかりますし、その頃の空気感みたいなものを彼も私と同年齢で感じていたかもしれないと考えると感無量です)
今回の鑑賞で改めて感じたのはやはりこれは正統派の悲劇なのではないか、ということです。かのシェークスピアが400年近く遅く中国に生まれていたら、書いていたかもしれない普遍的で本格的な悲劇です。『国宝』が歌舞伎の女形である主人公の喜久雄が「悪魔と取り引きして」周囲の人々の不幸をも芸の肥やしにして芸道に精進し、誰も見たことのない景色を見る境地にまで至る芸道映画である種の成功譚であるのに対し、こちらの主人公の京劇の女形である蝶衣(演:レスリー•チャン)は自分の芸には高いプライドを持ってはいますが、喜久雄のように良くも悪くも大人の狡さを身につけてそれを自身の芸にも生かすという方向には進まず、心は芸を始めた頃の純粋なままで、結局、彼は芸と一体化して殉死します。それも生まれてこのかた、まったくもって恵まれなかった愛を渇望しながら…… 私はこれほどまでに儚く美しい悲劇を他には知りません。この蝶衣の悲劇が1920年代から1970年あたりまでの中国の近現代史と絡めて語られてゆきます。
さて、この物語の中心にいる人物は3人。主人公で、幼い頃に娼婦である母親に足手まとい扱いされ捨てられ、北京の京劇少年団(名称が分からないので便宜的にこう呼びます)で暮らし、役者になるための厳しい訓練を受けることになる蝶衣(幼名:小豆子)。彼は容姿の美しさもあり、京劇の女形を演じることにその才能を開花させますが、その美しさゆえ、贔屓すじの性接待に駆り出されたりもし、やがて同性愛者の自分を自覚してゆきます。次に、蝶衣と1920年代に京劇少年団で出会い、ともに厳しい訓練を受け、京劇役者として成功してゆく小樓(幼名:石頭 演:チャン•フォンイー)。彼が覇王(項羽)を、蝶衣が虞姫を演じる《覇王別姫》は北京の劇場の呼び物になります。そして、小樓に娼館で見初められ、彼と結婚する菊仙(演:コン•リー)。菊仙は幸福になるため娼婦であった過去と決別します。蝶衣は少年団時代からずっと思いを寄せていた小樓を奪われたことと、恐らくは自分を捨てて去っていった憎い母親と同じ娼婦という共通点があることで菊仙を激しく憎むこととなります。この物語は小樓を巡っての蝶衣、菊仙の三角関係の愛憎劇を中心に話は進みます。3人の中でまあ比較的まともな大人と言えるのは小樓だけだと思います。彼は少年団の頃から明るくてリーダーの資質もあり、面倒見もよいです。ただし、俗物で、覇王を演じていますので豪放磊落な性格のようにも見えるのですが、実は気が弱く守勢にまわると脆かったりもします。菊仙、蝶衣のふたりはどちらも愛に飢えている感じで大人になりきれていません。菊仙は小樓への愛、小樓からの愛が生きてゆくための心の拠り所になります。子供が出来れば彼女の運命が変化した可能性もありましたが、流産もあり、子を持つ願いはかないませんでした。一方、蝶衣は恐らく実の父親のことなどまったく知らないでしょうから、まずはこの世で唯一の身内だった母親に捨てられたわけです。彼にはちょっとした畸形があって最初は京劇少年団への入団を拒否されたのですが、母親は委細かまわず残酷にそれを処置して入団させて去ってゆきました。その京劇少年団はとても恐ろしいところでちょっとしたことで体罰を受けます。また、小豆子(後の蝶衣)は淫売の子ということで団内でもイジメを受けます。そんな彼を実の弟のようにかばってくれたのが石頭(後の小樓)だったわけです。でも結局、菊仙の登場もあり、蝶衣の愛の飢餓状態は続きます。京劇界の大立者で同性愛者である男性が彼のパトロンめいた存在になったりもしますが、やがてはアヘンに溺れていきます。彼の人生は本当に悲劇の連続で、幸福を感じられるのは舞台で京劇を演じている瞬間だけだったことでしょう。
