「本当の不倫は心中するしかない。迷惑だ。」愛の流刑地 Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
本当の不倫は心中するしかない。迷惑だ。
『愛の流刑地』(2007)
dTVにて、配信があと2日ほどとの事で、今回の視聴に選んだ。R15指定。『うなぎ』もそうだったと思うが、この映画も濃厚なセックスシーンから始まる。映画という芸術にセックスシーンは一体どう考えるべきかという問題もあるが、セックス中に女がこのまま殺してと言い、男は女の首を絞めつける。そして女が死に、男は警察に電話をかけて逮捕される。男(演:豊川悦司)は小説家。離婚した妻が近々再婚するところ。ドライな事務的な印象を持たせているのか、そうした刑事に佐藤浩市が扮している。刑事は女が戯れに殺してと言ったのだろうと詰め寄るが、男は戯れではなくて真剣なものだったと刑事に反抗する。どうみても殺人犯の加害者だが、刑事の詰め寄りが怒ったり、暴力的な印象を持たせている様子だ。その事件に検事としてかかわる女検事(演:長谷川京子)も何かしら意味を持って関わってくる様子。加害者と被害者が初めに会うシーンがあるが、美しい映像でみせる。被害者は加害者の小説の大ファンだった。当時、小説家はスランプだったか、それを励ますために編集者の女性が隣家の被害者を、こんなに大ファンもいるんだから頑張ってとの意味で会わせたと女検事に言う。そして、被害者には夫と子供があり、不倫関係に陥ってしまう。編集者(演:浅田美代子)は小説家の意志が小説に強まるならばと見てその不倫を見ぬふりをした。時間軸が前後して、不倫に陥っていく過程が描かれる。再会は雨のシーン。これも森の中の緑と雨の中の薄明かりで美しい背景である。原作が渡辺淳一で日本経済新聞朝刊にこうした複雑で決して良くはない話が連載されたのが、2004年から2006年。テレビドラマにもなっていたとの事。リアルタイムには私はどれも接しなかった。以前に渡辺淳一は『失楽園』で話題になり、その以前にも『化身』というのを日経新聞に続けていったが、それ以前に毎日新聞に『ひろひらの雪』という、さまざまな不倫ものを書いたらしい。毎日新聞は当時とっていたから、拾い読みしたかも知れないが、記憶が薄っすらである。映画では、それぞれの子供たち。被害者のほうは幼い子供たちをみる複雑な女の心境や、加害者のほうは、高校生かその上くらいの娘(演:貫地谷しほり)が、留置場で、お父さんは自殺願望がある女性に利用されただけなんだよと泣きながら父親に
詰め寄るシーンがある。不倫が不幸な結果になるという面では、渡辺淳一は倫理観を残していたと言える。それさえないサイコパスの映画やドラマや漫画やアダルトビデオやそれを実際にしている人達がさらにいる。俳優女優でさえ、セックスシーンは恥かしいのが正常な感覚で、堅気の人達ではないわけである。それがスターとされるところにこの範疇の複雑さがあるのだが。疑似的なセックスシーンで名監督は誤魔化すのだろうが、露骨な記録者は犯罪もどきなだけである。性行為は美しいのは美しい。だから人類が続けてきて、続く原因ではあるが、それを露骨に映像記録にするのは、単純に容認するところには何らかの減退しかないだろう。子供たちへの詫びのような面が、罪を知っている二人ではあっただろう。共謀でどちらも悪いが、男のほうが悪いのだろう。そして女は殺されていなくなってしまうのだから。不倫は死ぬことが罪滅ぼしであり、本当の恋愛である。実際には獣の遊びしかないのだ。生命を育む副産物であるはずの性行為で死にもたらすのだから不倫は変態行為であり、変態行為の中でしか恋愛はないものだ。悲劇にならない不倫は遊び以下である。具体的にはベッキーとゲスなんかはまさしくゲスだったのだ。不倫された夫は仲村トオルが演じていた。やたら断片的にセックスシーンが繰り返されるが、アダルトビデオの存在なども日本社会は検討しなおす余地があるはずだろう。医師であった渡辺淳一がこうした変態エロスを書き続けたのはどういうわけだったかも考えなおす必要もあろう。監督の鶴橋康夫は、日テレのテレビディレクター出身で、『後妻業の女』も監督したが、これも変態的な内容の映画だった。
日テレのサスペンスなどはこうした人が作ってきて、渡辺にしろ鶴橋にしろ変態的な人がドラマを作ってきた意味はなんだろうかというのもあろう。被害者がいう。「私いつ死んでもいいわ。幸せ。あなたは私のために死ねますか?」不倫が本気になると罪悪なのだから死を選ぶのが本当である。生き残ったほうが遊びだったことになる。不倫でなければ正式な配偶者の看取りである。その違いがある。ほとんどの不倫は遊び以下の堕落なのである。女はセックスのたびに殺してと言い続けることになる。この変態性に、迷走を繰り返した作家たちは、なにかの意味を持たせたのだろうか。
渡辺にしても鶴橋にしても実際の人物は長寿を全うする病死であろう。女が死んでもいいくらい幸福ですと録音されたテープというのも変態的である。そして、さらに罪悪を複雑にして、罪さえ正義にしてしまうような弁護士という仕事の人を陣内孝則が演ずるが、この弁護士はけっこう理論的に区別して考えているような気もした。そして小説家は被害者をこれ以上さらしたくないから、テープを公開しないでくれと頼むが、女検事は、性行為の喘ぎ声と死んでもいいくらい幸福という男女の録音の声を聴いていた。そして、女検事は自らの上司の検事との性愛シーンを思い出していた。
