愛の流刑地のレビュー・感想・評価
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木下ほうか出演
いろんなシーンで動機が不明瞭。
冬花が菊治に紹介される経緯とか、
担当検事が長谷川京子になるところとか、
そーいえば佐藤浩市はすぐ消えたなあ、とか。
たまに意味のないワンシーンがあったりと、
演出がどーなの?って感じ。
長谷川の大根演技だけじゃなく、
仲村トオルも何か変な演技だったし、
トヨエツが裁判中叫ぶところも浮いてる気がするし、
「安定の余貴美子」が目立たなすぎ。
全体の流れは、完全なる「男の願望」でしかなく、
その挙句殺した事を正当化するクソみたいな内容。
ほぼ二人の絡みばかりの半AV。
寺島さんもっとメリハリのあるお身体かと思ったら、
割とフツー、そこだけリアリティなの?
経産婦でナイスバディーなんかいないぞ、と。
でも昼間からやりまくりというだけで充分エロいが。
過失致死と嘱託殺人
越中おわら節で有名なおわら風の盆は未だ見たことがない。富山県に住んでいたにも拘らず!である。この映画でも数人が踊っていましたが、本物はこんなものじゃないはず。もっともっと壮大で、艶やかで、勇壮で、哀愁に満ちているはずなのです。その女性の踊りに見られる手の動きから、小説家村尾菊治(トヨエツ)は入江冬香(寺島しのぶ)を富山県出身だと見破ってしまう。ここがこの作品で一番素敵なところでしたが、北陸出身などと言わずに「富山か徳島では?」と聞かなかったところがミソです(そうかな?)。
渡辺淳一の映画化作品といえばほとんどがポルノだと思うのですが、今まで見てきた『化身』『失楽園』『メトレス』などよりはストーリーがあるのでずっと良かったです。何しろ不倫相手冬香は冒頭で死んでしまうのですから、裁判や冬香の真意などミステリアスな部分もあり、普通に楽しめる内容となっていました。その反面、濡れ場の激しさは黒木瞳なんかには負けていたかもしれません。
俳優で良かったのは貫地谷しほりと富司純子で、彼女たちの泣きの演技は真に迫るものがありました。しかし、弁護士役の陣内孝則と検事役の長谷川京子がダメ。まるで笑いながら尋問するかのような陣内さん。弁護して嘱託殺人の罪を勝ち取る意気込みが全く感じられないのです。そして、長谷川京子の台詞棒読み陳述は全く迫力のない検事・・・まぁ法廷シーンがメインじゃないと言われればそれまでですが・・・
なぜだか長谷川京子検事がTEACのオープンリールデッキで情事の様子を聞いていたシーンが印象に残りますちゃ。小型カセットテープレコーダーにオープンリールの対比にどのような意味があるのかわからんけど、このオープンリールデッキは一体どこから仕入れたがやろか?
エクスタシー
男はそこに導けるか、導けないか。
官能的なのに純愛なのにとても美しい。
豊川悦司さんと寺島しのぶさんだからかな。
死にたいほど愛しているから殺してほしい。
でも愛で裁くことはできない。
不倫にハッピーエンドはないんだな。
長谷川京子さんがエロすぎる。
本当の不倫は心中するしかない。迷惑だ。
『愛の流刑地』(2007)
dTVにて、配信があと2日ほどとの事で、今回の視聴に選んだ。R15指定。『うなぎ』もそうだったと思うが、この映画も濃厚なセックスシーンから始まる。映画という芸術にセックスシーンは一体どう考えるべきかという問題もあるが、セックス中に女がこのまま殺してと言い、男は女の首を絞めつける。そして女が死に、男は警察に電話をかけて逮捕される。男(演:豊川悦司)は小説家。離婚した妻が近々再婚するところ。ドライな事務的な印象を持たせているのか、そうした刑事に佐藤浩市が扮している。刑事は女が戯れに殺してと言ったのだろうと詰め寄るが、男は戯れではなくて真剣なものだったと刑事に反抗する。どうみても殺人犯の加害者だが、刑事の詰め寄りが怒ったり、暴力的な印象を持たせている様子だ。その事件に検事としてかかわる女検事(演:長谷川京子)も何かしら意味を持って関わってくる様子。加害者と被害者が初めに会うシーンがあるが、美しい映像でみせる。被害者は加害者の小説の大ファンだった。