「虚像の中の虫」TAKESHIS' すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
虚像の中の虫
⚪︎作品全体
北野作品において、『その男、凶暴につき』から『キッズ・リターン』あたりまでの時期は、登場人物の感情や物語のテーマが極めて実直に描かれていたように思う。冷淡ともいえるほどそっけない演出の中に、むき出しの熱量が注がれており、それが北野武という映画作家の“核”だった。
暴力の描写もまた、飾り気のない演出と切り離せず、だからこそ、その暴力が持つ悲しみや孤独が、心に深く突き刺さった。無表情のカット、ただ歩くだけのシーン…そういった無色の積み重ねが、「暴力」という色を際立たせていたのだ。
だが、『菊次郎の夏』以降、北野作品は徐々に「芸能」という衣をまとうようになる。精神世界を演劇的に描いたり、伝統芸能とモダンダンスを融合させたりする演出が増えた。『座頭市』のタップダンスがわかりやすい例だろう。北野武自身が芸能の人であることを考えれば、自身の武器を活かした演出ともいえる。だが、それが北野作品にとって本当に必要だったのかと問われれば、疑問を感じる。
本作もまた、そうした“芸能をまとった北野作品”の一つだ。暴力という北野作品における持ち味は本作でも重要な役割を担っているが、あまりにも芸術的な装飾が施されすぎていて、その本質的な力が活かされていないように感じた。
物語自体は、芸能人・ビートたけしと、売れない俳優・北野武の二重構造を通して、「虚像」と「実像」の対比や、「理想」と「現実」のギャップを描こうとしている。その意図は明確で、スター俳優とコンビニ店員、花束とそこに巣くう虫など、対比的なモチーフが印象的だった。だが、それらのストーリーを“芸能的演出”が補完するのではなく、かえって不純物が混ざったような曖昧さを抱えていた。
とくに、美輪明宏やタップダンス集団といった演出は、それぞれがあまりにも独立した存在感を持ちすぎていて、物語の一部というよりも舞台ショーのように浮いてしまっていた。夢と現実を行き来する構成や、そこで繰り広げられる悪夢、暴力、崩壊といった主題には惹き込まれる部分もあったが、本来そこに見えるはずの“狂気の純度”が、過剰な演出によって濁ってしまっていたように感じる。
もちろん、ステージショーに長い時間を割いていることからも、北野武にとってこの作品が“芸能を通じた自己表現”であることは理解できる。だが、私が魅力を感じるのは、芸能人・ビートたけしではなく、むしろその裏にいる無名の北野武である。本作の中でも、虫が花束の中に巣くっている描写は、まさに“虚像の醜さ”を象徴していた。スターであることの虚無感、それによって蝕まれる精神の脆さを、「虫」として表現していたのだろう。
しかし、私にとってこの作品の「虫」は、「芸能」そのものだ。かつての北野作品で咲いていた暴力という“花束”は、芸能という装飾が入り込むことで、輝きを失ってしまったように思う。
『TAKESHIS’』は、芸能人・北野武の表現の到達点かもしれない。だが私は、あの乾いた暴力と、その隙間に浮かぶ人間の孤独を、飾り気なく描いていた映画人・北野武に、もう一度出会いたいと感じた。
⚪︎カメラワークとか
・ステージ上のタップダンスとかをやたら平面的に映していた。『菊次郎の夏』のコメディパートもそうだったけど、テレビのバラエティ的カメラワークだった。
⚪︎その他
・おっぱいDJは衝撃だったけど、思いつき感が強くて笑ってしまった。
・北野武、タップダンス好きすぎる。映像で見ても魅力が半減しちゃってる気がするけど…
・岸本加世子と大杉漣が良かった。岸本加世子の本気でムカつく嫌がらせ、大杉漣の食えない人物像。大杉漣が終盤で「金もらってくぞ」ってあっさり銀行の金を持って行ったのが面白かった。
・終盤のマシンガン乱射の銃撃戦は『ソナチネ』から続く伝統芸だけど、長いし蛇足感がすごい。勢揃いでクライマックスのはずなんだけど、とっちらかった安いバラエティ番組っぽさがキツい。