これも不倫関係だった。検事同士が。これも現実によくあるのかも知れない。こうした職業の人物たちへの皮肉も、医師の渡辺は書いたのか。女検事を事件に担当させたのはその不倫上司だというのはどういう意味だったか。裁判のシーンでは関係者が出て来るが、民事の離婚裁判などはほとんどいないのに、殺人事件になるとなのか、また人気小説家だからか、裁判を聴きにきている人が満員である。加害者の娘と、被害者の夫の顔を写す。裁判長を本田博太郎が演じている。
裁判を傍聴している中村トオルの顔の演技も難しいだろうと思った。弁護士は自殺の嘱託殺人だということで罪を軽減させようと計らう。渡辺淳一は精神障害を持つ女の話も書いていたように思う。
変態的エクスタシーが、生命をはぐくむはずの性行為に付随してしまうという人間の性とは一体
どういう経緯でこうしたあるのだろう。BGMも女が高い声でハミングするようなもので、変態性を添えている。当人たちにとっては死とエロスの至福感覚だったのだろうが、それを容認したら社会が成り立たないだろう。裁判で、加害者の娘がいたたまれず傍聴席から逃げ出して、加害者の元妻に支えられながら去るところに多勢の報道のフラッシュというのも悲劇が滑稽にさえ思える。二世タレントでもあり、独特な容貌で美人の範疇ではあろうが微妙にも思えるような寺島しのぶがヒロインというのもそれが本格映像に思える。幽玄的な雰囲気をみせる時がある。実の親の富司純子が親を演じている。『百円の恋』の安藤サクラだと俗が強くなる。良しあしではなくて、それが個性だろうと思う。被害者の夫であり、不倫された夫でさえ、検事や弁護士に質問され、「ここは被害者をさらけ出される場なんですか。」と震えながらわめく仲村トオルの演技も難しい役柄だっただろう。こういう様子でも、不倫女が悪女の性質を備えているのが不倫現象ではないのだろうか。加害者の子供も宿したという。夫とは3人の子供があるのに。小説家は表情が変わる。だがその子供というのが、小説家が新たに執筆した小説だというのが種明かしであった。男女の性愛としては本気の性愛であったが、夫や子供たちのことや社会性を疎んじてしまっていた。公開されてから10年ほど。阿藤快や津川雅彦など故人も出演している。医師であった渡辺淳一だが、文学と法律の混在が文学の場である。文学は複雑な構成である。それを映像化するのが映画である。そして現実の社会に対して、これを基にして、どう生きればいいかというモデルケースとしなければならないし、現実社会を良いものにするために存在させなければなんにもならない。裁判所で殺される寸前の女の喘ぎ声がテープで聴かされるというのも変態的な場面である。それを真剣な顔で聴く法廷内の人達。「どうして殺してくれなかったの。私は死んでもいいくらい幸福なの」というテープの声。裁判に有利になるだろうと思っている弁護士の後ろの顔がすごい顔をしている。陣内孝則の表情の演技である。「愛は法律なんかでさばけるわけがない。誰も本当の冬香(被害者)を知らない。彼女は喜びながら死んでいったんですよ。あなたは死にたくなるほど人を愛したことがあるんですか」と小説家はわめきたてる。「本当の冬香を知らないんだ・・・」、嘱託殺人で刑を軽くしようと思っていた弁護士は机をたたく。女検事は、上司の愛人だった検事に向かって、「あなたは死にたくなるほど人を愛したことがあるんですか」と小説家の言葉を上司に投げつける。「彼女のは愛した男を犯罪者にしてまでも手に入れたいものがあった。最初の女にはなれなかったが、最後の女にはなれるかも知れない」女検事が上司の検事(演:佐々木蔵之介)に言う。「本当に愛してるなら、あたしを殺して」次の裁判が開かれる。富司純子も熱演である。女は不倫を覚悟した段階で死ぬしかないのだと、夫や母親や子供3人に気持ちを示したのだろうか。心中しないで残されたほうが言い訳は出来ないのである。それだけの魅力や魔力はあったとしても翻弄しただけだったのだ。そして理解した小説家は法廷内で、被害者の母親に無言で土下座する。そして寝取られて悪いという映像にはしていない。仲村トオルも複雑なしっかりした人物に夫を示している。そして途中で夫は法廷を出ていく。これは何を意味するか。寝取られた男の意地かも知れない。だが、このシーンが不思議だが、またその後の加害者の陳述で仲村トオルが座っている。これは辻褄が合わないようで不可解なシーンだった。トイレか。いったん席をはずして気を休めたか。遺族は難しい役柄だ。
加害者親族もだ。貫地谷の泣いているシーンも辛いだろう。愛し合って殺してくれと頼まれるエクスタシーを、選ばれた殺人者であり、冬香のために私はどんな罰でも受けたいと思いますと締めくくる。結局、変態的に行動を起こすと思考もわけがわからなくなる。判決は懲役8年だった。109号と言われることになる。留置所で、郵便が届く。冬香が生前に書いた手紙だった。被害者が好きで、被害者の名前とサインを書いた小説家の本が入っていた。一瞬小説家は顔がほころぶが、小説家と家族に挟まれて片方だけ選べなくなった苦悩が書かれていた。やがて平井堅の『哀歌』が現実からフィクションに連れ戻すが、小説家の最後のセリフが「やっぱり俺は選ばれた殺人者だったんだ」と言う。これは危険な終え方ではなかっただろうか。