当時、小説家はスランプだったか、それを励ますために編集者の女性が隣家の被害者を、こんなに大ファンもいるんだから頑張ってとの意味で会わせたと女検事に言う。そして、被害者には夫と子供があり、不倫関係に陥ってしまう。編集者(演:浅田美代子)は小説家の意志が小説に強まるならばと見てその不倫を見ぬふりをした。時間軸が前後して、不倫に陥っていく過程が描かれる。再会は雨のシーン。これも森の中の緑と雨の中の薄明かりで美しい背景である。原作が渡辺淳一で日本経済新聞朝刊にこうした複雑で決して良くはない話が連載されたのが、2004年から2006年。テレビドラマにもなっていたとの事。リアルタイムには私はどれも接しなかった。以前に渡辺淳一は『失楽園』で話題になり、その以前にも『化身』というのを日経新聞に続けていったが、それ以前に毎日新聞に『ひろひらの雪』という、さまざまな不倫ものを書いたらしい。毎日新聞は当時とっていたから、拾い読みしたかも知れないが、記憶が薄っすらである。映画では、それぞれの子供たち。被害者のほうは幼い子供たちをみる複雑な女の心境や、加害者のほうは、高校生かその上くらいの娘(演:貫地谷しほり)が、留置場で、お父さんは自殺願望がある女性に利用されただけなんだよと泣きながら父親に
詰め寄るシーンがある。不倫が不幸な結果になるという面では、渡辺淳一は倫理観を残していたと言える。それさえないサイコパスの映画やドラマや漫画やアダルトビデオやそれを実際にしている人達がさらにいる。俳優女優でさえ、セックスシーンは恥かしいのが正常な感覚で、堅気の人達ではないわけである。それがスターとされるところにこの範疇の複雑さがあるのだが。疑似的なセックスシーンで名監督は誤魔化すのだろうが、露骨な記録者は犯罪もどきなだけである。性行為は美しいのは美しい。だから人類が続けてきて、続く原因ではあるが、それを露骨に映像記録にするのは、単純に容認するところには何らかの減退しかないだろう。子供たちへの詫びのような面が、罪を知っている二人ではあっただろう。共謀でどちらも悪いが、男のほうが悪いのだろう。そして女は殺されていなくなってしまうのだから。不倫は死ぬことが罪滅ぼしであり、本当の恋愛である。実際には獣の遊びしかないのだ。生命を育む副産物であるはずの性行為で死にもたらすのだから不倫は変態行為であり、変態行為の中でしか恋愛はないものだ。悲劇にならない不倫は遊び以下である。具体的にはベッキーとゲスなんかはまさしくゲスだったのだ。不倫された夫は仲村トオルが演じていた。やたら断片的にセックスシーンが繰り返されるが、アダルトビデオの存在なども日本社会は検討しなおす余地があるはずだろう。医師であった渡辺淳一がこうした変態エロスを書き続けたのはどういうわけだったかも考えなおす必要もあろう。監督の鶴橋康夫は、日テレのテレビディレクター出身で、『後妻業の女』も監督したが、これも変態的な内容の映画だった。
日テレのサスペンスなどはこうした人が作ってきて、渡辺にしろ鶴橋にしろ変態的な人がドラマを作ってきた意味はなんだろうかというのもあろう。被害者がいう。「私いつ死んでもいいわ。幸せ。あなたは私のために死ねますか?」不倫が本気になると罪悪なのだから死を選ぶのが本当である。生き残ったほうが遊びだったことになる。不倫でなければ正式な配偶者の看取りである。その違いがある。ほとんどの不倫は遊び以下の堕落なのである。女はセックスのたびに殺してと言い続けることになる。この変態性に、迷走を繰り返した作家たちは、なにかの意味を持たせたのだろうか。
渡辺にしても鶴橋にしても実際の人物は長寿を全うする病死であろう。女が死んでもいいくらい幸福ですと録音されたテープというのも変態的である。そして、さらに罪悪を複雑にして、罪さえ正義にしてしまうような弁護士という仕事の人を陣内孝則が演ずるが、この弁護士はけっこう理論的に区別して考えているような気もした。そして小説家は被害者をこれ以上さらしたくないから、テープを公開しないでくれと頼むが、女検事は、性行為の喘ぎ声と死んでもいいくらい幸福という男女の録音の声を聴いていた。そして、女検事は自らの上司の検事との性愛シーンを思い出していた。
