劇場公開日 2004年5月15日

「 生きているなかで感じる現実感。それはどこまで「現実」なのでしょうか。人を色眼鏡でしか見ない現実主義者に痛烈なパンチを浴びせたのが本作」ビッグ・フィッシュ 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0 生きているなかで感じる現実感。それはどこまで「現実」なのでしょうか。人を色眼鏡でしか見ない現実主義者に痛烈なパンチを浴びせたのが本作

2008年10月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 どうせティム・バートン監督作品だから、どこか滑稽無糖なおとぎ話になるだろうと思っていたら、途中から予想が外れてしまいました。
 普段のダークファンタジーは陰を潜め、一人の父親の回想録を夢とロマンに包み込んで、誰もが楽しく見られる話になってはおりました。

 但し、そこはバートン作品。主人公の息子のウィルと同じように、父親のエドワードが語る若き日々の回想は、魔女や巨人や善人の街が登場する滑稽無糖な話ばかりで、その大ボラふきな作りにが延々続くことに、次第に苛立つことでしょう。
 妻サンドラとのなれそめも、あり得ないような略奪結婚を果たしていて、エドワードの話は何とも嘘くさいのです。
 ウィルはこんな作り話に、生まれた時からずっと付き合わされてきたのでした。だから、エドワードが不治の病で入院したとき、このまま親父の本当の人生を知らないままでいいのかという思いにウィルが捕らわれたのは当然です。
 身近な両親でも、意外と知っていることって少ないものです。親の死に目が過ぎてしまうと、もっと聞いておくべきだったと後悔ばかりが残るものですね。

 ただここで、監督からの観客への逆襲が始まります。単なるおとぎ話ではなかったのです。
 父を知らないと嘆くウィルに、病院の主治医はこう問うたのでした。
 夢のない現実だけの話と例え作り話でも夢と希望に溢れた話のどっちが幸せにできるかいと。つまりエドワードの不幸な現実を聞いても、いまさらそれがどんな役に立つのかという問いかけでした。小地蔵は、この一言でこの作品の見方を変えたのです。
 夢を語る童話作家がどんな悲惨な人生を過ごしたかについて、「問わずが花」のままにして置くのが正解ですね。でも世の人は、自ら抱え込む苦悩のはけ口として、夢を語る純真な人ほど詮索したがります。そして口々に夢はない、現実は厳しいと語り合うのです。
 そういう人を色眼鏡でしか見ない現実主義者に痛烈なパンチを浴びせたのが本作でした。まずはウィルの思い込みが、ネタバレにより間違だったことが明かされる展開が意外でした。
 エドワードの残した品々やエドワードの旧知の人との出会いから、彼が語っていたことが、あながちホラばかりではないことが明かされていくのです。
 一度思い込むと、人を色眼鏡で見てしまう習慣はなかなか抜け出せないものだと、監督に思い知らされたような気がしました。
 そしてウィルは気がつくのです。エドワードは自分のために、一生懸命話をしてくれたのだと。そのお返しとして、今度はウィルがエドワードに、少年時代に見せられた自分の最期の日の話を語ります。
 それはエンディングにふさわしい、エドワードの語ってきた登場人物がこぞって集い祝福するものでした。そして、エドワードの最後は新たな伝説の始まりとなります。ウィルに抱えられたエドワードは、ビッグ・フィッシュとなったのです。そして、ウィルは子供達にビッグ・フィッシュを語り続けて、永遠に人々の心の中でエドワードは生き続けたのです。

 どうです、こんな結末。
 現実を語れば、死別という悲しみしか残りません。けれども、ウィルはかつてエドワードがつり上げようとした伝説のビッグ・フィッシュを親父の化身にしてしまいます。
 父は死んだわけではないないのだ。ビッグ・フィッシュになって川や海を自由に泳ぎ回るのだと事実を脚色することで、ウィルは死別の悲しみを昇華させ、後の世の子供達への贈り物として父を生かしたのでした。
 ここまでネタバレしてすいません。でもこのラストが、滑稽無糖な本作の結びとして、とても感動的だったので触れました。

追伸
 生きているなかで感じる現実感。それはどこまで「現実」なのでしょうか。仏教やスピリチュアルな世界観から振り返れば、そんな現実感などバーチャルでまるで映画の一シーンみたいなもの。

 むしろ夢の中だと感じている世界。禅定で心の奥の深くに潜っていくと見つかる潜在意識下で自由にイメージできる世界のなかで、観することができる感覚の方が「現実」と呼べるものかもしれませんよ。
 現実と思ってきたこと、夢だと思ってきたことが、深い禅定や帰天で五感を突き抜けてみると、受け止め方が大逆転するものなのです。

流山の小地蔵