やがて日本軍が中国大陸に侵攻してきて、蝶衣は日本軍将校たちの前で京劇の踊りを舞ったりもします。我々日本人からの観点でこの作品のいいところは、確かに「日本軍」の蛮行は描くが、「日本人」を悪くは描いていないところで、日本軍将校(の一部)は京劇の良さに理解を示す文化的な水準の高い人たちみたいな感じで描かれています。
そして戦争も終わり、共産中国が誕生します。蝶衣たちも社会が大きく変化したことに気づきます。京劇も保守反動的で古臭いものとされてゆきます。私も少し調べてみたのですが、1960年代のいわゆる「文化大革命」の指導的立場にあった4人の政治家、いわゆる「四人組」のうちのひとりで毛沢東の4番目の妻だった江青はもともとは現代劇の女優で、京劇のことをよく思っていなかったらしいんですね。そういったこともあり、’60年代のある日、小樓と蝶衣は文芸界の化け物にして反革命分子として大群衆の前に引きずり出され、「自己批判」を迫られることになります。ここがハイライトとなるシーンで二人の人間の業(ごう)が剥き出しになります。小樓と蝶衣は大群衆の圧力に押され、互いに相手を痛罵します。蝶衣は菊仙も巻き込んでしまい、小樓が堕落したのはこの女のせいだ、彼女は淫売だと大群衆の前でばらしてしまいます。そして、彼女のことを愛しているのかと問われた小樓は圧力に屈し、愛してなどいないと答えます。菊仙はその後、自ら命を絶ちます。なんと悲劇的な「自己批判」だったのでしょう。なお、チェン•カイコー監督はいわゆる「文革世代」で大衆の面前で自分の父親を批判したことがあるそうです。
でも、何はともあれ、江青を始めとする四人組の天下は続かず、毛沢東の死後、彼らは失脚し、逮捕され、罪に問われることになります。京劇は中国の伝統芸能としてまた盛んに興行を打てるようになりました。1970年代のある日、小樓と蝶衣は11年ぶりに顔を合わせ、《覇王別姫》の稽古をします。小樓は稽古の途中で息があがったりもします。もはやこれまでと思ったでしょう、蝶衣は虞姫がそうしたように覇王の小樓の刀を使って自刃します。何か矛盾する言い方になりますが、私は「悲劇のハッピーエンド」だと思いました。シェークスピアの『ハムレット』ではハムレットの友人ホレイショーはハムレットの死に際して「おやすみなさい、ハムレット様」と言いますが、ここでは蝶衣が演じていた虞姫も含めて「おやすみなさい、虞姫」「おやすみなさい、蝶衣」と言うほかはないと思います。さらにこの作品が公開されてから10年後にはそれにもう一つ加わることになります。
「おやすみなさい、レスリー」
「国宝」を観て、ちょうどこの映画を思い出しました。若い頃観ましたが、衝撃的で、忘れられない映画です。
内容を細かく書いてくださって、懐かしかったです。
確かに同じ芸を極めるのでも、喜久雄とタイプが違いますね。
なるほどと思いました。
Freddie3vさん、コメントありがとうございます。ダラダラと長ったらしい、書き直しを繰り返した拙レビューなのに恐縮です。「国宝」のレビューを書いていて考えているうちに、歌舞伎への自分の複雑で愛憎まみれの思いに気がつきました
コメントありがとうございました。
何度も観ている映画であっても、なかなか文章にして思いをまとめてみるところまで踏み出せない作品ってあります。
レビューの筆をとってはみたものの 完成までとても時間を要したり。
自分にとっての特別感のある作品だから尚更ですよね。
またよろしくお願いします。
きりん
映画のあのシーン、このシーンがまた目の前に繰り広げられたようです。私にとってもベスト映画の1本です。素晴らしいレビューを書いてくださってありがとうございます