これも不倫関係だった。検事同士が。これも現実によくあるのかも知れない。こうした職業の人物たちへの皮肉も、医師の渡辺は書いたのか。女検事を事件に担当させたのはその不倫上司だというのはどういう意味だったか。裁判のシーンでは関係者が出て来るが、民事の離婚裁判などはほとんどいないのに、殺人事件になるとなのか、また人気小説家だからか、裁判を聴きにきている人が満員である。加害者の娘と、被害者の夫の顔を写す。裁判長を本田博太郎が演じている。
裁判を傍聴している中村トオルの顔の演技も難しいだろうと思った。弁護士は自殺の嘱託殺人だということで罪を軽減させようと計らう。渡辺淳一は精神障害を持つ女の話も書いていたように思う。
変態的エクスタシーが、生命をはぐくむはずの性行為に付随してしまうという人間の性とは一体
どういう経緯でこうしたあるのだろう。BGMも女が高い声でハミングするようなもので、変態性を添えている。当人たちにとっては死とエロスの至福感覚だったのだろうが、それを容認したら社会が成り立たないだろう。裁判で、加害者の娘がいたたまれず傍聴席から逃げ出して、加害者の元妻に支えられながら去るところに多勢の報道のフラッシュというのも悲劇が滑稽にさえ思える。二世タレントでもあり、独特な容貌で美人の範疇ではあろうが微妙にも思えるような寺島しのぶがヒロインというのもそれが本格映像に思える。幽玄的な雰囲気をみせる時がある。実の親の富司純子が親を演じている。『百円の恋』の安藤サクラだと俗が強くなる。良しあしではなくて、それが個性だろうと思う。被害者の夫であり、不倫された夫でさえ、検事や弁護士に質問され、「ここは被害者をさらけ出される場なんですか。」と震えながらわめく仲村トオルの演技も難しい役柄だっただろう。こういう様子でも、不倫女が悪女の性質を備えているのが不倫現象ではないのだろうか。加害者の子供も宿したという。夫とは3人の子供があるのに。小説家は表情が変わる。だがその子供というのが、小説家が新たに執筆した小説だというのが種明かしであった。男女の性愛としては本気の性愛であったが、夫や子供たちのことや社会性を疎んじてしまっていた。公開されてから10年ほど。阿藤快や津川雅彦など故人も出演している。医師であった渡辺淳一だが、文学と法律の混在が文学の場である。文学は複雑な構成である。それを映像化するのが映画である。そして現実の社会に対して、これを基にして、どう生きればいいかというモデルケースとしなければならないし、現実社会を良いものにするために存在させなければなんにもならない。裁判所で殺される寸前の女の喘ぎ声がテープで聴かされるというのも変態的な場面である。それを真剣な顔で聴く法廷内の人達。「どうして殺してくれなかったの。私は死んでもいいくらい幸福なの」というテープの声。裁判に有利になるだろうと思っている弁護士の後ろの顔がすごい顔をしている。陣内孝則の表情の演技である。「愛は法律なんかでさばけるわけがない。誰も本当の冬香(被害者)を知らない。彼女は喜びながら死んでいったんですよ。あなたは死にたくなるほど人を愛したことがあるんですか」と小説家はわめきたてる。「本当の冬香を知らないんだ・・・」、嘱託殺人で刑を軽くしようと思っていた弁護士は机をたたく。女検事は、上司の愛人だった検事に向かって、「あなたは死にたくなるほど人を愛したことがあるんですか」と小説家の言葉を上司に投げつける。「彼女のは愛した男を犯罪者にしてまでも手に入れたいものがあった。最初の女にはなれなかったが、最後の女にはなれるかも知れない」女検事が上司の検事(演:佐々木蔵之介)に言う。「本当に愛してるなら、あたしを殺して」次の裁判が開かれる。富司純子も熱演である。女は不倫を覚悟した段階で死ぬしかないのだと、夫や母親や子供3人に気持ちを示したのだろうか。心中しないで残されたほうが言い訳は出来ないのである。それだけの魅力や魔力はあったとしても翻弄しただけだったのだ。そして理解した小説家は法廷内で、被害者の母親に無言で土下座する。そして寝取られて悪いという映像にはしていない。仲村トオルも複雑なしっかりした人物に夫を示している。そして途中で夫は法廷を出ていく。これは何を意味するか。寝取られた男の意地かも知れない。だが、このシーンが不思議だが、またその後の加害者の陳述で仲村トオルが座っている。これは辻褄が合わないようで不可解なシーンだった。トイレか。いったん席をはずして気を休めたか。遺族は難しい役柄だ。
加害者親族もだ。貫地谷の泣いているシーンも辛いだろう。愛し合って殺してくれと頼まれるエクスタシーを、選ばれた殺人者であり、冬香のために私はどんな罰でも受けたいと思いますと締めくくる。結局、変態的に行動を起こすと思考もわけがわからなくなる。判決は懲役8年だった。109号と言われることになる。留置所で、郵便が届く。冬香が生前に書いた手紙だった。被害者が好きで、被害者の名前とサインを書いた小説家の本が入っていた。一瞬小説家は顔がほころぶが、小説家と家族に挟まれて片方だけ選べなくなった苦悩が書かれていた。やがて平井堅の『哀歌』が現実からフィクションに連れ戻すが、小説家の最後のセリフが「やっぱり俺は選ばれた殺人者だったんだ」と言う。これは危険な終え方ではなかっただろうか。
トヨエツ好きなんです
10年ぶりにまた観ました。トヨエツファンです。愛の最上級は死なのでしょうか。同じは続かないもの、いつか終わる時が来るならば、死んでしまいたい。なんて思えるほどの恋愛はしたことはないなぁ。片思いしてる位が楽しいのかも。永遠に片思いしまーす。
蝕まれたい貴方の愛で。主題歌すげ。
その手で
その手で私を汚して
何度も
何度も私を壊して
汗ばむ淋しさを重ね合わせ
眩しく見えない闇に落ちていく
いつか滅び逝くこのカラダならば
蝕まれたい貴方の愛で
「蝕まれたい貴方の愛で」とか。なかなか出てこないです。平井堅って凄い。
あ、すみません。平井堅「哀歌(エレジー)」です。
この曲は、ご存じ、渡辺淳一先生原作の映画化「愛の流刑地」の主題歌です。
以前は売れっ子恋愛小説家だったが、現在は落ち目の村尾(豊川悦司)が、友人の紹介で知り合った人妻の冬香(寺島しのぶ)との情事に溺れる。結果、予想しなかった結末が。
「この純愛が理解できないのは感性が劣っている」と、先生は生前に仰っていたようです。冬香に溺れて、段々情けなく、滑稽になっていく村尾に対して、性の歓びを知って、女として美しく開花していく冬香。寺島しのぶは、けっして美人ではないですが。真っ白なワンピースを着て、ある決意を胸に鏡の前に立つ姿は、はっとするほど美しかったです。
仕事でやむなく原作も読んだですが、明らかに映画の方が文学の香りがします。あ、先生すみません。でも、先生本人も、映画化作品の中では一番気に入っていたとか。
ある決意とは、村尾に自分(冬香)を殺させること。その真意は、後半分かります。
逮捕されてから村尾は、冬香の、自分達の、愛の純粋さを証明することに拘ります。
検事(長谷川京子)に、「愛しているから殺した」と主張する村尾。また検事側がいう「過失致死罪」ではなく、あくまで「委託殺人罪」を主張。
「冬香を情事の果てに殺された愚かな女にしたくない」
「冬香はそんな女じゃない」
一環して、そう言い続ける村尾ですが、周囲の見解とは大きくかけ離れています。当然です。
さて、ここまで書きましたが。あ、今更、言うことではないかも知れませんが。この映画に共感する為には、あるポイントをクリアする必要があると思うのです。それは以下の通りです。
1、バーのママ(余貴美子)が言います。人間は二種類だけ。「それ(性の歓び)を知ってる女と知らない女、そしてそこに導ける男と、そうじゃない男」
2、自分達の愛情の純粋さを主張し続けていた村尾ですが、裁判が進む内に、客観的に事件を見つめ始めます。そして、やっと気付くのです。何故冬香が、自分を殺せと言ったのか。つまり、自分を殺させることで、村尾を自分に縛り付けることができる。究極の束縛なんです。それを知って、「選ばれた殺人者」と、何故か歓びの境地に辿り着く村尾。
つまり、知ってる女と、導ける男と、この究極の束縛と、村尾の歓びの境地が理解できないと、なかなか共感できないと思われるのです。先生に言わせれば、それは「感性が鈍っている」のかも知れませんが。ぶっちゃけ、私は1はクリアでも、2がクリアできません。故に、裁判で情事の録音テープを聞かされる冬香の夫(中村トオル)の、苦渋に満ちた表情だけが強く記憶に残りました。酷い。酷すぎます。
究極の束縛と言いましたが、私はそこに先生がいうような純粋さを見出すことはできませんでした。しかし、恐らく冬香自身も、このテンションでずっと永遠に村尾と会い続けることが不可能と気付いていた。精神的にも、肉体的にも。だから、この関係が終わる前に、先手を打ったように思えました。それは純粋さというよりは、寧ろ狡く、そしてとても愚かに思えました。
けれど恋愛の前では、少し愚かな女でいたいような気もするから、困ります。
“愛”という言葉で美しく着飾られているだけの映画
渡辺淳一の作品は見る人を選ぶ。
映像化されても文学的で、登場人物も自分に酔っている感じを覚える。
「愛していたから殺した」と豊川悦司演じる村尾は言うが、殺人は殺人、“愛故に”という言葉ではぐらかされている気がする。よって、ラストの「選ばれた殺人者」も全く理解出来ない。
「愛しているなら殺して」とは聞こえはイイ。
でも、それが成り立つのは小説や映画の中だけ。だからこそ究極の愛の形を連想させる。
寺島しのぶが儚い愛を体現するが、やはり結局、最後まで内容や村尾の動機に共感出来る事は無かった。
実力派俳優の中に混じって、変に色っぽい長谷川京子が目立つ…とにかく目立つのだ、下○な演技が。
テレビ放映なんか捨てる覚悟で作ってほしい
余人には測り知れない愛のカタチがある。だが、その愛は余人に犠牲を強いることがある。そして、この作品で愛のカタチを知った気になるなかれ。
ハセキョンは好きだけど、女性検事の過度な色香は鼻につく。
まともに描いたらテレビ放映できなくなるし、中途半端なところが多い。
エンド・ロールのバックはいかにもサスペンス劇場風で、これもテレビ放映を意識してか?
とにかく変。とりたてて変。
自ブログより抜粋で。
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しかしこの映画版、展開が断片的な上、心象風景の羅列だらけで、鑑賞中かなり眠かった。
登場人物に生活感が乏しく、不倫という設定にその言葉から伺えるいかがわしさとは裏腹に、まるっきり生々しさがない。
役者陣では長谷川京子の演じる検事のキャラが変。とにかく変。とりたてて変。演技が下手だとか以前に彼女の目付きが気持ち悪いんだけど、それにいったいどういう狙いがあるのかまったくもって理解できない。
あと、富司純子の演技にはさすがの貫禄を感じるんだが、登場の仕方があまりに唐突。
でも、それにも増して長谷川京子が変さが強烈過ぎて、そのインパクトは主役である豊川悦司や寺島しのぶの存在感すら霞んでしまうほど。
正直どうにもこうにもいいところを見つけられない失敗作。
そこに導ける男とそうでない男
映画「愛の流刑地」(原作・渡辺淳一)から一言。
(監督:鶴橋康夫さん、主演・豊川悦司さん・寺島しのぶさん)
想像力の豊かな方は、もうこの台詞でわかるらしい。
想像力の乏しい方のために、ちょっと解説。
まぁ、Hネタには決まっているけど・・。
冒頭は「女には2つのタイプがある。
それを知っている女とそうでない女」
そのフレーズを受けて「そこに導ける男とそうでない男」。
なるほどなぁ、とメモをした。(汗)
本当は、大好きな女優、寺島さんが呟いた
「私、初めてお逢いした時とは、
別の人間になっているんでしょうね」、
「天まで舞い上がった女は、もう地上へは戻れません」、
「ください、あなたとつながっていたいの」などを
メモしたんだけど、そのあとがうまく纏められなくて(笑)。
本当に「日経新聞朝刊の連載小説」とは、考えにくい内容だから、
「朝から読む小説じゃない!」とクレームが入るとか。
でも、このために「併読紙」から「単独紙」になることも・・。
頑張れ、日経新聞。(汗)
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